3-23
エフェメラは大陸とは逆側の、水平線のみが続く海を振り向いた。この水平線を二日間進んで行けば、トウノクニが見えてくるという。
「ミナモさんやサザさんたちを見ていると、トウノクニがいったいどんな国なのか気になってくるわ」
「なら、いまから一緒に行きます?」
サザがごく自然に訊いた。エフェメラは激しく戸惑った。
「ええっ! いまから?」
「船に花が足りなくて困ってたとこっすから、エフェメラさんが来てくれると助かります。あのお転婆に、女らしさってもんを教えてもらえたら」
「え、えっと……」
「サザ! 聞こえてんぞ!」
ミナモが帆柱に掛けられた綱にしがみつきながら叫ぶ。綱の上方にはニックがしがみついていた。サザは笑いを堪えながらミナモに近づいていく。エフェメラは本気で誘われたわけではないのだとようやく気づいた。初対面の人との会話には、まだまだ慣れないなと思う。
船が波を裂いて進む音に混ざり、街の鐘楼の音が聞こえてきた。一定の間隔で響いてくる鐘の音は、何故か少し寂しく聞こえる。潮風がエフェメラの前髪をさらさらと揺らした。エフェメラは風の気持ちよさに目を細めた後、ディランの姿を探した。
ディランは反対側の船べりにいた。一人ではない。サザと同じ年頃の、怒ったようにずっと眉根を寄せている青年と一緒だ。彼はディランの知人らしく、一緒に船に乗ってきた青年だった。ディランは今日一日、エフェメラと会うまでこの青年と一緒にいたという。
青年はディランと同じ青藍色の瞳だった。つまり渓谷の出身者ということだ。ディランは渓谷の人に仕事を手伝ってもらっていると言っていたため、恐らく彼がそうなのだろう。
エフェメラは会話をする二人に近づいた。ディランの妻として、青年に挨拶をしておこうと思った。
×××
ディランはニックとともに船内の部屋を見て回った後、船べりから海を眺めるブラウに一人で近づいた。実際はブラウは、海を眺めていると見せかけて船員たちの会話に耳を傾けているのだろう。足音に気づいたブラウはちらりとディランを見て、すぐに視線を前に戻した。小さな声で訊く。
「どうだった?」
ディランは船内を調べた結果を答えた。
「予想は外れたと見てよさそうかな。彼らに大陸侵攻の意思はない」
「となると、消えた武器は……」
「うん。あんまり考えたくなかったけど、たぶん売ってるんだろう。相手はウィンダル人か、サンドリーム人か、もしくは剣の噂を聞きつけたオウタット人か――いずれにせよ、予想してた方向とは異なる問題になりそうだ」
「どこまで調べる?」
「剣の購入者を特定させるところまで。結果を報告し、陛下に改めて指示を仰ぐ」
「作戦はどうする?」
「あのミナモという船長に直接交渉する。状況によっては、金も使う。――この船はどうやら資金を集めたいらしい」
「作戦はわかったが……穏便にいくかな」
「それはわからない。最悪の場合はもちろん武力行使だけど、戦わないで済むならそれに越したことはない」
ブラウは軽く肩をすくめた。
「お前は相変わらずだな。――実行はシーニーか? 顔を知られてねえし、交渉なら警戒されにくい同性のほうがいいかもしれない」
「うーん……シーニーかぁ」
「交渉の忍耐と愛想は足りねえかもな。けど、へりくだったからって回答が変わりそうな性格にも見えねえぞ、あの女船長は」
「……それも、そうかな。そういえばシーニー、怒ってないかなぁ。異邦人たちと接触しないよう気をつけてたのに、俺が勝手に飛び出したから」
ここ数日、ディランとシーニーとブラウは、ずっとミナモたちの様子を観察していた。今日も朝から様子を探っていたが、午後、ミナモが向かった先にエフェメラとニックが現れた。ディランは心底驚いた。二人が船に向かった時などはシーニーの制止がなければ止めに入っていたところだ。だが結局、エフェメラが海に落ちたので思わず飛び出してしまった。
