妹を愛でる婚約者様のために、私は喜んで身を引きます。
【改稿のお知らせ】
作品を読んでくださった皆様、ありがとうございます。
いただいた感想を参考に、エレノアの母親に関する設定がより分かりやすく伝わるよう、一部の描写を改稿いたしました。
ご指摘くださった読者様ありがとうございました。
「婚約を解消してください」
私がそう告げると、アレクシス様は目を丸くした。
「どうして?」
「これ以上、私がいると妹君が悲しんでしまうでしょう?」
私の隣で、リリアナ様がぱっと顔を輝かせた。
「まあ、お姉様(義理の姉になる人、お義姉様では?)。ようやく分かってくださったのですね」
嬉しそうな声だった。
まるで、ずっと待ち望んでいた贈り物を受け取った子供のように。
私は微笑んだ。
「ええ。ですから、喜んで身を引きます」
「エレノア!」
アレクシス様が声を荒らげる。
けれど私は、もう彼の顔を見なかった。
だって
私より妹を選ぶことが、彼にとって正しいことだったのだから。
ならば私は、その望みを叶えてあげようと思ったのだ。
♢♢♢
私の婚約者には、可愛らしい妹がいる。
リリアナ・ヴァルガス
淡い金髪に空色の瞳
薔薇色の頬に、いつも浮かんでいる愛らしい微笑み。
誰が見ても、絵本から抜け出してきたような令嬢だった。
ただし
私に向ける笑顔だけは、少し違った。
「まあ、エレノア様。またお兄様のお隣ですの?」
王都の大劇場
慈善公演を観覧するために集まった貴族たちの前で、リリアナは小首を傾げた。
「婚約者ですもの」
「まあ」
リリアナは扇で口元を隠した。
「婚約者なら、何をしても許されると思っていらっしゃるの?」
意味が分からなかった。
けれど次の瞬間
リリアナは私の前を横切り、アレクシス様の腕に自分の腕を絡めた。
「お兄様。こちらに座りましょう?」
「リリアナ。そこはエレノアの席だよ」
「少しくらい、いいでしょう?」
アレクシス様は困ったように笑った。
「仕方ないな」
そう言って、リリアナの隣に座る。
周囲から、くすくすと笑い声が漏れた。
「仲の良い兄妹ね」
「リリアナ様は本当にお兄様が大好きなのね」
「微笑ましいこと」
私は一人、用意された席に座った。
この程度なら、我慢できた。
兄妹なのだから。
妹が兄に甘えることくらい、珍しくもない。
そう思っていた。
♢♢♢
最初は、私がアレクシス様に贈ったハンカチだった。
母から教わりながら刺繍した、小さなもの。
ある日、リリアナがそれを勝手に持ち去った。
「お兄様。このようなもの、お持ちにならないほうがよろしいですわ」
「それ、エレノアがくれたんだよ」
「まあ。そうでしたの?」
リリアナは笑った。
そして
暖炉へ放り込んだ。
「リリアナ!」
アレクシス様が立ち上がる。
けれど、リリアナは少しも怯えなかった。
「ごめんなさい、お兄様」
「エレノアに謝るんだ」
「ごめんなさい、お姉様」
笑顔だった。
その夜、私はアレクシス様に言った。
「どうして、あれを許すのですか?」
「リリアナも悪気があったわけじゃない」
「ハンカチを燃やすことが?」
「やりすぎたとは思うよ」
「では、叱ってください」
アレクシス様は黙った。
そして、困ったように笑った。
「君も、妹ができたと思って仲良くしてくれないか?」
私は答えなかった。
その時、初めて気づいた。
この人は、私に我慢してほしいのだ。
妹を叱るより、
私に耐えてもらうほうが、楽だから。
次は、義母から贈られた首飾りだった。
舞踏会の直前になって消えた。
侍女と探し回り、ようやく見つかった場所は、リリアナの部屋。
「どうして私の部屋に?」
リリアナは驚いた顔をした。
「私を犯人にしたいのですか?」
公爵夫人はすぐに娘を抱きしめた。
「かわいそうなリリアナ」
私は耳を疑った。
「私の首飾りが、ここから見つかったのですよ?」
「エレノアさん。少し落ち着きなさい」
「ですが――」
「リリアナはそんなことをする子ではありません」
アレクシス様も口を開いた。
「エレノア、もういいじゃないか」
