第4話:別れ
何故だか妙に苦労して城の侍女から現在でも化粧品の類を扱っている商人を聞き出し、財力と権力と更に前世で培った交渉術まで駆使して何とか満足の行く品を揃えてキリアス候領へ向かうまでが多分ユーチェにとっては一番充実した日々だったのだろう。
これから幾多の苦難が待ち受けている事は容易に予想出来たが、ユーチェにとってはそれさえ乗り越える自信があった。
だが、その絶頂期も長くは続かなかった。彼が自分の屋敷に戻ると既に彼にとって最も大切なモノが既に失われていたのだから・・・。
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「マーリカ!」
妻の亡骸に向かって力なく叫ぶユーチェの足元では、大事に抱えていた化粧品のガラス瓶が砕け散っていた。
「マーリカ・・・、何故だ・・・」
ユーチェには妻の亡骸が横たわるベッドに縋り付く様にして、既に応える事のない妻だったモノに虚しい問いを何度も繰り返すしかなかった。
「旦那様、夕食を召し上がって下さい・・・」
「シーリア、君なら知っているんだろう? 何故、マーリカは自殺なんてしたんだ!」
「旦那様・・・」
「教えろ、教えてくれ!」
「はっ、離してください」
ユーチェに食事を勧めて来たのは、マーリカの乳兄弟で侍女の長をしているシーリアだった。彼女は強く肩を掴まれ問いただされた事よりも、ユーチェの顔が自分に近付くのを嫌った様に見えた。微妙に頬が紅いのは、夫や子供が居る身としては責められるべきか、褒められるべきだろうか?
ユーチェはこんな反応を王都でも何度かされた事があった。それ以外にも近寄ると露骨に避けられたり、逆に近付くとぼーっとしたりと妙な反応を示す女性が多かったのだ。(場合によっては男性さえもだが・・・)
「済まない・・・」
「いいえ、あのユーチェ様は御自分の容姿が変わっている事をお気付きですか?」
「いや、気にした事が無いな」
ユーチェにとっては、美醜というものはそれ程価値のある基準ででは無かった。特に昔の記憶を取り戻してからは、その基準が不確かになってしまったと言っても良いだろう。
「気の所為と思っていましたが、ユーチェ様は若返って見えます。リリーサの寵児になったという噂もある位です」
「若返った? 体力も気力も充実していたが・・・」
「マーリカ様は、いえ、マーリカは自分がユーチェ様の妻に相応しくないと悩んでいました。随分と化粧とかに時間を掛けていたのはご存じなのでしょう?」
「馬鹿な!」
「マーリカは自分が老いる事を恐れていたのですよ。そんな事を言い出したのは、丁度ご夫婦の仲が持ち直した頃でした。私も他の者もそんな事を気にするなと言ったのですけど、こんな結果に・・・」
「――老いる?」
その言葉を聞いて、ユーチェは自分が妻に愛を囁いた時にかなり無神経な事を言っていた事に気付いてしまった。”今の君が好きだ”とか、”マーリカは歳を取るのを忘れているよ”とか、新婚気分の囁きが妻にどの様に聞こえたかを考えると、自分の愚かさが思い知らされる様だ。そして選りにも選って土産が化粧品とは皮肉以外の何物でもない。
「まさか、”リリーサの神薬”か!」
「はい、この家にはそれが伝わっていた様です。私も存じ上げませんでしたが」
”リリーサの神薬”と言うのは、若さを永遠に保つ神に与えられた”薬”だと言われているが、実際には死体を長期間保存出来るだけの”毒薬”だった。生きている人間が服用すれば、死ぬことになるがその死体は確かに長期間その姿を保つ事が一部では知られている。
「そんな、そんな事が――、はっ!」
ユーチェの生家にも同じ物が保管されていた為にその辺りの事情は分かったのだが、ユーチェが気付いてしまったのはもっと別の、しかも最悪の事態だった。
