3-21
「トウノクニ……」
エフェメラが呆然としていると、先ほどミナモに声をかけてきた青年が近づいてきた。歳は二十歳ほどだろうか。襟足を刈り上げた黒髪と切れ長の瞳に、エフェメラは少しだけ怯んだ。
「すんません。うちのお嬢が何か迷惑かけたんじゃありません?」
青年が訊いた。声の調子は存外に穏やかだ。エフェメラの代わりにミナモが答える。
「かけてねーよ。てか、あたしのことは船長と――」
「かけてないなら、なんでこの子どもは頭押さえて転がってんすか?」
青年が指差す先で、ニックが頭を両手で押さえながら倒れていた。エフェメラは仰天してそばに寄った。
「ニック!?」
「うう……なぐられた頭が、すごくいてえ……」
「そんなっ!」
エフェメラは焦った。ミナモもうろたえる。
「え? あたし、んな強く殴ってねーぞ? いやまあ……ガキ相手にしては、ちょっとばかし強かったかもしんねーけど」
「はあ……。お嬢は見た目だけじゃなくて、中身も子どもなんですか?」
溜め息混じりに青年が言うと、ミナモが眉を吊り上げた。しかしニックの痛がる声にまた狼狽する。
「う、うそだろ?」
「ひとまず船に運びましょう。うちの船医に診てもらうのが一番早いです。――この子、俺らの船に連れてきますが、いいっすか?」
エフェメラは頷いた。青年はニックを横抱きにし、桟橋が連なる船着き場の奥へ急いだ。エフェメラとミナモもそれに続く。
途中、木箱や麻袋を運ぶミナモの仲間らしき人たちを追い抜いた。彼らが向かうのは一番奥にある桟橋だ。そこには、周りの木船とは比べものにならないほど大きな船が停まっていた。甲板に三十人は余裕で乗れそうで、船体も巨大だ。目を引く白い大きな帆は、二本ある帆柱に三枚ずつ張ってあり、前の帆柱から船首にかけては三角の帆も張ってあった。
「この船で海を渡ってきたの?」
エフェメラが船を見上げ訊くと、ミナモが頷いた。
「ああ。これはあたしの船――ダイエンネツジゴク丸だ。強そうな名前だろ」
ミナモは誇らしげに言った。船名も気に入っている様子だ。考えるのに半年かかったとさらに教えてくれたので、エフェメラは「へえ」と相槌を打った。
ニックを抱いた青年は、桟橋から船のへりにかけられている木の板を上り始めた。木の板は急な角度で立てかけてある。青年の後ろに続きながら、ミナモがエフェメラに注意を促した。
「桟橋の高さが足りなくてな。滑らないよう気をつけて上れよ」
「わかったわ」
エフェメラは力強く返事をし、気をつけながら木の板を上った。
「あ」
そして滑った。木の板から海へと落ちていく。海面にぶつかる寸前、驚愕するミナモの顔が見えた。
水飛沫が上がる大きな音と同時に全身が水に包まれた。落ちてすぐ目を開けたつもりだったが、海面にはすでに手が届かない。視界が暗く、動きが重い。
エフェメラは浮上しようと手足をめちゃくちゃに動かした。だが水を吸った服は足にも重くまとわりつく。息が苦しい。全身が空気を欲しているのに、体は海の底へと沈んでいく。
暗い海の中から離れていく光を見上げながら、そういえば水を蹴るようにして泳ぐのだとアラベリーゼから教えてもらったことを思い出す。エフェメラは精一杯足を動かした。それを助けるように、何かがエフェメラの腕を強く引く。人の手だ。手はエフェメラの胴体も掴み、力強く上へと引っ張る。
力強さから相手が男だとわかった。ニックを運んでいたミナモの仲間の青年かもしれない。海面に顔が出た瞬間、エフェメラは咳き込みながら必死に息を吸った。肺に空気が入り体中を巡っていく。感覚もはっきり戻り、頭も冷静に働き始める。
助かった。それほど長く溺れていたわけではないのだろうが、苦しくて仕方がなかった。隣にエフェメラの体を支えてくれる人がいた。助けてくれた礼をしなくてはと顔を見る。相手はミナモの仲間の青年だと思ったのに、だがエフェメラの視界に映ったのは、濡れた金髪と、その奥の夜空色の瞳だった。
「……ディランさま……」
驚いてディランを見つめた。ディランはエフェメラの顔を見てほっと息をつき、その後に、複雑そうな表情で帆船を見上げた。