「……私のほうが悪いのですか?」
「そういう意味じゃないよ」
「では、どういう意味ですか?」
アレクシス様は答えなかった。
ただ、リリアナの肩に手を置いた。
それだけだった。
幼い頃に母を亡くした私を義母は戸惑いながらも母親として、淑女として大切に育ててくれた。
そんな義母が婚約の際に見立ててくれた大切な首飾りだったのだ。
アレクシス様にとってはただの首飾りでも。
♢♢♢
それからも、同じことが続いた。
私の手紙が消えた。
ドレスに飲み物をこぼされた。
社交界には、私がアレクシス様を束縛しているという噂が流れた。
そのたびに、リリアナは言った。
「お兄様が大好きなだけです」
そしてアレクシス様は言った。
「リリアナに悪気はない」
何度も
何度も
同じ言葉を聞いた。
そして、ある日
私の亡き母の形見である宝石箱が壊された。
幼い頃に母を亡くした私にとって、それは母が父から贈られた大切な宝物であり、母の面影を感じられる数少ない品だった。
床に散らばる宝石
欠けた指輪
私は、しばらく何も言えなかった。
「まあ」
リリアナは首を傾げた。
「そんなに大切なものだったのですね」
「……どうして、こんなことを?」
「お兄様の隣に立つ人には、もっと相応しいものが必要だと思ったのです」
その言葉を聞いた瞬間。
私の中で、何かが終わった。
私はアレクシス様を呼んだ。
「リリアナ様に謝罪していただきたいです」
「リリアナ、謝りなさい」
「ごめんなさい、お姉様」
「心から謝ってください」
「まあ」
リリアナは目に涙を浮かべた。
「私、そんなに悪いことをしましたか?」
アレクシス様がすぐに彼女の肩を抱いた。
「もういいだろう、エレノア」
「よくありません」
「リリアナは反省している」
「笑っています」
「君は――」
アレクシス様は眉を寄せた。
「妹に嫉妬しているんだ」
静寂が落ちた。
「……私が?」
「リリアナに僕を取られたと思っているんだろう」
「違います」
「なら、どうしてそんなに怒るんだ?」
私は彼を見つめた。
そして、ようやく分かった。
この人は、私の気持ちを理解しようとしていない。
理解する必要がないと思っているのだ。
だって
私は婚約者
妹は、可愛い妹
自分にとって大切なのは妹
私には我慢してもらえばいい。
それが、この人にとっての「優しさ」だった。
♢♢♢
「分かりました」
私は笑った。
「では、婚約を解消しましょう」
「……何?」
アレクシス様が固まった。
「私がいなくなれば、リリアナ様は悲しまなくて済みます」
「待ってくれ」
「アレクシス様も、妹君を我慢させずに済みます」
「エレノア、そんなつもりで言ったんじゃない」
「ですが、私にはそう聞こえました」
私は頭を下げた。
「三年間、ありがとうございました」
その日のうちに、私は実家へ戻った。
父と義母に事情を話すと、二人は私を責めなかった。
「よく耐えましたね」
義母の静かな言葉に、張り詰めていたものが切れた。
今、こうして私の痛みを受け止めてくれる人がいる。
私は初めて、声を上げて泣いた。
翌日
ヴァルガス公爵家から返事が届いた。
『エレノア嬢は、リリアナに嫉妬するあまり、婚約を破棄しようとしている』
さらに
『妹に嫉妬する大人気ない令嬢とは、まことに嘆かわしい』
そんな噂まで流された。
社交界では、私は悪者になった。
「婚約者の妹に嫉妬するなんて」
「リリアナ様はあんなに可愛らしいのに」
「怖い方ね」
私は何も反論しなかった。
ただ、父に一つだけお願いした。
「王宮で正式に婚約解消の場を設けてください」
「証拠はあるのか?」
「はい」
私は一冊の帳簿を差し出した。
侍女たちの証言
消えた私物
壊された品
隠された手紙
そして
公爵家へ何度も訴えた記録
すべて残していた。
♢♢♢
王宮には、王太子殿下をはじめ、多くの高位貴族が集まった。
「エレノア嬢。婚約解消を望む理由を述べよ」
私は立ち上がった。
「私は三年間、婚約者の妹君から嫌がらせを受けてまいりました」