シーリアの告げた”ご夫婦の仲が持ち直した頃”と言う時期に起こったとある事柄が思い出されてしまったのだ。その直前にユーチェの目の前で神子ジェム・イグノスが殺害され、その場に小さなガラス玉の様な物が転がっていた事、そして、ジェム・イグノスの”力”が相手の神力を奪う物だという推測、これらを考え合わせると本当に恐ろしい推測が成り立つ。
「まさか、そんな?」
「旦那様?」
「近寄るな、そうか、そうだったのか・・・」
ユーチェがその力を"意識"した途端にその力の特性や使い方が、ユーチェの頭の中に浮かび上がって来たのだ。そして、自分が無意識にその力を振るっていた事も分かってしまった。
神子ジェム・イグノスの力は、予想通り相手の神力を奪い自分の物にすると言う物だった。反則とも言える力だが自分より少ない神力しか吸収出来ないという致命的な(裏技もあるが)欠点もある。神子とは言え人間には蓄えられる総量に制限もありそれを超えると運が良くて発狂、時には神力に耐え切れず”暴発”したり、世界に甚大な被害を及ぼす化け物になる事も有り得るという諸刃の剣だった。
「私が、マーリカを死に追いやったのだな・・・。私と言う人間は本当に救い様が無い愚か者と言う訳だ」
「旦那様、そんな事を仰っては、マーリカが悲しみます!」
「そうか? そう思うか?」
「はい、マーリカなら!」
そう断言したシーリアだったが、その言葉をユーチェは殆ど聞いてはいなかった。ユーチェはゆっくりと自分が落して割ってしまった化粧品に近付きまだ無事な物を取り上げてシーリアにそれを手渡した。無自覚とは言え妻の若さを吸い取った形になり、それを苦にした愛する妻は死を選んだという本当に愚かな夫には既に妻に触れる権利さえないのだ。
「死化粧と言うんだが、マーリカに化粧をしてやってくれるか?」
「はい・・・」
「そんなに心配そうな顔をするな、私にはやる事が残されているからな」
ユーチェそんな事を自嘲気味に言って、自分の仕事に戻って行った。この世界では、着飾ったり派手な化粧をする事は好まれない。リリーサの教えが歪んだ結果だが、人間の美しさと言うのは内面から表れる物だと言う考えはある意味で正しいのかも知れない。
ユーチェのこの世界では斬新とも言えるデザインの衣服が流行したのもこの辺りが原因だろうし、貴族の御婦人方の間でさえ基礎化粧品に分類される様な物しか出回っていないのも同様なのだろう。
ユーチェは精力的に今では完全に思い出せる前世の衣服のデザイン画を仕上げていったが、その間にもリサイア王国は静かに滅びの道を歩んでいった。以前ならば頻繁に訪れていた王都からの商人などは殆ど顔を見せる事が無くなり、それどころか、親戚を頼って着の身着のままでキリアス候領へ逃げのびてくる者も少なくない。
それから暫くして、王都防衛の任に就いていた侯爵領軍の帰還がユーチェに知らせられる事になる。皇国からの援軍も無く、城も包囲されたと噂されていた為に驚く事は無かったが、ユーチェとしてはどの程度”殉教者”が出たかの方が気掛かりだった。
本来ならば、リリーサの神子として人々の信仰(神力)を集め女神に送るのは自分の務めだった筈なのだ。自分の中に宿っている神力がリリーサに渡っているとは感じられないユーチェとしては少しだけ疾しさを感じないでもない。少しだけというのは、今はその程度の事はどうでも良いと感じてしまう程にユーチェ自身が落ち込んでいる為だろう。
情報収集は積極的に行っていたユーチェだったが、実際に何かの行動を起こす事は無かった。そんなユーチェの元をフータスが久々に訪問する事になった。何時もの遠征等では何かのついでの事が多かったのだが、今回は侯爵領軍にかなりの被害が出た事もあり直接その要件での来訪らしい。
