第5話:凋落
一方、ユーチェ・キリアスである事を捨てた男の方は、皇国に向かう難民に紛れ皇国入りすると、馴染の商人の伝を経ずに城務めの下男として働く事になる。
ここで、皇国の成り立ちに関して少し述べておこう。皇国の前身となるのはリサイア王国全盛時にその西方で王国と小競り合いを繰り返していた騎馬民族と言う事になる。皇国の人間は認めないが、彼らが北の蛮族と呼び習わす部族と元は同じと言えるだろう。
王国の東方でサイノス教国が建国され、王国と教国の争いが本格化すると疎かになった王国の西方に攻め込み、次々と支配下に置いたのがシーグス皇国の初代皇帝と言う訳だ。皇都シーグスは元々リサイア王国の軍事拠点であった場所で、リサイア王国の人間がここを訪れると懐かしさと悔しさを覚える。
ユーチェ・キリアスである事を捨てた男は、皇国に向かう難民に紛れ皇国入りすると、馴染の商人の伝を経ずにこの皇城で下男として働く事になる。
難民に紛れる中で、無口で細身だが人一倍力持ち、しかし身だしなみと言う言葉を何処に忘れて来た様な残念な青年という評価を得たユーチェだったが、親戚を頼って皇国に逃れた一家族の推薦でこの職場を得た事になる。
無口なのも、力持ちなのも、そして清潔とは無縁の難民の中でも飛び抜けて不潔だったのにも勿論理由はあるが、殆どの難民はその事情を察する事が出来なかった。無論難民は難民で落ち着ける場所が見付かるまではそれどころではなかったのだろうが、自分達の元領主が髪はボウボウ、服はボロボロ、顔には泥がこびり付いていて水浴びもしない不潔な人間とは思わないだろう。
ルミノという偽名で皇城に住み込みで主に力仕事を任せられたユーチェだったが、当然自由に城の内部に出入りする事は許されなかった。ユーチェはゆっくりと周囲の信頼を得て行き、半年程で城勤めの長い人間から”南塔の妃”の話を聞き出す機会を得る。
「なんだ、ルミノ、お前は意外と面白い奴じゃないか」
「そうですか?」
「ああ、最初は無愛想な上に、病気持ちと聞いて、嫌なのを押し付けられたと思ったんだが」
「病気は酷いですよ、テシムさん。目が悪くなったのだって、リサイアから逃げてくる時の事で仕方が無かったと言ったでしょう?」
こう言ったルミノの左目は皮製の眼帯で隠され、右目も殆ど前髪で隠れている。さすがに見苦しい程ではないが髭も伸ばしていて、”ユーチェ”の容姿を隠すのには何とか成功している。難民として皇国に逃げてくる際に目の病気を患ったという設定になっている訳だが、皇城ともなれば前キリアス侯と面識がある者も少なくない為こんな無理のある変装をしている訳だ。
「まあ良いさ、そんで、どこまで話したかな?」
「南の塔の高貴な女性という話ですよ。南塔と言うのは皇王様の戦利品が保管されていて、凄く警備が厳しい所ですよね?」
「そうだ、だからその妃様も戦利品なのさ、俺がここで働きはじめた頃にリサイアから連れて来られたと聞いたぞ。何でもこの世の物とは思えない程美しい女性だそうだ」
「へぇ、でもそんな話初耳ですよ。そこまで美人ならもっと噂を聞きそうな物だと思いますけど?」
「当たり前だよ、俺が知る限り一度も塔から出ていないんだからな。考えてみれば俺が新米だった頃だから20年以上だ」
「では美人というのは怪しいですね? それにもうかなりのお歳でしょう」
「いいや、出て来ないが皇王様は勿論だが、今でも大きな手柄を立てた者は南の塔に入って褒美を遣わされる習わしだからな」
「成程、その時に美しい女性に対面を許される訳ですね?」
「ん? ああ、そうだよ」
少し口籠った上役テシムの様子は気になるが、ユーチェは既に南塔に侵入する方法を考えはじめていた。南塔の警備は厳重すぎる程だが、ルミノの立場であれば近付く事は(近付くだけならば)難しくない。塔の内部から上に登るのは論外だろうが、何らかの道具があれば外壁をよじ登る事はユーチェにとって容易い。
姉が希望すれば連れ出す予定だったが、これにはかなりの高さから飛び降りるか、兵士を蹴散らすという危険を冒さなければならないだろう。見付かってしまえば出来るだけ早く皇国を逃げ出さなければならない事も予想が出来る。
その日から時々ルミノは休みをもらって城下町に出かける事が多くなった。怪しまれない様に、気になる女性が居て会いに行っている事にしているが、実際には逃亡の準備である。
そして、その日は意外と早くやって来る事になる。皇国の建国王の生誕祭が盛大に行われ、城の警備がやや薄くなる上に南塔の警備兵に対しても(さすがに酒は出ないが)祝いの料理が振る舞われ、それを運ぶのにルミノも駆り出されたのだ。
草刈りに使うシャベルの様な農具も塔の近くの草むらに”忘れて”あるし、塔の裏側は祭りの明かりの影響で何時もより暗く感じられ、多少の物音も鐘や太鼓の音が打ち消してくれる。
ユーチェは壁を昇るのにはじめ少し苦労しながらも、慣れると怪盗顔負けの速度で塔の上層部に到達する事が出来た。どうちらかと言えば塔を登る事より、小さな窓から侵入する方が苦労した位だろうか?
