3-20
ニックは「うーん」と唸りながら、貝菜巻をどんどん食べた。食べながら、言葉を選んでいるようだった。
「きらってるやつもいる。みんながって、わけじゃない」
「……どうして嫌ってるの?」
「なんか、大公さまがサンドリームに逆らえないからだって言ってる。言われたことには、たとえいやでも頷かなきゃいけないんだって」
「そんなこと……ないわ。わたしには、そんな風には見えなかったもの」
シュトホルムはエフェメラとディランを歓迎してくれた。アラベリーゼだって、エフェメラやディランを嫌っているような態度はとらなかった。
「ニックだって見たでしょう? 海で大公さまや公妃さまたちと泳いでいた時、わたしやディランさまは、嫌われているような扱いは、少しも受けてなかったわ」
少なくともエフェメラはそう感じた。それとも、彼らの笑顔は全部嘘だったというのだろうか。
「おれはさ、宮殿の中けっこー回ってるし、そうなれば、ちょっといやなうわさ話を聞くこともある。エフェメラ姉ちゃんはわかんないだろうけど、いまは、宮殿の空気がいつもよりぴりぴりしてるなーって感じるよ」
「そんな……」
エフェメラは絶句した。まったく気づかなかった。宮殿を回った時だって、女官はみな優しくて、エフェメラには何もかも違和感なく見えた。
「……おれもさ、ほんとはサンドリームはあんま好きじゃなかったんだ」
ニックが変わらぬ調子で続けた。エフェメラは傷ついてニックを見た。
「でも、いまはそんなことねーんだ。まわりが悪く言うから、おれもサンドリームっていやな国だなーって思ってたけど、サンドリームの王子であるディラン兄ちゃんには、命をすくってもらったし、エフェメラ姉ちゃんだって、すっげーかわいいし、やさしいし」
ニックが歯を見せて笑う。「おっぱいもでけーし」と付け加えたため、エフェメラは小さく頬を膨らませて怒った。
「だからおれ、いまはサンドリームきらいじゃねーよ。むしろ好きになったくらい。ディラン兄ちゃんと、エフェメラ姉ちゃんのおかげでな」
明るく言ってから、ニックはまた貝菜巻を食べ始めた。エフェメラはニックの素直な想いに泣きそうになった。それを隠すために自分も夢中で食べているふりをする。
たぶん、サンドリーム王国は、実際にウィンダル公国に不平等な要求をすることがあるのだろう。そうでないと、アラベリーゼだって大浴場であんな言葉を言ってこない。だがきっとその不平等な要求は、サンドリーム王国の平和のために必要なものなのだ。ディランの言葉を借りるなら、ウィンダル公国の犠牲は『十人のうち九人が幸せになるための犠牲』だ。
ニックは貝菜巻をすべて平らげ満足そうに腹を撫でた。エフェメラは少し余してしまったため、ずっとそばで首を長くしていた海鳥に千切って食べさせた。海鳥の嘴が、エフェメラの手に乗る千切れた貝菜巻をさっと奪う。また手に乗せると、また嘴に奪われる。また手に乗せると、今度は人間の手が貝菜巻を奪った。
(あら?)
数羽の海鳥に混じって少女がいた。歳はエフェメラよりも下だろう、腰よりも長い黒髪を一本に結い上げ、貝菜巻の切れ端をおいしそうに食べている。
食べ終わると、少女は期待する目でエフェメラを見た。エフェメラは最後のひと欠けを手の平に乗せて差し出した。嘴よりも先に少女の手がそれをとる。すると、怒った海鳥たちが少女を攻撃し始めた。少女は立ち上がり腕を振り回す。
「いってえなあ! 早いもん勝ちだろっ!」
行動も変わっているが、恰好もおかしな少女だった。エフェメラが初めて見る服装だ。膝丈の華美な布を羽織り、幅広の布を腰の位置に巻いている。服に留め具はなく、腰の布を緩めれば服が前から開けてしまいそうだ。
靴も変わっていた。普通は布や革で作られるが、木で出来た靴だった。靴と言っても足は覆われておらず、木の板の上に足が乗っているというだけのものだ。何故足が離れないのかとよく見ると、親指と人差し指の間に紐を通して固定しているようだった。木の靴は、少女が海鳥を追っ払おうと動くたびにカタコトと地面を打った。
食べ物の恨みは怖いのか、海鳥たちはなかなか攻撃をやめようとしない。少女はとうとう腰に差していた剣を抜いた。やけに細い剣だ。長さは普通の剣と変わらないか、もしくは少し長いくらいなのに、幅がナイフと同じほどしかない。少女が剣を振り回すと、さすがの海鳥たちも逃げ出した。少女は満足げだ。
「……誰これ。エフェメラ姉ちゃんの、知り合い?」
そっと身を寄せ訊くニックに首を横に振っていると、遠くから呼び声がした。
「お嬢ー。何してんですかー」
二十歳くらいの青年だ。少女と似た恰好をしている。青年の周りには木箱を持った同様の男たちが数人いた。知り合いらしく、少女は振り返り叫ぶ。
「お嬢じゃねえ! 船長だ! 何回言ったら直すんだよ、お前は!」
女性にしては粗野な喋り方だ。少女は間の抜けた顔をしているエフェメラとニックに気づくと、細い剣を鞘にしまいながら笑った。
「ああ、悪いね。うまそうな匂いがしたからさ、つい。でも、鳥にやるくらいならあたしにやってもいいだろ?」
よく通る声だとエフェメラは思った。ニックはしばし黙考した後、「あっ!」と声を上げ立ち上がった。
「お前、さては最近さわぎになってるイホージンだな!」
「いほーじん?」
エフェメラが訊くと、ニックが興奮気味に続けた。
「海の向こうの島から、船で来てるってやつらだよ。しばらく前からたまに来るようになったんだ。なんかさ、使いにくそうなへんな剣売ってんの。その船長っていえば、たしか名前は――」
少女がニックの頭の頂点を殴った。ニックは声を上げてうずくまる。
「変な剣とは失礼だな。この国の剣よりも、あたしらの剣のほうがずっと優秀だっての」
エフェメラは怒る少女を目を瞬かせ見つめる。海の向こうに島があるというのは知っていた。スプリア城の講義で習った。十数年に一度、異国の物が漂流してくることがあるという。だからほぼ未知の存在といってよかった。こうして目の前にいる人間が見えもしない島から来たなど、おとぎ話に近い。
少女が表情を変えてエフェメラを見た。髪色と同じ黒色の瞳は、気の強そうな色を宿している。
「おいしかったよ。ありがとな」
「あ、いえ……」
少女は身を屈ませると、エフェメラの桃花色の髪や銀色の瞳を珍しそうに見た。
「外の国の奴ってのは、やっぱり信じられねー容姿してんなぁ。その髪、染めてるわけじゃねーんだろ?」
「え、ええ。生まれつきよ」
「へー」
少女はしばらく観察するようにエフェメラを見た後、何かに気づき、明るく言った。
「っと、申し遅れたね。あたしの名前はミナモ。海を渡って、灯ノ國から来たんだ」