2
住む場所が都に変わっても、男に大きな変化はなかった。人という生き物は、嘘つきで、気まぐれで、いいかげんで、男はそれが我慢できず、職を転々とした。
その日も、給料を勝手に着服した上司に腹を立て殴り、不機嫌なまま家路についた。
玄関を開けると、繕い物の内職をしていた妻となった少女が「おかえりなさい」と出迎えた。いつものように仕事をやめたというと、またですかと文句言うが最後にはいつものように仕方ないと許し、内職の手を止め夕食の支度をしに炊事場に向かった。その後ろ姿が見えなくなると男は大きくため息をついた。
その日常と化した光景が、男には不思議でならなかった。
男にとって妻は、家から出るために利用した存在でしかない。自分が連れて行くことを決めた以上、男から手放すことはしないが、相手が離れていくのは自由だと思っていた。実際、妻にとってろくに稼ぎもしない夫の存在は負担でしかないはずだ。なのに、毎日忙しそうに働いて、働いて、それでも生活はよくならないのに、妻は男を見捨てることもなく、いつも笑顔を絶やさない。
その献身的な姿に何か裏があるのではと疑い、男は何故「我慢」ができるのかと妻に問うた。炊事場から鍋ごと持ってきた妻は、底が透き通って見える粥をよそいながら男の問いに笑って答えた。
「あたしはあなたと生きることを決めたから、それ以外の事は妥協することにしたんですよ」
我慢しているんじゃなくて、あなたがそういう人だって分かってるから気にならないだけです。
それでも我慢できないことがあれば、ちゃんと文句をいいますよ。さ、いただきましょ。
大したことではないとでも言う様に、さらりと流されその会話は終わった。後日聞いたら、そんな受け答えをしたことすら妻は忘れていた。そんな妻にとって記憶にも残らないほど“当たり前”の言葉の意味を男は理解できなかった。
それまで敵とミカタで分けていた生き方をしていた男にとって、区別するでもなく受け入れるという事など誰も教えてくれなかった。
お前が何を言っているのかさっぱり分からないと、素直な気持ちを伝えると妻はいつものように仕方がないとまた笑った。
何度もその笑顔を見てきたはずなのに、男は初めて妻が笑うと小さなえくぼができることに気が付いた。
※
それからしばらくして、知人の紹介で軍に入った。
最初に与えられた仕事は都の警邏であった。基本2人組で治安維持のため街を回るのだが、腕は立つが無愛想で、どこか人を見下しているような目をした男と組みたがる者はおらず、男はほぼ一人で仕事をしていた。
軍に入り1月経った頃、いつもの様に一人で見回りをしていた男は暴漢に襲われていた貴族の娘を助けた。
貴族の娘は乳母とお忍びで街に出かけていた最中に道に迷った所を、男たちに物陰に引きずり込まれたらしい。多少衣服は乱れていたものの、すぐに男が助けたため特に被害はなく、後からお嬢様がいないと街を走り回っていた乳母ともどもひどく感謝された。
娘の家まで送り届けると、お礼に夕食でもどうかと誘われたが、男にとって娘を助けたのは仕事の一環でしかなかったので、それ以上関わる気もなく適当に断りすぐに立ち去った。
しかし、それからしばらくすると貴族の娘は男の前に姿をみせるようになった。
どうやら軍部の予定表を親の伝手をたどって入手したらしく、行く先々で偶然を装い声をかけてきた。仕事と関係ないのでおざなりに相手をするが、それでも娘はあきらめずに、男の後ろを追いかけた。
甘い声で男の名を呼び、日ごとに髪形を変え、化粧を変え、服を変え、男にどうかと問うてくる。日増しに色艶を増す貴族の娘に同僚達は、うらやましいとかあんな美人に言い寄られて何とも思わないのかとかうるさく、妻を知るやつは女を見る目がないと頭を振った。
確かに妻はお世辞でもなければ、美人とすら言われない顔立ちをしている。
つぎはぎの目立つ粗末な服、ろくに手入れもされていないほつれた髪、苦労を重ねた手の平は年頃の娘とは思えないほど固い。
あの美しい貴族の娘とは違全然違う、薄汚い娘。
でも
気まぐれで道端で咲いていた花を摘んできた時に見せる、嬉しそうな顔。
声をかければ当たり前のように着いてきて、つながれる手。
月が綺麗だと、茶を飲みながらただ空を仰ぐ穏やかな時間。
そんな妻より、貴族の娘に価値があるという周りの言葉を男はやっぱり理解することができなかった。
ただ、同僚達の言葉や、妻の言葉を男がわからないように、周りも男の気持ちが理解できない。それはお互いをの考えや価値が違う故の“当たり前”の事であり、人はそれに対し“我慢”をするのではなく相手を知ろうとしたり、受け流したりして距離感をはかりつつ適度に付き合っているのだと男は気づくようになる。
それ以降、男は理解できないことをただ否定するのではなく知ろうとするようになり、それまで付き合いの悪かった男の変化にあわせるように、男の周りには自然と人が集まるようになる。
少しだけ、男は生きるのが楽になった。
その内貴族の娘は、親に所帯を持つ男を追いかけている事がばれ、ある日を境にぱたりと来なくなる。しかし、同僚に指摘されるまで男がそれに気づくことはなく、娘の存在はあっという間に男の記憶の奥隅に追いやられた。