第2話:足音
侯爵家の嫡子が亡くなったという事件は殆ど広まる事が無かった。様々な理由があったが、一番大きかったのは侯爵自身が数日間身体が動かせなった事で、侯爵と夫人の関係が思わしく無くなったのも大きかっただろう。息子が目の前で殺されたのに指一本動かせなかった夫に幻滅したと言う噂まで広まる事になる。
「何だか知らないが、ぱっとしない葬式だったな?」
「ええ、あのキリアス候の嫡子が亡くなったというのだから、盛大な物になると思ったのにね」
「いや、盛大な葬式って言うのも妙だが。夫人と侯爵が同席しないと言うのも妙だった」
「そうね、マーリカ様が席を離れた後になって侯爵様がいらしたのよね」
「ああ、もしかするとあの噂は本当なのかもな・・・」
「まさか・・・」
しめやかに行われた葬儀の場に侯爵と夫人が同席しなかった事から生じた噂だが、真実を言い当てていたのは実に皮肉な事だった。本来なら入り婿である侯爵が離縁されてしまう所だったかも知れないが、現状の侯爵領の繁栄が侯爵の個人的な手腕に依る所が大きく夫婦仲が冷え切った所で簡単に離縁と言う訳には行かなかった。
侯爵夫人はこの点について誰に聞かれても沈黙を守っていたし、姉妹の様に育った乳兄弟にこっそり本心を漏らしたと言われるが、それは当然他人に漏れる事は無かった。
一方の侯爵ユーチェ・キリアスは体調が元に戻るのを待たずに、何時も通りの政務や雑事をこなしはじめていた。古くからの侯爵家の家臣や親戚から休養を勧められても聞く耳を持たない状態である。彼のその姿は”仕事に逃げている”とも揶揄されたが、実際には”仕事に縋り付いている”と言える物だった。
言い換えれば、自分にしか出来ない仕事をする事で、自分の”存在意義”を確かめているのだろう。だが、そんな事で”ユーチェ・キリアス”が抱える不安を払拭出来る筈もなかったのである。
◆ ■ ◆
それから暫くキリアス侯爵領は繁栄を続けていたが、リサイア王国はサイノス教国とシーグス皇国の間に挟まれながら何とか保っていた均衡を自らの手で崩し去ろうとしていた。神子ジェム・リリーサを得たリサイア国王セルゲイが無謀な賭けに出たのだ。シーグス皇国と組んでサイノス教国を討つという決断はこの時期の国際情勢を考えれば、無謀以外の何物でも無いだろう。
この時代この世界では、まともな情報網など存在しないし、国力を示す指標なども無かったから、多くの人間がその無謀さに気付なかった。或いは、気付かない振りをしていたのかも知れない。
領土的に見れば、大陸の東半分を支配するサイノス教国と北中部に位置するリサイア王国、そして北西部をの除く西半分を支配するシーグス皇国と言う形でほぼ拮抗している。およそ50:10:35と言った所だろうか?
経済的には、地理的にも歴史的にもリサイア王国に分があるが、全体としては40:20:30と、やや、リサイア王国=シーグス皇国連合が優位と言われている。
そして軍事力としては数値化するのは難しいが、専門家の間では45:10:40辺りが妥当とされている。但しリサイア王国=シーグス皇国連合側が10+40の実力を発揮出来るかどうかは微妙である。指揮系統が統一出来る筈も無く、皇国の北部には”蛮族”と呼ばれる人々が住んでおり皇国とは小競り合いを繰り返しているのも見逃せない。
一方、サイノス教国では、その”教え”から軍事方面に力を入れており、その上建国から100年神子セッカ・サイノスによる神権支配が確立されて居る事で非常時に徴用出来る兵士の数と質は連合側とは比較にならない。
そして、普通の人間としては評価出来ないだろうが、二人の神子の能力差というのも注目しなくてはならないだろう。神子の能力がその神力に比例するとすればたかだか100年しか世界を支配していない女神の神子と1000年以上信仰されてきた女神の神子では比較にならない筈だった。
本来の神子であるべきユーチェ・キリアスとジェム・イグノスが手を組んで世界に散らばった女神の欠片を集める事が出来ていれば神子の特性(能力)と言う面で差はあるものの圧倒的に2人の神子が有利になっていた筈だったのだが実際には全く異なった展開を見せてしまった事になる。
◆ ■ ◆
「そんな訳で、教国とまともに戦うのはちょっと無理ですな・・・」
「そうか、将軍がそこまではっきり断言するならそうなんだろうな」
ある意味では当事者とも言えるユーチェが、その部下でもあるフータスから軍事面での状況に関して報告を受けていた。
「出来れば、教国と当たるのは、経済面でをお勧めしますよ?」
「そう言われても、私はこの国の一貴族だよ。結構自由にさせてもらっているが、はっきりと敵国になったサイノス教国と堂々と貿易する訳にもいかないだろう?」