「嘘です!」
リリアナが叫んだ。
「私はただ、お兄様が大好きなだけです!」
「では、こちらを」
証拠を一つずつ提出する。
ハンカチ
首飾り
宝石箱
手紙
証言
そして最後に
公爵家が私からの訴えを何度も受けていた記録
王太子殿下の表情が険しくなった。
「公爵。これが事実なら、なぜ対応しなかった?」
「それは……」
公爵は言葉を失った。
公爵夫人も俯いた。
そして
アレクシス様が立ち上がった。
「僕が悪かった」
私は彼を見る。
「リリアナを甘やかしすぎた。けれど、僕は妹を大切にしただけだ」
「ええ」
「兄妹として仲が良かっただけだ」
「ええ」
「なのに、なぜ君は僕たちを壊そうとする?」
私は首を傾げた。
「壊してなどいません」
「では、なぜ?」
「私は身を引いただけです」
アレクシス様が黙った。
「妹君を一番にしたいのでしょう?」
「……」
「でしたら、これからは思う存分、一番にして差し上げればいいではありませんか」
リリアナが震える声で言った。
「お兄様……」
アレクシス様は、妹を見る。
そして私を見る。
初めて
彼が選択を迫られたような顔をした。
私は微笑んだ。
「どうぞ、妹君をお選びください」
王太子殿下が静かに口を開いた。
「婚約解消を認める」
その瞬間
私の三年間は終わった。
♢♢♢
婚約解消から一月後
アレクシス様が、私の実家を訪ねてきた。
「エレノア」
「お久しぶりです」
「僕は、君を愛していた」
「でしたら」
私は静かに尋ねた。
「なぜ、私を守ってくださらなかったのですか?」
アレクシス様は答えられなかった。
「私が傷ついていると言ったとき、なぜ妹君を叱らなかったのですか?」
「……」
「私が婚約を解消したいと言ったとき、なぜ私を嫉妬深いと決めつけたのですか?」
「僕は……」
アレクシス様の目に涙が浮かんだ。
「君が、ずっとそばにいると思っていた」
「そうでしょうね」
私は笑った。
「だから、失ったのです」
「エレノア……」
「もう、私の人生に関わらないでください」
彼は何も言えなかった。
やがて、背を向けて出ていった。
その後
ヴァルガス家には、以前のような縁談が来なくなった。
リリアナにも
アレクシス様にも
当然だろう。
婚約者を守れない男
娘の嫌がらせを「兄妹愛」として放置する両親
そして、婚約者から兄を奪おうとし続けた令嬢
誰も、そんな家と関わりたいとは思わない。
けれど私は
ようやく自分の人生を歩き始めた。
「エレノア」
ある日、母が尋ねた。
「後悔していないの?」
「何をですか?」
「婚約を解消したこと」
私は庭の薔薇を眺めた。
「少しも」
だって
私は、彼らが望んだ通りにしただけなのだから。
妹を一番にしたい婚約者のために。
私は喜んで身を引いた。
だからこれからは
どうぞ二人で、いつまでもお幸せに。
エピローグ
婚約が解消されてから、三か月。
ヴァルガス公爵家には、少しずつ変化が起きていた。
最初に減ったのは、夜会への招待状だった。
「また……ですか?」
公爵夫人が手にしていた封筒を眺める。
以前なら、一月先まで予定が埋まるほど届いていた招待状が、明らかに少なくなっていた。
「今年の王妃殿下主催の夜会も……?」
侍女が気まずそうに頷く。
「まだ、届いておりません」
「そんなはずは……」
公爵夫人は眉をひそめた。
ヴァルガス公爵家は、王家に次ぐ名門だ。
少なくとも、つい先日まではそう思っていた。
ところが
「最近、皆さんの態度がおかしいのです」
社交界から戻ったリリアナが、不満そうに言った。
「私が話しかけても、以前のように笑ってくださらないの」
「気のせいでしょう」
公爵夫人はそう答えた。
けれど、その声にも自信がなかった。
最初の噂は、ほんの小さなものだった。
『エレノア嬢は、婚約中からずいぶん我慢していたらしい』
『何度も公爵家に相談していたそうよ』
『それなのに、公爵家は何もしなかったとか』
誰が言い始めたのか。
誰も知らない。
ただ、妙に具体的だった。
そして不思議なことに。
