第2話 忘れられた魔女
「むおォォ!」
野太い声が店内に響いて、魔法のレクチャーを受けていた受講者たちは一斉にギルベルトの方を振り返った。
彼の隣にいた僕も被害を被りそうだったので、愛想笑いを浮かべて小さく首を横に振っておく。
「うまくいかない?」
コーチのセシリーがギルベルトに歩み寄った。
ミズ・セシリーは初期魔法セミナーの講師だ。目鼻立ちがはっきりした美人だが愛想も良く、老若男女様々な生徒たちから人気が高かった。
「で、出ない……!」
ギルベルトは激しく眉根を寄せながら手を握り締めた。
「さっきは出来たのに……!」
「焦らずに。少しずつ魔力を練ることもできるようになってきてるんだから。ね?」
熊のような大男が背中を丸めて子猫のように目を伏せている様は妙な迫力があった。体は大きいが、顔には深い皺が刻まれている。初老の域はとうに過ぎていた。
「おじいちゃん、だいじょうだよ! ちゃれんじちゃれんじ! いっしょにがんばろっ!」
小さな女の子に笑顔で太ももをバシバシと叩かれ、ギルベルトは申し訳なさそうに頭をかいた。
ゼナ共和国は魔法の先進国である。
それほど大きな領土を有しているわけではないが、インフラのほとんどを魔法技術で補っている国家は珍しい。
超大陸ゴンドアナでは、魔法の使用については国家を越えて厳しい制限が設けられている。他者を殺傷する危険性がある魔法を許可なく使用した者は、法律により重たい刑罰が課せられるというわけだ。
そもそも魔法それ自体が、自然界の精霊たちと対話する術を長い訓練を経て体得するものではあるが、このゼナ共和国では魔法の素養がある者が突出して多かった。ハイスクールでは魔術習得の必須カリキュラムがあり、手品レベルの簡易な魔法であれば広場や公園で小さな子供が使用している姿を見ることができる。
だから、ギルベルトのように初期魔法さえまともに扱えない人間は、この国では珍しかった。
「ぐぬぬぬぬ……!」
街の中央公園で開催されているカルチャーセミナーに、僕は参加している。
初級から中級クラスのこのレッスンに参加しているのは、中等部の学生らしき若者や趣味目的の主婦、老人や才ある優秀な幼児など。講座の内容は魔力でマジック・ランタンに光を灯すというものだ。少し魔法を習ったことがある者なら、誰でもできる程度の魔法らしい。
これが実践できていないのは、体験で参加している余所者の僕と、ギルベルトだけだった。
野獣のように険しい表情を浮かべながら、ギルベルトは開いた右手を凝視していた。プルプルと震える手の平には、うっすらと光の粒が垣間見えた。皺がれていてもなお、彼の指先は猛禽類のように雄々しく猛々しい。
「あと少しじゃないですか?」
「いや……ここからが難しいんだ」
僕は光の欠片すら出すことができない。魔法の才がない者が魔力を具現化できているだけでも大したものではないかと思うのだが、遠巻きにこちらを見ている学生が鼻で笑っているところを見ると、この国ではまったく大したことではないようである。
「ふんっ!
と、ギルベルトが鼻息を荒くした瞬間、膨らみかけていた光の玉は泡のように消え去った。
「あぁ、だ、ダメだ……!」
ギルベルトはしょげ返って芝生の上にドスンと座り込んだ。いちいち動作がパワフルだ。
さっきの学生が卑下した笑みを浮かべてこちらを見ている。いくらなんでも失礼だろう。
「ちょっと言ってきましょうか?」
「いや、かまわんよ。こんな大男がライトひとつ点けることもできんのだ。笑いたくもなるだろう」
「懐が深いですね」
「若い頃なら詰め寄って怒鳴り散らしていただろうが……歳をとった」
「怒鳴り散らしてましたか?」
「いや、投げ飛ばしてたかも」
「地面を叩き割っていた、の間違いでは?」
「そこまでできりゃあ痛快だな」
「できたでしょう。剛腕のギルベルトなら」
ギルベルトは僕の顔をまじまじと見つめた。
「こりゃあ驚いた。その呼び名を知ってる者がまだいるとは」
「こう見えて、記者なんでね。どうです、休憩ついでに少し過去の冒険についてインタビューさせてもらえませんか?」
