3-01 序
ハキーカ暦三〇〇三年 クイーンティーリス
初めて王都サンドルを目の当たりにした時、ディランは目が回った。人の多さに驚き、建物の多さにも驚く。堅牢な城壁と白銀に輝く巨大なサンドリーム城は、絵本で見た空想の城を連想させた。
王城に着いてすぐ、渓谷から一緒に来てくれたブラウのいとことキュアノのおじさんは帰ってしまった。心細さに泣きそうになったが、なるべく笑顔を作り別れを言った。
ディランは使用人らしき者に案内され王城へ入った。城内は廊下も壁もすべて煌びやかで、また、すれ違う人はみな綺麗な服を着ていて、ディランはとても落ち着かなかった。
荷物は持っていなかった。鞄に詰め込んできた母の料理は道中ですべて食べてしまったし、そのほかの旅道具もすべてブラウのいとこが持って帰ってしまった。ディランが身に付けているものは、母が繕ってくれた冬物の衣服と、渓谷を発つ直前にシーニーがくれた毛糸の襟巻だけだった。
だが連れて行かれた部屋で、ディランは数名の女性使用人たちにすべての服をはぎ取られた。五歳とはいえディランだって男だ。知らない女性たちに裸にされるのはかなりの抵抗があった。
しかし抵抗は空しく終わり、ディランは身体を洗われ、服も新品で上等なものに取り替えられた。
「おれの服とえりまきは?」
着替え終わり、ディランは着ていた服とシーニーからもらった毛糸の襟巻がなくなっていることに気がついた。
「不要ですので処分いたしました」
「えっ」
使用人は事務的に答えた後、すぐにどこかへ行ってしまった。ディランはシーニーにどう言い訳をするか、それから帰りはどの服を着ればいいか悩んだ。しかし答えを出す前に、また別の場所へ移動するよう促された。
次に連れて行かれた部屋は王座の間だった。見上げるほどの高い天井に百人は入れそうな広い空間、青藍の国旗が掛かった何本もの大柱は磨き上げられた大理石の床にも映っていた。中央には金糸で縁取られた青い絨毯が敷かれ、広間の奥にある階段へと続く。
階段の最上段には金色の椅子があり、鳶色の髪の男が座っていた。男の翡翠色の瞳は感情なくディランを見下ろしていた。
(この人が王さま。そして、おれの父さん)
母がディランの父親を明かしたのは、先日の誕生日の前夜だった。もちろん実感などわかないし、国王アイヴァンの髪色や瞳の色はディランとは似つかない。
アイヴァンは笑わなかった。ただ二言三言、「旅は疲れたか」とか、「道中に問題はなかったか」など、ありきたりなことを訊かれた。
「おれ、王子になるつもりはないです」
会話が途切れた時を見計らい、ディランは言った。
ディランは母に、これから三年間は王城で暮らし、王子としての勉強をしなければならないと言われていた。勿論初めは抵抗した。渓谷での暮らしを捨ててまで王子として生きたいなど思わなかったからだ。
すると母は、ディランを強く抱き締めた。泣いているのがわかった。そして何度も何度も謝るから、ディランは漠然と、熱が出ると動けなくなるみたいに、王子の勉強をすることは絶対に逆らえない決まりなのだと思った。
「答えは、三年後に出しなさい。お前はまだ幼く、何も知らない。三年後ならば、どちらでも好きな道を選べばよい」
伝えておこうと思い言った意志に対して、アイヴァンはそう返した。
それからは勉強の日々だった。午前と午後、教科ごとに先生が変わり、毎日本を読み文字を書いた。礼節も踊りも学び、楽器にも触れた。一人で使うには広すぎる部屋を与えられ、夜には宿題も出された。
冬が終わり、春が来た。春も過ぎ去ろうとする頃には、ディランはすっかり孤独に慣れていた。広すぎる部屋も高そうな家具もあまり好きにはなれなくて、ディランは部屋にいる時はいつも、隅にある椅子で小さくなって座っていた。
(シーニー、怒ってるだろうな)
『すぐに帰る』と、シーニーに嘘をついた。恐らく母から事情を聞いたと思うが、傷ついたに違いない。だがディランだって、最後に泣くシーニーを見たくはなかった。
デケンベルになれば、少しの間帰郷してもいいとは聞いていた。あと半年ほどの我慢だ。
「失礼いたします」
部屋に入ってきたのは、ベルテという四十歳ほどの女性使用人だった。頻繁にディランの世話をしてくれる使用人で、ディランがこの城で最も話す相手だ。
「新しい宿題?」
「はい。ハーメル教授から預かって参りました。……ディラン王子殿下。お休みになられるのでしたら、こちらの大きな椅子にお座りになってはいかがですか」
「いいんだ、ここで。――ねえ。おれ、王子なんてがらじゃないし、王子殿下なんてつけなくていいよ」
「軽々しくそのようなことを仰るものではございません。敬意を軽んじるということは、サンドル王家を軽んじるということにもなるのです」
「ああ、そっか……王様たちに、迷惑がかかっちゃうんだ」
「左様でございます」
「ならだめだな。迷惑はかけるなって、母さんに言われてるんだ」