3-19
「ほら。おれがおぼれた時にいっしょにいたやつと。覚えてるだろ?」
エフェメラは紫色の髪の若い男を思い出した。助かったニックを背負いながら、ディランに礼を言っていた男だ。エフェメラは思わず憐れみを瞳に浮かべる。
「それは……残念ね」
「だから、そんなんじゃねえってばっ!」
「ニックは、これから大きくなってどんどん格好良くなるでしょうし、きっとすてきな女性とたくさん出会えるわ」
ニックはもう一度否定しようとして、だが力が抜けたように木の柵に寄りかかった。
「本当に――本当にいいんだ。どっちも、大好きな人たちだからさ。――だからおれ、二人が結婚するの、すっげーうれしいんだ」
ニックは笑った。向けられた笑顔は本物で、その男とソフィア姉という女性をニックが本当に大切に想っていることが感じられた
高台広場の『愛の鐘』を確認した後は、すっかり遅くなった昼食をとるため、ニックの提案で露店市場へ行くことにした。露店市場は、高台を下り宮殿とは反対方向にしばらく歩いた場所にあった。狭い通りに、だが百以上の店がずらりと並んでいた。どの店の上にも陽射し避けの分厚い布が大きく掛かり、人々が歩くところまで日陰を作ってくれている。
「ここで手に入らないもんはまずねえかな。下町でくらすやつらは、みんなここで買い物をするんだ。朝早くから夕方まで、ずっと人がいっぱいいるんだぜ」
エフェメラの視線は右へ左へ忙しなく動いた。すぐ近くが船着き場となっているらしく、露店市場は潮の香りで満ちていて、たまに露店が切れたと思ったら紺碧の海が間近に見えた。
「ここの魚屋のじいちゃんは耳がとおくてさ、魚三つって言ってんのに、いっつも六つわたしてくるんだ。――そこの角のパン屋は、たまにパン一個を穴銅貨一枚で売り出す。そん時はもうすっげー行列。――あの緑の看板の店は香辛料屋なんだけど、店主のばあちゃんがすっげー太ってて、いつもどんっと椅子に座ってて、立ってるところを見たやつはいねえってうわさ」
知人なのだろう、ニックに声をかけてくる店主たちも多かった。店主の一人が、甘橙と檸檬の果汁を合わせて水で薄めた飲み物を分けてくれた。売り物の花をエフェメラに分けてくれた店主もいた。飲み物は美味しかったし、もらった花は頭に飾った。
「ここの店が、おれのおすすめなんだ」
ニックがある露店の前で立ち止まる。店の前には大きな貝殻並べてあり、よく日焼けした店主が鉄板の前に立っていた。小麦を水で捏ねて伸ばした生地に、貝と野菜を巻いたものを焼いている。味付けのたれが焦げ、香ばしい匂いが漂っていた。
「貝菜巻って言うんだ。おいしいんだけど、たけえからあんま食いに来ねえんだ。……でも、今日はいいや! こづかいもまだ残ってるし! ――おっちゃん、二つちょうだい!」
「おう、ニック。久しぶりだな。――なんだ。見ねえ嬢ちゃんと一緒じゃねーか」
「ウィーダにあそびに来たんだってよ。まちの案内してやってんだ」
「へー。そういうことなら、二人で銅貨一枚でいいぜ」
「ほんと?」
ニックは顔を輝かせた。首から提げていた紐を引っ張り、服の下から小さな布袋を取り出す。袋を開くと中には穴銅貨が入っていた。エフェメラは感心した。財布を落としたり盗まれたりしないよう、用心して隠しているのだ。
「ニックは本当にしっかりしてるわね」
「これは、ハロルドがこうしろってうるさいんだ。おれは、こんなガキっぽいことしなくて大丈夫だって言ってんだけど……」
ハロルドとは、川で会った若い男のことだろう。親子関係にしては歳が近いため、親戚か何かだろうか。
「ここ、普通は一つ穴銅貨九枚すんだ。おれはよく来るから、だいたい七枚に負けてもらってんだけど、今日はエフェメラ姉ちゃんのおかげで五枚で食べられるや」
ニックは袋から穴銅貨を五枚取り出し店主に渡した。そこでエフェメラは初めて気がついた。
「ニック。わたし、お金を持っていないわ」
エフェメラは何となく流れでニックが払ってくれるのだろうと思い込んでいた。当然ながら、ニックは各々で支払うつもりだったようだ。顎を落とす勢いで口を開ける。
「え! なんで持ってねえの? サンドリームってお金持ちの国で、しかも姉ちゃん、そこの王――」
エフェメラはニックの口を慌てて手で覆った。ここで王子妃だと大きく話されるのは好ましくない。ニックもすぐに察する。エフェメラはゆっくりと手を離した。
「ごめんなさい。わたし、お金のことをすっかり忘れてて」
「そ、そっか……。じゃあ、しかたねえな……おれが、払うか……。まあ、男と女が二人で何か食べる時は、女に金を払わせたら、男がすたるってもんだしな……」
ニックは渋々穴銅貨をもう五枚出す。硬貨袋はちょうど空になった。エフェメラは申し訳なさで一杯になった。
「……嬢ちゃん、もしかしてサンドリームから来たのか?」
店主が訊いた。打って変わった冷めた声色だった。エフェメラは貝菜巻を受け取りながら頷く。
「そうか」
それきり、店主はエフェメラを見ようともせず黙って鉄板に向かった。ニックがエフェメラの手を掴み、店を離れるよう無言で促す。
商店街を抜けると船着き場に出た。桟橋が何本も連なり、木船が縄で繋がれ浮いている。ニックはエフェメラの手を離し、桟橋の一つに座った。それから貝菜巻を食べ始めた。
「うん、やっぱりうめーな!」
エフェメラもニックの隣に座った。太陽は西に大きく傾いている。飛んでいた海鳥が貝菜巻につられて桟橋に下りてきた。海は静かで、緩やかな波は桟橋の足にぶつかっては弾け、また新たな波となる。
エフェメラも貝菜巻を食べてみた。両手で持たなければ落としてしまうくらい大きく、大の男でも満腹に腹が膨れそうなくらい厚みがある。
「……おいしい」
「だろ?」
ニックが笑って同意する。出来立て熱々で、たくさんの野菜と貝が入っている。口の中で広がるたれは、工夫を凝らしたものに違いない。
こんなに美味しくて大きくて、勘定だって負けてくれたというのに、エフェメラの心には灰色の雲がかかっていた。
「……ねえ、ニック。サンドリームって、ウィンダルでは嫌われているの?」