「よそから来て魔法の体験など珍しいとは思っておったが、それが目的だったのか?」
「いや、それだけじゃあないですけど……先にあなたに出会えたのはラッキーでした」
「話をするのはかまわんが……冒険者を辞めて、もう二十年は経つ。君が満足するような話は思い出せんかもしれんぞ」
彼の栄光の日々よりも、僕には気になっていることがあった。
「うまくいかなかった?」
手が空いたらしい、セシリー先生が僕とギルベルトのそばにやってきた。
「あら、ごめんなさい。お話し中だったかしら?」
「いえ、休憩がてらお喋りしていただけです」
「どう? 体験してみて、精霊の気配は感じられた?」
「ダメですね。そもそも帝国では、魔法使いは高度な専門職であって、限られたエリートしかなれないジョブです。魔法を使うことがどれほど困難なことか、それがよくわかりました」
僕の膝の上でくつろいでいたチャオが、セシリーの肩に飛び乗って彼女の頬をなめた。
「ふふ、可愛らしい。女の子?」
「ええ」
「魔法生物ね。このあたりでは見かけない。彼女の方は、大きな魔力を秘めているみたい」
へぇ。
それを見抜いたセシリーに、僕は感心した。
「やだ、違うのよ。あなたと比べたわけじゃなくって」
「かまいませんよ」
「生徒さんにひどいことを言ってしまって。いけないわね」
「ギルベルトさんの方は、もう少しなんじゃないですか?」
うーむ……とギルベルトは再び唸った。
唸りながら、もう一度右手を空へかざして見せる。
ギルベルトの手の平に、薄い光が収束し始める。
「いけるかも」とセシリーはつぶやいた。
「力を入れ過ぎないで」
「そうは言うがな。力まんというのはどうも性に合わん」
セシリーはギルベルトの右腕に両手を添えた。
「ダメだ……」
ギルベルトの言葉とは裏腹に、手の中の光は力強さを増していた。
「大丈夫。後少し、心を精霊に委ねて」
「消えてしまう」
「……今!」
「おっ……!」というギルベルトの間の抜けた声の後、収束した光の玉は勢いよく空へと上がっていった。遥か上空で淡く弾けたのが見える。
「やった!」
「おおっ!」
ギルベルトは立て続けに光の玉を空へと打ち上げた。どうやらコツをつかんだらしい。
「すごい。やりましたね、ギルベルトさん」
「あぁ」
ギルベルトは、どこか懐かしそうに光の行く末を見上げていた。
「これが、魔法というものなのか」
数発放った後、じっと右手を見つめるギルベルトに、僕は訊いた。
「ギルベルトさんは、どうして魔法を習おうと思ったんですか?」
「なぜ……?」
振り返ったギルベルトは、きょとんとした様子で小首を傾げた。
「そうだ……なぜわしは、魔法を使えるようになりたかったんだろう?」
ギルベルト・スタークダインは魔法嫌いで有名だった。
大戦斧使いとして名を馳せた巨漢のトレジャーハンターは、パーティに魔法使いを加えることも、負傷した傷を魔法で治すこともしなかったという。
剛力と戦斧の技だけで、ギルベルトが攻略したダンジョンと秘境の数は五十を超える。
三十歳を過ぎ、冒険者としても円熟期を迎えた頃、ギルベルトはゼナ地方の冒険で王都の外れにある森へ迷い込んだ。山肌に出ると王国を一望することができる、小高い丘に面する小さな森。
ギルベルトは、そこで一人の女性に出会った。
常の魔女。精霊と魔術に愛された天才。足跡や文献はほとんど残されていなかったが、ゼナ王国で、かつて彼女はそう呼ばれていた。
その女性に、ギルベルトは心を奪われた。
彼女は美しかった。
銀髪も、眼差しも、そこに不純なものを一切含むことなく、彼女はギルベルトを見据えた。
「おこんばんは」
「え? あぁ……お、おこんばんは」
悪鬼サイクロプスですら恐れて道を譲るギルベルトが、彼女の前では背中を丸めて首を垂れた。
「こんなところで、女性が一人で何をしているのだ?」
闇の眷属ヘカテーの呪いを受け、この場所を離れることができなくなった——と彼女は言った。
ヘカテーは「魔女の女王」と呼ばれる魔族の上位種だ。人間が太刀打ちできる相手ではない。それを彼女は、一人で滅ぼしたというのか?