だが、戦死者の報告を受けるユーチェはフータスの目から見て何処か上の空の様に感じられた。
「侯爵?」
「ん? ああ、フータス・・・、ご苦労だったな」
「侯爵、何か変わられましたな?」
「変わった? 見掛けの事なら、気にしていないぞ」
「いえ、そうでは無く」
「妻にも息子にも先立たれた私なのだから精神面でも変わるさ・・・。それより、陛下の最後はどうだった、見届けて来たのだろう?」
「はい、セッカ・サイノスに一騎討ちを挑んで討ち取られました。見事な最期ですよ・・・」
「そうか、また似合わない最期だな。では、陛下に殉じた者は居なかったのだな?」
「はい、陛下自身が、女神に殉ずるのは自分だけで良いと仰ったそうです」
どうやら、女神リリーサの目論見は肝心な所で外れてしまった様だ。仮に成功したとしても、どれ程の神力を得る事が出来たか疑問ではあるが。
「これからどうなさるのですか?」
「それはこの侯爵領をと言う意味か? 侯爵領軍と言う意味か? それとも私自身という意味なのかな?」
「その全てですよ」
「義叔父上に領地と爵位を譲る、2,3日でこちらに来られるだろう」
「はぁ? しかし!」
「私はこの家の者では無いからな。ユイスが生きていてくれていれば問題はなかったんだが、直系の男性となると義叔父上が適任だろう」
「――ですが!」
「私は周辺の諸侯の受けが悪いのでね、その点あの方なら人格者だ。手も打ってあるから苦労はしないだろうな」
今まではどちらかと言えば産業スパイの様な間諜が多かったのだが、情勢不安に拍車がかかった頃から軍事方面にも多く探りが入っているらしい。周囲のどの貴族と戦っても負ける事は無い筈だが、包囲網でも敷かれてしまえば不利になるのは確実だ。
「本気なのですね・・・」
「ああ。軍の方だが当然今の規模では維持出来ないだろう、義叔父上から以前釘を刺された事があるからな」
「はい」
「フータス将軍にはここを去ってもらわなくてはならないだろう。教国に士官する積りがあるなら別だが、紹介状でも用意しようか?」
「いいえ」
「神子セッカ・サイノスの器量であれば」
仕官を勧めようとするユーチェの言葉を遮って、フータスはこう告げた。
「私は教国の兵を殺し過ぎましたから・・・」
「そうか、それならば、貴方に最初で最後の命令を出すとしようか、拒否は許さん!」
「はっ!」
「このキリアス領から出たいという領民を率いて、シーグス皇国へ向かえ、良いな?」
ユーチェの言葉は命令だが、その表情はどちらかと言えば懇願している様にさえ見える。
「キリアス侯爵からの最初で最後の命令がそれですか? ですが、何故皇国なのです」
「軍に居て教国から恨みを買ったと思う人間も居れば、教国に夫や父親を殺された家族も居るだろう? 将軍が教国に降ると言えば私自身が率いて行ったよ」
多くは無いだろろうが、古い神への信仰を捨てきれない民も存在するかも知れない。だがユーチェはその事を敢て考えない様にした。
「その任は、確かに私が負うべきですね。侯爵は教国贔屓だと思っていましたが?」
「当然だろう? 両親を殺され、姉を奪われ、故郷を滅ぼされたのだぞ。だからと言って、感情だけで教国に肩入れした訳じゃないがね。ああ、皇国への移民、いや、難民の中に私に似た男が居ても見なかった事にしてくれ」
「何をされるのですか?」
「いや、迷惑はかけない予定だ。ただ、姉に会いたいだけだからな」
無論、ユーチェは姉の境遇を確認して、場合によっては強引に連れ出す事も考えている。後宮の奥に居る女性を助け出すのは不可能に近いが、今のユーチェならば決して不可能とは言えない。取引のあった商人の口利きで後宮に近付く算段も出来ているのだ。
