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頭が茹だってしまいそうだった。何を言っているのだろうと思う。初めての国で浮かれているのか、ディランにくっついていた踊り子たちにまだ嫉妬しているのか、アラベリーゼの歌を聞いた余韻が残っているのか――それとも、見てしまったディランの体の傷が気になるのか。
いろいろなことが混ざり合い、どうしてもディランとの距離を縮めたいと全身が叫んでいた。
「そ、それともディランさまは、わたしと一緒に眠るのが、嫌ですか?」
「……フィー。その訊き方はずるいよ」
エフェメラははっとして振り向くディランを見た。わがままだったかと思う。ディランは諦めたように肩の力を抜いていて、しかし瞳に怒りの色はない。
「とりあえず、酒臭くて堪らないから、先にお湯を浴びてもいいかな」
エフェメラはこくこくと頷いた。ディランは一緒の部屋で過ごすことを了承してくれたらしい。
緊張するよりもほっとした気持ちが大きかった。同時に嬉しさも込み上げてくる。これから毎日朝から晩までディランと一緒に過ごせるなど、夢のようだ。
露天浴場の灯りは控えめだったが、エフェメラは着替えも含め、なるべくディランを見ないように気をつけた。水音が聞こえるたびそわそわと想像力が掻き立てられたが、ディランはあまり時間をかけずに湯浴みを終えた。
「ありがとう。先に入らせてもらってごめん」
「いえっ! まったくお気になさらず! では、わ、わたしも!」
「あ……うん」
ディランはエフェメラに背を向け椅子に座った。
同じ部屋にディランがいるのに裸になるなど恥ずかしい。見えていないとは理解しつつも、エフェメラは体を隠しながら服を脱いだ。裸になった後も、念のために体に布を巻いておく。
窓の外へ出ると、昼の暑さが嘘みたいに空気がひんやりしていた。露天浴場の周りには草木が植えられ、間からは青白い砂浜と月明かりに照らされた海が見える。宮殿周辺の海は一般人立ち入り禁止にしているらしく、人の姿はない。
エフェメラは湯気の立つ湯にまず足を入れた。それからゆっくりと首まで浸かる。はあ、と息が漏れた。移動と宴の疲れが体の底から癒されていく。
浴槽は十人近く入れる広さがあり、一人で入るにはやや寂しい気もした。夫婦によっては一緒に入るのだろうかと想像し、エフェメラは体が熱くなって湯から肩を出した。
椅子に座っているディランを窺う。ディランは本を読むでもなくぼんやりと宙を見ていた。
「……ディランさま」
名前を呼んでみる。声が聞こえない距離ではない。ディランは前を向いたまま「何?」と反応した。
「お湯、とっても気持ちがいいですね」
「そうだな。昼に入るのはごめんだけど」
「ウィンダルは、夜はとても涼しくなるんですね。――わたし、ちゃんとウィンダルのことを勉強しておくべきでした。すみません」
「いや。行くと決めたのも急だったし、旅支度で大変だったろ。俺こそ、馬車でちゃんと教えてれば良かった。ずっと本を読んでたから」
「いえ。お勉強は、大事ですし」
「急いで読まなきゃいけない内容でもなかったから、別に良かったんだ」
エフェメラは衝撃を受けた。ならずっと話をしていれば良かったではないか。帰りの馬車では積極的に話しかけることにしようと、エフェメラは決めた。
「わたし、こちらにいる間に少し勉強をします」
「いいよ。わざわざ勉強するほど覚えなきゃいけないことは多くない。最低限の知識だけ頭に入れたら、いまはそれで――」
そしてディランは教本でも読んでいるかのように淀みなく話し出した。
「ウィンダル公国の人口は七百万。かつては、大陸南西を支配していたウィンタナー王国の領地の一つだったけど、八百年前に起きたサンドリーム王国との『夜明け戦争』にてウィンタナー王国は滅亡。最大の領地だったウィンダル領だけがサンドリーム王国に吸収されず残り、独立国家に姿を変えいまに至る。協議の末、当時のサンドリーム王国第二王子がウィンダル公国の大公に、妃にはウィンタナー王国の王女を迎えた。言うまでもなく、反発する国民を従えるためだ。その子孫が現在も大公家を継いでいる」
サンドリーム王国と亡国ウィンタナー王国との間で起きた『夜明け戦争』は、大陸最後の大戦で、歴史の勉強でも避けて通れぬものだ。戦争終盤、最後に海岸沿いのウィンダル領の都市ウィーダが占拠されたことで、戦争は終息、その時刻がちょうど夜明けの時刻だったため、『夜明け戦争』と名がついた。