「それはそうですね。――全く、国王陛下も短慮な事をしたものです」
「間違いは誰にだってあるさ」
「ですが、何処の馬の骨とも知れない神子を当てにして軍を動かすとは・・・」
「・・・」
「教国の教主セッカ・サイノスを何とか出来れば良いのですがね」
その言葉に顔をしかめたユーチェの心情は、朋友と呼んでもいい”フータス将軍”にさえ察する事が出来なかった。将軍としては子飼いの暗殺者を神子に差し向けて簡単に片が付けば良いのにといった希望を述べたに過ぎず、ユーチェが汚い手を嫌っている様に見えてしまったのだろう。
神子という存在には色々な特徴があるが、身体的に頑強と言うのもその一つだろう。ジェム・イグノスが屋敷の3階から飛び降りて軽々と追っ手を退けた辺りもこの証明になるし、今考えれば幼い頃のユーチェがシーグス皇国に侵略を受けた生家から大怪我を負いながら逃げ延びたのも、神子の能力のお蔭だったのかも知れない。
少し話がそれるが、”神子”以外に”リリーサの寵児”と呼ばれる存在がリサイア王国では稀に生まれる事がある。文字通り絶世の美女や美男子に贈られる尊称で、神子とは違いその神力は”美しさ”にのみ特化していて、怪我や病気などでその美貌が損なわれる事が無いと言われている。
寿命は普通の人間と変わらないが、死ぬまでほとんどその美貌は衰える事がない。実際、ユーチェの姉サーシャが正しく”リリーサの寵児”であり、皮肉にもその美貌を求めたシーグス皇王の侵略を招く結果になった。ユーチェの妻のマーリカも寵児とまでは呼ばれなかったが、多少その特性は持っていたのかも知れない。
話を戻すと、神子を殺す事はかなりの困難な事とされていて、サイノス教国建国時には別の所から遣わされた暗殺者がセッカ・サイノスの寝所で鉢合わせして、二人とも返り討ちあったという逸話も残っている。
「いっその事、神子同士で決闘でもやってくれると良いのですがね、ああ、正々堂々ですな!」
「そうだな、相打ちにでもなってくれれば理想的なんだがな」
神子としての記憶を取り戻したユーチェには、神子セッカ・サイノスを倒す一つのアイデアがあったがそれを実行するのはこれも困難が予想される。結局現状を劇的に変える手段など有りはしないのだろうか?
「侯爵・・・?」
らしくもない物言いに、フータスが怪訝そうにユーチェの顔を見詰めるが、彼の意図を察して言葉を継げなくなってしまう。
「まあ、またぞろ国王陛下が侯爵軍の出陣要請をしてくるでしょうな?」
「ああ、今までにない規模でだろうね」
「どうしますか?」
「何時も通りだよ、将軍が良い思えば軍を出すし、駄目だと思えば出さない。軍事方面で私が将軍に命令を出した事があったか?」
「いや、覚えが無いですな。最初は物わかりの良い出資者に出会えたと喜んでいたのですが、最近は結構人使いが荒いんじゃないかと思いはじめましたよ」
「何を今更、天下のフータス将軍を雇い入れる条件が、”好きにさせろ!”だったんだからそれに従ったまでだ、それは自業自得と言うものだ」
「それはそうだが、最近仕事が増えるばかりでね?」
「偶然だな、私もだよ?」
ユーチェとフータスの会談は最終的に愚痴の応酬という何とも情けない終わり方をする事になった。
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そして、リサイア王国を取り巻く状況は悪化の一途を辿る事になる。当初は快進撃を続けていたリサイア王国=シーグス皇国連合側だったが、”彼女”が陣頭に出た事で戦況が一変した。さすがは戦女神の神子セッカ・サイノスと言うべきなのだろうが、国民に一人一人が最低限の兵士として動ける国で陣頭に美しき神子が立つというのは恐ろしいほどの効果がある。
新兵に毛が生えた程度だったとしてもその士気の高さと数は文字通り連合軍を粉砕するのに十分だった。その勢いをそのままに、サイノス教国軍はリサイア王国に攻め入る事になり、折悪く皇国側で蛮族の侵攻が確認された事で皇国軍の半数が帰国を決めた事で大勢が決する事になってしまった。
もし、鈍亀と蔑まれつつ、遠征軍の後方で補給線の確保をこなし、残された国境沿いの城に籠って後方を攪乱する筈だったキリアス侯爵領軍の起死回生の”一撃”が無ければリサイア王国の王都は容易に陥落していた事だろう。
侯爵領軍は、その誇りともいえる高価な重鎧(これも実はユーチェの発案で作成された物で、防刃性の優れた繊維と金属板を複層構造にする事で軽量化を図った物だ)を脱ぎ捨て、城に豊富な糧食に火を放ち、一気に教国軍の後方から襲い掛かり甚大な被害を与える事に成功した。侯爵領軍側の被害も大きかったが、戦果に比べれば無視出来る程度とも言える、但し、侯爵領軍としてではなく王国の軍として見た場合だったが・・・。