「誰です!」
ユーチェが侵入したのは衣裳部屋と思われる部屋で、明かりが漏れている隣部屋の様子を探ろうとした途端にいきなり声を掛けられた。一瞬逃げ出そうとしたユーチェだったが何故かそうはしなかった。その詰問口調の声に何処か聞き覚えがあったからだ。
前世の記憶程におぼろげではあるが、母の声に似ている気がしたからだろう。それに加えて、大きな神力を感じた事も確信を深めるのに寄与した。
「失礼ですが、サーシャ・フーリア様で間違いありませんか?」
「・・・、名乗りなさい」
そう再度問われたユーチェは邪魔な眼帯を外し、鬱陶しい前髪をかきあげ、ゆっくりとドアを開けながらこう名乗った。
「ユーチェ・キリアス、いえ、ユーチェ・フーリアです、姉上」
「――まさか! 冗談は、いえ、でも・・・」
どう見ても30台後半には見えない男が自分の弟を名乗る理由が分からなかった筈だが、”リリーサの寵児”である彼女にとっては歳相応の容姿と言う物は当てにならないと思い至った様だ。突然の侵入者に自分と似た所があり、更に亡き父に似た所を見出したのかも知れない。
結局、家族しか知らない事実を確認する事でユーチェ・フーリアと認められることになる。
「ユーチェ、本当に大きくなったのですね?」
「姉上、30過ぎの男に言う事はそれですか?」
「貴方も30過ぎには見えないわ。キリアス候の活躍はこんな私の耳にも入っていたけど、本当に立派になったのね」
「別に私が皇国軍を撃退した訳ではありませんよ、それに今はキリアス候の地位も返上してきましたから」
「リサイアが滅んだと聞きましたけれど・・・、本当なの?」
その情報源が何処からなのかは聞くまでも無いだろう。但し、サーシャが知る外の世界の情報は意外と言えないだろうが偏った上に少ない物だった。それは、彼女が単なる慰み者でしか無い事を物語ってもいる。
「はい、陛下もお亡くなりになりました・・・」
「そう・・・」
サーシャはそれを聞くと少しだけ沈んだ声で応え、昔の恋人の冥福を祈る様に少しだけ目を閉じた。
「姉上、遅くなりましたが助けに来ました。多少危険はありますが、この塔から」
「いいわ」
「えっ?」
「助けは要らないと言ったの」
「あの、もしかして姉上は今の生活に満足なのですか?」
「・・・」
サーシャからの応えは無かったが、その表情が否と告げている。
「何故ですか!」
「私が”リリーサの寵児”だから・・・、貴方にも少しは分かるのではないの?」
悲しみを通り越して、感情を失った様な声で告げられ、ユーチェは声を詰まれせる事になってしまった。例えるならば、囚われの美姫を助けに来た騎士が姫君自身から”用が無いから帰って”と言われた様な物だ。姫君と呼ぶには歳を取り過ぎているのと、騎士と呼ぶには見掛けが悪いという点は無視したとしても、少々おかしな状況と言えるだろう。
「皇王の側女だった頃はまだましだった。私が子供を産めないと知ると、あの男は私を部下への褒美にしたの」
「褒美ですか?」
「分からないかしら、一晩世界一の美女を自由にする権利を与えると言う事よ?」
「なっ!」
ユーチェも何人か居る側室を部下に下げ渡すという話は聞いた事があるが、手元に置いて部下に抱かせるなどと言う話は聞いた事がなかった。しかし、”リリーサの寵児”の使い方としては有効な事は認めざるを得ない。
「分かった、私は皇国で最も高貴な娼婦なの・・・」
「だったら、何故逃げ出さないのですか!」
「逃げ出してどうするの? 私は一生このままなのよ、結局は同じ事の繰り返しでしょうね」
「いや、そんな筈は」
「私達の大叔母様の話を貴方は知らないでしょうね、小さかったもの」
「もしかして、その方も”リリーサの寵児”?」
「そう、あの方の事があったから、お父様もセルゲイとの結婚を急いだのでしょう。あの方の様にはなりたくないと思っていたけど、今はあの方が羨ましい・・・」
ユーチェは自分の大叔母がどんな人生を送ったのか分からないが、弱小貴族では庇い切れなかったと言う事あろうと推測する事しか出来なかった。キリアス候であった自分であれば何とかなったかも知れないが皮肉にも今の自分にはその力が無い。
「ねえ、ユーチェ。私を殺してくれない?」
「姉上、何を?」
「私の顔は何度潰しても元に戻ってしまう。かといって死ぬ勇気も無い、こんな私を哀れだと思うなら、お願い・・・」
死ぬ勇気が無かったというのは多分嘘だろう。一縷の望みがあったからこそ死を選べなかった、そして今その望みは完全に断たれたのだ。ユーチェにもこのままでは姉が死を選ぶだろう事は推測出来た。