その噂を聞いた人々は、口を揃えてこう言った。
「まあ……エレノア様、お気の毒に」
その一言が、ヴァルガス家には致命的だった。
♢♢♢
エレノアは、何もしていなかった。
少なくとも、表向きは。
実家に戻ってからは、以前と変わらない日々を送っていた。
朝は庭を散歩し、義母とお茶を飲み、父の仕事の話を聞く。
そして時折、昔から親しくしている友人の母――社交界でも名うての噂好きな侯爵夫人のところへ遊びに行った。
「まあ、エレノアちゃん」
侯爵夫人は、彼女の顔を見るなり心配そうに眉を下げた。
「本当に大丈夫なの?」
「ええ。もう終わったことですから」
「でも……」
侯爵夫人は声を潜める。
「婚約者の妹君から、いろいろされたというのは本当なの?」
エレノアはしばらく黙った。
そして、困ったように笑った。
「……私の口からは、何とも」
「まあ」
それだけだった。
けれど、その日の午後。
侯爵夫人のお茶会では、こんな話題が出た。
『本人が否定しないということは、本当に何かあったのでは?』
翌日には、それが別の形になっていた。
『エレノア嬢は、ずいぶん耐えたらしい』
三日後には
『ヴァルガス家は婚約者の訴えを無視していたそうよ』
一週間後には
『公爵令嬢の嫌がらせを、公爵夫妻も知っていたとか』
噂とは、そういうものだ。
一度動き出せば、誰にも止められない。
♢♢♢
そしてもう一人
エレノアには、頼れる叔母がいた。
亡き母の妹で幼い頃から私のことを気にかけてくれていた。
王妃殿下とは幼い頃からの親友でもある。
今でも王宮への出入りが多く、社交界では彼女の言葉を無視できる者などほとんどいない。
その叔母のところへ、エレノアは一度だけ訪ねていた。
「おば様」
「どうしたの?」
「少し……相談したいことがあります」
エレノアは、婚約中に起きたことをすべて話した。
けれど最後まで、相手を責める言葉は口にしなかった。
「私がもっと上手くやればよかったのでしょうか」
叔母はしばらく黙っていた。
そして、深いため息を吐いた。
「あなたは昔からそうね」
「……?」
「自分が傷ついているのに、自分のほうが悪かったのではないかと考える」
「……」
「でもね」
叔母はエレノアの手を握った。
「それは美徳ではないわ。あなたを傷つける人間に都合がいいだけよ」
エレノアは少しだけ笑った。
「そうかもしれません」
「それで?」
「もう婚約は解消しましたから。これ以上、騒ぎにしたくありません」
「そう」
叔母は頷いた。
「なら、あなたが騒ぐ必要はないわ」
それ以上、何も言わなかった。
ただ、その日の夜
叔母は王宮を訪れた。
♢♢♢
「ねえ」
王妃は紅茶を飲みながら、昔からの友人を見た。
「あなた、随分怒っているでしょう?」
「怒ってなんかいないわ」
「その顔で?」
「……」
叔母は黙った。
王妃は苦笑する。
「エレノアちゃんのことね」
「ええ」
「可哀想な子ね」
「だからこそよ」
叔母は静かに言った。
「私は何もしていないわ」
「そうでしょうね」
「ただ、あなたに事実を話しただけ」
「ええ」
「それだけよ」
「ええ」
王妃は微笑んだ。
「でも、私は知ってしまった」
それからだった。
王宮で、少しずつ空気が変わった。
♢♢♢
最初に困ったのは、公爵だった。
長年懇意にしていた商人が、突然取引条件を変更してきた。
「どういうことだ?」
「申し訳ありません、公爵様」
「これまで問題なく続いていたではないか」
「ええ。ですが、今後は信用保証をお願いしたく」
「私を信用していないのか?」
商人は答えなかった。
ただ
「最近、いろいろと話を聞きまして」
それだけだった。
次に、領地で問題が起きた。
長年、公爵家に忠誠を誓っていた家臣が辞表を提出した。
「理由を聞こう」
「……家族のためです」
「何?」
「娘が嫁ぐことになりまして。これ以上、公爵家との繋がりを持っていると、先方の家に迷惑がかかるそうです」
公爵は愕然とした。
たった一つの婚約破棄
それだけで、ここまで?