「気候としては、一年中陽射しが強く雨が少ない。あとは風向きも関係し、海沿いでも空気は乾燥している。冬は降水量がやや増えて寒くなるけど、サンドリームほどではないから厚着をしなくても過ごせる。特産品として国外から重宝されているものは、魚介、海藻、塩。しかしこれだけでは国の豊かさを保つことはできないから、財政の半分近くを観光収益に頼ってる。ウィンダルは、娯楽旅行に訪れる者が、大陸で一番多い国だ」
エフェメラは深く頷きながら相槌を打った。
「観光ですか。海がきれいですもんね」
「それもあるけど……」
ディランが躊躇うように間を置いてから言う。
「その、端的に言えば、ウィンダル――とりわけウィーダには、娼館が多いんだ。それを目的にやって来る者が後を絶たないから、収益も安定してる」
あまり振られない方向の話題にエフェメラはどぎまぎした。強く意識するのも逆に恥ずかしい気がするので、平静を装う。
「へ、へえー。そう、なのですかっ! た、確かに、服装も、大胆な方が、多かったですもんねーっ!」
「ウィンダルはサンドリームよりも性に寛容だ。例えばサンドリームでは、婚前の男女が体の関係を持つのはあまり良くないという認識で、特に上流社会ではあり得ないことだけど、ウィンダルでは婚前から普通に関係を持つ。結婚もしていないのに一緒に暮らす、なんてこともあるらしい」
「それは、なんというか…………すごいですね」
大陸におけるこの手の倫理観はハキーカ教会の教典規範が基準となっているが、国柄や身分に合わせて各国で厳格さが異なる。
「観光に頼り切っているせいか、予算の多くを街の整備につぎ込んでる。軍事力はほぼない。造船技術も同様に力は入れておらず、小さな木船で漁をする程度。学校は国内すべて合わせても数は百程度。平民はまず通えず、貴族や商家の子どもだけが通うものと考えていい」
サンドリーム王国では、六歳から十二歳までの初等教育を平民でも受けられるよう、国から学費助成がされている。中等、高等教育は通える者が限られてくるが、普通に生活する分には初等教育の内容で事足りる。豊かさの違いということだろう。
「現在の大公は、シュトホルム・サーレ・ウィーダ。治世は二十三年、御年四十六。補佐官は五名で、いずれも先代の大公から仕える血筋の者だけで構成されている。公妃は現時点で二十四名。第一妃はルミナリア・ヘートベス、第二妃はコレット・ヒダリリア、第三妃がヴィヴィ・オークメン、第四妃が――」
「あ、あの、ディランさま。すみません。公妃のみなさまのお名前は、大丈夫です」
二十四人名前を挙げられても覚えらないだろう。そもそもすべての公妃の名前を覚えているディランに驚く。
「多い、ですよね」
「妃を複数持つというのは、危険を分散させるためでもあるからな。だからこちらも陛下は三人の妃を迎えてる。……大公に関しては、まあ、俺も多いと思うけど」
「あはは…… 」
エフェメラは湯に手を遊ばせた。水の抵抗を感じながら足や腕を動かすのは面白い。湯面に映る夜空に気づき空を仰ぐと、輝く星々が綺麗だった。こんな夜に砂浜を散歩したら、気持ちがいいに違いない。
「そういえば、アラベリーゼ公妃の歌にも驚きました」
「ウィンダル人で、さらに特定の者にしかできない、他者に夢幻を見せる技だな。大公も言ってたけど、サラーブの歌には聞く者に楽しい記憶を呼び起こす力があるらしい。どういう理屈かは解明されていないけど、ただ、サラーブの外見的特徴は、紺碧に近い髪と金色の瞳を持つ者と決まってる。街にも、同様の容姿の人がちらほらいると思うよ」
「そうだったのですか。髪色と瞳の色が関係するなんて、なんだかスプリアと似ていますね」
「そうだな。でもたぶん、髪色は現象に関係ない。……瞳の色が、鍵なんだと思う」
「言われてみれば、スプリアでも、羽がある人はみんな銀色の瞳です。それで、髪色は桃色じゃなくても羽があったりします」
「スプリアとウィンダルと、あとたぶん、オウタットでも同様のことが言えるんだろうな」
「朱い目をした、丸太を一人で何本も運べる――確か、シュエですよね」
「ああ」
オウタット帝国で〈朱瞳〉と呼ばれる朱い瞳のオウタット人は、通常では考えられない怪力を持つ。エフェメラは先月実際に朱瞳を見た。
「こうして考えると、それぞれの国で不思議な力を持つ人がいるんですね。実は、サンドリームやサマレにもいるのでしょうか」