何かあった時のため、ブラウだけがディランについてきた。シーニーは一人街に残っている。
「確かに怒ってたな。開いた口が塞がらないって感じだったぞ」
「やっぱり。しばらく不機嫌だろうな」
「だがまあ、仕方ねえとこもあったさ。落ちた相手が相手だ。ほかのやつが助けるまで、呑気に観覧してるってわけにもいかねえだろ」
ブラウが反対側の船べりに目線を流す。エフェメラとサザが会話をしているのが見える。
「にしても、見事な落ちっぷりだったな。あの王女、普段でもあんな鈍臭えのか?」
街から鐘楼の鐘の音が響いてきた。労働の終わりを知らせる夕方の鐘だ。労働者の休日である太陽の日以外、この時間になると毎日鐘は鳴っている。
ディランはブラウの言葉に反応することを忘れぼんやりと鐘の音を聞いていた。瞳に映る夕陽色の波は、進む船から広がっては海に飲まれて消えていく。ややあって、ディランはブラウに名前を呼ばれ我に返った。
「どうしたんだ、ディラン」
「ああ、ごめん。ぼーっとしてた。えっと、フィーの普段の様子だっけ?」
「ああ、そうだが……そりよりお前、なんだか顔色が悪くねえか?」
ディランはぎくりとした。
「あー、もしかしたら、船酔いしたかな」
「街に戻るまでもう少しかかるはずだが、平気か?」
「うん、それほどひどくないから。でもそうだな。水でももらって――……」
ディランは後ろに気配を感じて口を閉じた。振り向く前に、鈴の音のような透き通った声がした。
「あ、あのっ」
エフェメラだった。花柄の着物がよく似合っていて、桃花色の髪に飾られた紅い花が帯とよく合っている。ディランは一瞬見惚れた。エフェメラはもじもじと躊躇いがちに言う。
「わたしも、お話に加わっても、よろしいでしょうか?」
ディランは内心驚きつつも平静に頷いた。
「構わないよ」
「ありがとうございます。……ええっと……」
エフェメラの視線はブラウを窺っていた。ディランは紹介がまだだったことを思い出す。
「ブラウっていうんだ。渓谷出身で、俺が昔からよくお世話になってる人」
「ブラウさん、と言うのですね。は、初めまして。わたしは、エフェメラと申します。ディランさまとは、アプリ―リスに結婚をさせていただきまして……」
ブラウは厳めしい顔のままぼそっと言葉を返した。
「どうも」
エフェメラは戸惑い顔になる。ブラウを怒らせたと勘違いしたらしい。
「普段からこういう顔なんだ。気にしなくて大丈夫」
「あ、はい……。よろしく、お願いします」
ブラウは普段から笑みが少ないが、エフェメラへの態度はより一層そっけなかった。これはエフェメラをよく思っていないからというわけではなく、渓谷では外の人間と距離を置くように教えられて育つためだ。何故このような教えがあるかと言えば、相手に情が移るといざ殺さなければならなくなった時に困るためだ。教えを守らず普通に接する者も中にはいるが、ブラウやシーニーなどは根が真面目なため律義に守っている。
三人の間に沈黙が流れた。エフェメラは話題を振りたいが何がいいか悩んでいる様子で、ブラウは余計なことを話すつもりは端からない様子で目線を外している。
両者の希望を汲むにはどうするべきか、ディランが考えていると、鳥の羽音が空から近づいてきた。船べりに、真っ白な腹以外すべて瑠璃色の、よく知る鳥が下り立った。
「あっ!」
ララに気づいたエフェメラが声を上げる。ララは優雅に羽をたたむと、すぐそばにいるディランの腕をつつき始めた。
「この鳥は! もしかして、シーニーさんの鳥ですか?」
「うん。ララって言うんだ」
「ララさん! やっぱり女の子だったんですねぇ……。どうしてディランさまをつついているんでしょう」
「シーニーの伝言を届けにきたみたいだな。――ララ、わかったから、痛い。やめてくれ」