悪夢の定義を述べよ
群れ来る妖魔を片っ端から薙ぎ払えば、死人の肌のような灰色の皮膚の下から、毒々しい緑の体液が迸る。
異臭を放つそれらをよけながら、何体目になるか分からない妖魔を屠っていく。
大した知能を持たない妖魔は小賢しい真似をしないだけ、人を相手に戦うよりは幾分ましかもしれない。
彼女が核へと落下してから、しばらくの時が過ぎていた。
だがしかし、彼女はいまだ戻らず、核にさしたる変化もない。
眼下、灰色の沼から、時折新しい妖魔が生まれる。ある個体は森へと歩み去り、そしてまたある個体は生まれたばかりの羽根を動かして、大空へと飛び立つ。
(これでは本当にきりがない!)
斬撃の合間で私は小さなため息をついた。
八重香が失敗するとは露ほども考えていなかった。ただ、早く倒さなけれはそれだけ生まれる妖魔が増えるから後々面倒だなと呑気なことを考えていた。
と。
一瞬にして空気の色が変わった。
耳に聞こえないほどの高音が、キンッっとあたりに響き渡った、ような気がした。
己の直感を信じ、咄嗟に核から出来るだけの距離を置いた。
このあたりまで退けばよかろうと振り返った瞬間、地表から血のように赤い液体が噴き上がった。それが上空を飛んでいた妖魔たちを次々に濡らしていく。
ぐぎゃああああああああああああああ
赤い液体を浴びた妖魔は、この世のものとも思えぬ鳴き声を上げて、次々と身悶えながら落下していく。
赤い液体がかかったところだろうか、白い煙が湧き上がっているのが見えた。
「なっ!?」
(あれは……酸か!?)
かかっただけで身を焼くものはそれしか知らない。
同胞であるはずの妖魔にさえ、あれが毒だと言うのなら……
(ヤエカ殿は!? 彼女は無事か!?)
己の周囲に防御壁を張り、赤い液の噴き上がるほうへを近寄った。
(いた!)
遠くに小柄な姿が見えた。赤い液の中、赤い鎧。紛れもなく彼女だ。
だが、様子が可笑しかった。
(防護壁を張っていない!?)
何を考える暇もなく、彼女に向かって飛んだ。
地面へ向けて真っ逆さまに落ちる彼女の体を抱き留め、彼女の唇から洩れる獣のような絶叫を耳にした。
暴れもがく彼女を押さえつけ、無理矢理に術を施しながら、己の失態に唇を噛んだ。
(なぜ、もっと早く気が付かなかったんだ!)
自分を責める言葉だけが胸に浮かぶ。
「絶対に死なせたりなんてしない」
ひとり呟いた声は、意識を失った彼女には届かない。それでもいい。
ああ。早く。早く戻らねば……彼女が、彼女が……
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「……さん、ディナートさん?」
呼ぶ声にディナートは目を覚ました。
「やっと起きた! ――随分うなされてましたよ」
隣で寝ていた八重香が心配そうに眉根を寄せ、ディナートの顔を覗き込んでいる。
「ヤエカ、殿?」
「やだ。今更『殿』なんてつけないで」
ぼんやりと呟いた彼を、八重香がくすくすと笑った。
ディナートは混乱する意識にしばし戸惑い、そして思い出した。
(ああ、そうか。あれはもう昔のこと、だ。あれから色々あって……私はヤエカと結婚したんだった)
「すまない。昔の夢を見ていたから、つい……」
朝日の差し込む眩しい部屋の中、八重香が朝日より輝く笑顔を零した。
「またあの時の夢を見たんですか? もういい加減忘れてくださいって。私はちゃんとここにいますよ?」
「分かってはいるんですよ、ヤエカ。でもね、あの時君を失うかもしれないと思って、本当に怖かったんですよ」
「大丈夫。本当に大丈夫なのに。あなたは本当に心配性なのね」
八重香の手が優しくディナートの頬を包む。
「ほら、私はちゃんとここにいるでしょう?」
間近で彼を見つめる銀と茶の瞳に魅せられた。
「ええ。そうですね、ヤエカ。あなたは私の隣にいる」
薄い夜着に包まれた細くて柔らかい体を抱きしめた。
「まだ起きるには早い時間でしょう? 二度寝でもしませんか、ヤエカ」
「でも二度寝したら、寝過ぎちゃうんじゃないですか?」
「それならそれでいい。寝坊してふたり仲良く叱られましょう」
楽しそうな笑い声が、彼の耳をくすぐった。
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けたたましい起床の笛が鳴り、ディナートは飛び起きた。
いつも起床の笛より前に目を覚ます彼にとっては、だいぶ寝坊したと言って良い。
大音声の笛に眠りを破られるのは、思いのほか不愉快だ。
顔を上げればそこにあるのは、エオニオの上に広がる空でも、ましてや光溢れ愛しい妻が添い寝をする寝室でもなかった。
実用一辺倒の味もそっけもない天幕が見えるばかり。
ディナートは耳に残る笛の音に顔を顰めて、小さく溜息をついた。
「夢、か……」
どっと疲れが出た。
「夢見が良いんだか悪いんだか……」
とりあえず、今日一日は彼女の顔をまともに見られないような気がする。
ディナートはのろのろと寝床から這い出し、近くの川で顔を洗うべく天幕を出た。
八重香の顔をまともに見られないと彼が直感したのは、本当にその通りだった。後ろめたさを誤魔化すためか、執拗に八重香をからかうので、しまいには彼女が本気で怒り出した。
結局、翌日の朝まで口をきいて貰えなくて、閉口したということだが、もともと悪いのは彼であり、同情の余地などは一つもなかった。
西都まであと半分と言った頃の出来事である。
初出 2013.7.18 web拍手小話として掲載