「確か、サーシャ様でしたね」
「ああ、噂では未だに囲い者らしい。姿を見た者は少ないが、正しく”リリーサの寵児”と言った美しさだそうだ」
ユーチェの姉サーシャは既に40歳を超えている筈なのだが、老いる事が無い”リリーサの寵児”としての特性が彼女を虜囚のままにしている。子供でも生まれていれば事情が変わったのだろうが、妊娠したと言う噂も流れない。
「マーリカも、いや、何でも無い。そうだ、ただ民を率いて行っても歯牙にもかけられないだろうな。知っているか、神子セッカ・サイノスは皇国の北の蛮族とやらと通じているんだ」
「まさか! ――いや有り得る話です・・・」
「良い手土産だろう? 削減する兵は傭兵を多くする、難民の護衛が最後の任務と言う訳だな。そして皇国としては一人でも多くの兵士が欲しい筈だ」
「成程、政治下手な私でも何とかなりそうです。いっその事、蛮族とやらを防ぐ盾になる事にしましょうか?」
「そうだな、優秀な指揮官付きの軍となれば、そうだな、北方に領地を得る位は出来るだろうさ。将軍も目出度く貴族の仲間入りと言う訳だな」
「私には向かないですよ」
「そんな顔をするな、意外と簡単だよ。向いている人間を探してやらせればいいさ、私だってそうしたからな」
ユーチェが自分に才能が無い軍事方面に関して、”フータス将軍”に任せっきりだったと言う事は彼ら自身自身が一番良く分かっている。気前の良すぎる出資者と妥協を許さない芸術家の様な関係だったと例える事も出来るだろう。
幸い人を見る目という点ではユーチェより年長で人生経験豊かなフータスに心配は無いだろうが、彼の目に適う人材が皇国に居るかという点は運任せになる。
「全く、貴方と言う人は・・・」
「義父から預かった領民を頼む、フータスさん」
「任せてくれとは言い切れないが、やるだけはやってみる。出来れば君には時々助言を頼みたいんだがな、ユーチェ?」
「気が向いたら顔を出しますよ」
こうして、貴族の地位を捨てる者と、これから貴族と呼ばれるであろう者の最後の会合は終わる事になる。数日後、ひっそりとキリアス侯爵位が移譲され、その数日後にはリサイア王国がサイノス教国に併合された事がリサイア全土に伝えられた。
旧リサイア王国の統治をセッカ・サイノスから任されるのがキリアス侯爵と発表されると、新侯爵本人を含めて多くの貴族から反対される事になる。この人事は、新たなキリアス侯爵から直接神子に事情が説明された事で撤回され、別の人物が総督として任じられる事になった。
神子セッカ・サイノスとしては、キリアス侯領の兵力と人材を丸々手に入れる機会を逸した事になる。当初は怒り心頭だった神子も、最重要の財力は手に入った事と、前キリアス侯爵出奔の経緯を新侯爵から聞くとその怒りを鎮めるしかなかった。
「そうじゃったか、あの者がのう・・・。いや、キリアス侯爵も姪御を亡くされたのじゃったな、お悔やみを申し上げておく」
「ありがたきお言葉です。あの前侯爵には罰は与えないというのは本当でしょうか? 追っ手も出さないと聞きましたが」
「何じゃ罰して欲しいのか?」
「いいえ、最初の神子様の様子からすると、何らかの罰が下されると思いまして」
「愛する者を失った悲しみと言うのは、愛が深い程大きいのは良く分かるのでな・・・。侯爵がきちんと今まで王国に納めて来た税を、我が教国に納めてくれるなら、あの男の事は忘れるとしよう。妻を失った絶望から立ち直れない程度の男ならば私が頼みにするには値しないという事じゃろう」
セッカ・サイノスという一見若く美しい娘に見える存在が、本当に神子で一国の主だと言う事を改めて認識した新キリアス侯爵だった。神子はそれ以降、前キリアス侯爵の事を話題にする事は無かった。