自分の妻だった女性とは全く逆の意味で深い絶望の淵にある姉を、ユーチェは放って置く事は出来ない。そしてユーチェにはこの事態を打開する術がある。彼自身には忌むべき力だが、そんな物でも時には役に立つことがあると言うのは不思議な物だ。
「姉上、もしも”リリーサの寵児”である事を止める事が出来るとしたらどうしますか? 勿論、普通に歳を取る事になりますし、美しくもなくなるでしょうが」
「そんな夢の様な方法があれば、何を賭けても良いわ!」
サーシャの言葉に嘘は無かっただろうが、そんな都合の良い話があると本気で思っていないのもその口調明らかだった。この世界には悪魔という概念は存在しないが、喜んで悪魔と契約を交わすのではないかとユーチェには感じられた。ユーチェはそんな事を頭の片隅で考えたが、あえて軽い口調で姉に1つの提案をする。
「有りますよ、簡単な事です」
「どうすれば良いの?」
「手を出してください。そして女神の恩寵を私に渡そうと念じて」
「そんな事で? 馬鹿にしているの?」
「私を信じて下さい。これは私にとっても命懸けなのですから!」
前述の通り、イグノスの力の欠点は相手の神力が自分より勝っている場合は役に立たないのだが、例外的に相手がそう望めば効果を発揮する。そんな場合は殆ど無いだろうが、今はその裏技が有効だった。
サーシャ・フーリアの中にある神力はセッカ・サイノスにも劣らないとユーチェには”見える”のだが、不思議な事にユーチェ自身には自分の神力を見る事は出来ない。多少不便ではあるが、今回神力の大小はどうでも良いのだ。
問題は、それを受け入れた自分がどうなるかは全く予断を許さないと言う点だろう。もしユーチェの神力の容量を超えてしまえば文字通りユーチェという存在の”死”(普通に死ねれば良い方かも知れない)を意味する。
「さあ、手を出して」
ユーチェの決意を感じたのか、サーシャは神妙な様子でユーチェの手を握り、目を閉じて念じはじめた。それは速やかに行われたが、実際それを認識出来たのはユーチェだけで、そのユーチェにしても、手を握った姉の中の神力が失われたと言う事しか認識出来ないのだが・・・。
「もう良いですよ、姉上」
「本当に? これだけで?」
サーシャが近くの鏡に駆け寄ったが、殆ど外見の変化は見られなかった。
「姉上、変化はそれ程直ぐには現れませんよ。私の妻もそうでしたから・・・。って姉上、何をやっているのですか!」
「本当だ、傷が治らない!」
ユーチェが亡き妻の事を思い出している僅かな間に、サーシャは剃刀を使って自分に顔に傷を付けていた。そして、傷が治らない事を見て涙を流しながら喜んでいる。傍から見ると狂気を感じる行動だが、それを見たユーチェは全く別の事を考えていた。
「ユーチェ?」
「いえ、何でもありません。そうだ、姉上。今ならばこのまま此処に留まった方が良いかもしれません」
「どう言う事?」
「姉上の容姿は確実に衰えます。そうなれば、皇王が姉上をこの塔に閉じ込めておく理由も無くなり、危険を冒さずに自由になれるでしょう」
「・・・」
「これまで姉上がどんな事を見聞きして来たかによりますけど、話を聞く限りそれ程重要な事を知らないと思えます」
これは皇王自身の性格や数多い側女の扱いを見れば想像可能な話だ。それにサーシャに危険が及ぶ事があったとしても、南塔をもう一度攻略する事は今回よりも容易いだろう。
「でも・・・」
「皇王はどんな人物ですか? 私が聞いた限りでは随分子供っぽい所がある男だと思いました」
「子供っぽいって・・・、そうねそうかも知れない」
皇王の性格はサーシャの分析では欲しい物は何としても手に入れ興味を失うと途端にどうでも良くなる性質らしい。財宝を南塔に貯め込んでも盗られない様にするだけでさほど執着しない辺りがその事実を示していた。事実、数年前宝物庫の床が一部腐って幾つかの宝物が損傷した事があり、修復が難しいと判断された石像や絵画が簡単に廃棄された事があるらしい。
余談になるが、その捨てられた石像を偶然手に入れリサイア王国の彫刻師の所に持ち込んだ商人が居たのだ。費用も時間もそれなりにかかったが、ほぼ元通りに修繕されたその石像がシーグスの貴族の手に渡り、皇王に再び献上される事になった。この為、サーシャが、壊れた財宝の行方を知る事が出来た訳である。ちなみに、その石像は某”美の女神”を題材にした物であったりする。