そう思った。
けれど
本当は違った。
婚約破棄そのものが原因なのではない。
婚約破棄によって、今まで見えなかったものが見えるようになっただけだった。
♢♢♢
そして、リリアナ。
彼女の縁談は、完全に途絶えた。
「どうしてですの?」
リリアナは泣きながら母に尋ねた。
「私は何も悪いことをしていません」
「もちろんよ」
「お兄様だって、私を悪いとは言っていないわ」
「そうよ」
「だったら、どうして?」
母は答えられなかった。
ある夜
届いた一通の手紙を見て、リリアナは顔を真っ赤にした。
『婚約者を大切にできない家の令嬢を、我が家の嫁に迎えるつもりはありません』
別の手紙には
『妹君への接し方を改められない方とは、縁を結びたくありません』
また別の手紙には
『ご令嬢本人に悪意があったかどうかは問題ではありません。周囲がどう見ているかが重要なのです』
リリアナは震えた。
「みんな、お姉様の味方をしている……」
初めてだった。
自分が何をしても許されるわけではないのだと。
世の中は、自分の味方ではないのだと。
気づいたのは。
♢♢♢
半年後
ヴァルガス公爵家には、王宮から一通の通知が届いた。
領地の管理について、再調査を行うというものだった。
公爵は青ざめた。
「なぜ、今になって……?」
実際、重大な不正があったわけではない。
けれど、長年見逃されてきた小さな問題がいくつも見つかった。
帳簿の不備
税の徴収方法
領民への対応
どれも一つだけなら、大した問題ではなかった。
けれど
積み重なれば、話は変わる。
そして調査官は、冷静に告げた。
「これまで公爵家に対して寄せられた複数の苦情についても、確認させていただきます」
「苦情?」
公爵は顔を上げた。
その瞬間。
頭の中に、ある人物の顔が浮かんだ。
エレノア
♢♢♢
その頃
エレノアは庭で薔薇を剪定していた。
「お姉様」
弟が新聞を持って走ってくる。
「ヴァルガス家、また大変みたいだよ」
「そうなの?」
「社交界では、もう誰も味方しないって」
「まあ」
エレノアは驚いたように目を丸くした。
「大変ね」
弟は首を傾げた。
「……本当にそれだけ?」
「ええ」
「何もしてないの?」
エレノアは剪定鋏を置いた。
「何もしていないわ」
そして、少しだけ笑った。
「ただ、昔から心配事を相談していただけよ」
「相談?」
「ええ」
弟は怪訝そうな顔をする。
エレノアは庭の薔薇を眺めた。
婚約中
彼女は何度も言った。
困っていることがある。
悲しいことがある。
どうすればいいのか分からない。
けれど、誰かを罰してほしいとは、一度も言わなかった。
ただ事実を話した。
母の形見が壊されたこと。
婚約者に訴えても聞いてもらえなかったこと。
何度お願いしても、何も変わらなかったこと。
それを聞いた人たちが、どう判断するか。
それはエレノアの責任ではない。
♢♢♢
さらに一年
ヴァルガス家は、かつての栄華を失っていた。
公爵の発言力は落ち。
夫人は社交界で腫れ物のように扱われ。
リリアナには縁談が一つも来なかった。
そしてアレクシスは
王宮での重要な役職から外されていた。
「なぜですか」
彼は王太子に尋ねた。
「僕は何もしていません」
「そうだな」
王太子は書類から目を上げた。
「君は何もしなかった」
「……」
「婚約者が傷つけられていると訴えたときも」
「……」
「妹が問題を起こしたときも」
「……」
「君は何もしなかった」
アレクシスは何も言えなかった。
「だからこそ、私は君を重要な立場に置けない」
それは、あまりにも静かな宣告だった。
♢♢♢
その日の夕方
エレノアのもとへ、一通の手紙が届いた。
差出人は、叔母だった。
『あの家、随分静かになったそうよ』
その一文を読んで
エレノアは、ふっと笑った。
『あなたが望んだ通り、誰もあなたを責めていないわ』
『あなたは一度も、復讐してほしいとは言わなかったものね』
『だから私は何もしていない』
『ただ、あなたの話を聞いただけ』
エレノアは手紙を畳んだ。
「……そう」
それだけだった。
♢♢♢
数年後
エレノアは、別の男性と結婚した。
穏やかで、誠実な人だった。
彼は彼女の話を最後まで聞き。
嫌だと言ったことを尊重し。
何か問題が起きれば、まず彼女の側に立った。
「君は、もっとわがままを言っていいんだよ」
そう言われて。
エレノアは少し困った顔をした。
「わがままなんて、言ったことがありませんもの」
「これから言えばいい」
「……では」
エレノアは微笑んだ。
「薔薇園をもう少し広くしたいです」
「それくらいなら、いくらでも」
今度は
我慢しなくていい人生だった。
ある春の日
王宮から届いた招待状を眺めながら、エレノアは庭に出た。
遠くで、薔薇が風に揺れている。
昔、自分はただ耐えていたと思っていた。
けれど、違った。
耐えている間にも。
自分の言葉を、誰かが聞いていた。
自分が傷ついたという事実を、誰かが覚えていた。
そして時が来れば
人は、それぞれの目で物事を判断する。
だから
エレノアは何も復讐しなかった。
何も命じなかった。
誰かを陥れようとも思わなかった。
ただ、自分の人生を取り戻した。
その結果として
彼女を大切にしなかった者たちは、自分たちが積み重ねてきたものの重さに押し潰されていった。
庭の薔薇を一輪、摘む。
赤い花びらが、春風に揺れた。
「エレノア」
夫が呼ぶ。
「今行きます」
彼女は振り返った。
そして、もう二度と振り返らなかった。
――蒔いた種は、いつか芽吹く。
それが毒の種であっても。
それを蒔いた人間が、最後まで手を汚さなかったとしても。
ご一読いただきありがとうございました。
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