「連れ出してやろう。野盗が出ないとも限らん」
ギルベルトは彼女の手を引いて森の外を目指したが、不可思議な力に阻まれ、彼女を連れ出すことができなかった。
森の外に出られないのは、彼女だけだった。
「ありがとう。でも無理なの。この一年、あらゆる魔法を試したけど、結界を破ることはできなかった」
「一年……一年だと!」
「大丈夫。魔法さえあれば、私はなんでもできるから」
森の中心には泉があり、傍には小さな小屋があった。添え物のようなテラスには、ロッキングチェアが一脚。
それらは全て、彼女が魔法で創り出したものらしい。
「小川には魚がいるし、木の実だって豊富にある。生きるのには困らない。鳥さんにお願いすれば、外の様子だって視ることができるのよ?」
「だが、君は一生この場所で過ごすつもりなのか? 気の遠くなるような時間なんだぞ」
「ヘカテーの呪いは、いずれ私の存在ごと消し去っていくわ。人々の記憶から……きっと私自身の記憶からも消えていく。だからきっと、それはそんなに遠い未来のことじゃないのよ」
「バカな……」
ギルベルトは、生まれて初めて女性を好きになった。この純真無垢な女性を、心から愛した。
それから、ギルベルトは冒険の先々で彼女の呪いを解く方法を探し求めた。ギルドの報酬や遺跡の調査は魔導書のみを追求し、ギルベルトはそれらを頻繁に彼女の元へ持ち帰った。
だが、どれだけ探しても彼女の呪いを解く方法は見つからなかった。
腕力だけではどうにもならないこともある。
やがてギルベルトがバトルアックスに重みを感じるようになった頃、彼はこの森で常の魔女と暮らし始めた。
それはギルベルトがこれまでに感じたことのない、穏やかな日々だった。
変化は緩やかだった。彼女との幸福の中にあって、国を救った英雄である常の魔女の存在をゼナ王国の人々が忘れ始めていることに、ギルベルトは気がつかなかった。
「遠い土地には何があるの?」
ギルベルトは彼女に自分の冒険の日々を話して聞かせた。同じ旅の話でも、彼女は飽きることなく何度も聞きたがった。
「モブロス地方は暖かい土地でな、丘の向こうに一面の花畑が広がっていた。そこで見た七色の光りを放つ花の美しさは、今でも忘れられん」
「今まで見た中で一番きれい?」
「いや……」と、ギルベルトは彼女を見つめながら頬を赤らめた。
「話すだけでは伝えられん。その花だけではない。この世界の本当の美しさは、実物をその目で見てみなければわからないものだ」
いつか連れて行く……と言いかけ、ギルベルトは口ごもった。
「いつか、君を……。君の、名前……名前、は……?」
「いいの」
「なぜだ?」
「いいのよ」
強大な呪いの力は、彼女だけでなく森やゼナ王国の人々の心をも蝕んだ。
永遠ではないから、日々はかけがえがない。
やがてギルベルトが彼女の名前も、彼女の存在も忘れた頃、彼女はギルベルトにさようならをした。
「……ギルベルトさんがここを去ったのは、何年前のことですか?」
常の森の奥深く。
小さな小屋の室内には、古ぼけたテーブルとカップボード、キッチンの他には魔導書が並ぶ書棚があるだけだった。そのテーブルの対面で簡素なイスに腰掛けながら、魔女は小さく首を横に振った。
「覚えていないわ。ずいぶん昔のことですもの」
そう言いながら、常の魔女はギルベルトほど年老いているようには見えなかった。ギルベルトと彼女にそこまでの年齢差はないはずだが、彼女の透き通った美しさと凜とした佇まいには、老齢という言葉はふさわしくなかった。
「記憶が退行しているわけじゃないのよ。ただ呪いが深く進行しているだけ。あと数年も経てば、私は自分のことも誰だかわからなくなるでしょう」
魔女は僕の顔をまじまじと見た。
「面白いわね。あなた、いったい何者なのかしら? この場所は、もう誰からも忘れられて、森へ立ち入ることすらできないはずなのに」
スリングバッグに隠れていたチャオが、僕の肩に顔を出した。
「なるほど、珍しい生物を連れているのね」
「ここに入れたのは、チャオのおかげです」
「なぜギルベルトのことを聞きにきたの? 呪いのことを知っているなら、私のことも、私の話が記録できないこともわかっているでしょう」
彼女の言う通り、僕がインタビューしたギルベルトとの馴れ初めをメモすることはできなかった。もちろんペンが壊れているわけではない。魔術的な何かに精神が遮られているだけだ。
「ここで話した内容も、森の外に出れば忘れてしまいます」
「そうみたいですね」
闇の眷属の呪いは、陰湿で強力だった。
死をトリガーに発動する魔術は、対象者をその場所へ縛りつけるだけでなく、時間の流れさえも遅延させた。自分を殺した相手を老いさせないことで、できるだけ長く孤独と絶望を味わわせるためだ。
僕の視線に気づいたチャオが小さく首を横に振った。彼女でも、この呪いは解除できないらしい。
「寂しくはありませんか?」
「昔、彼にもよく聞かれたわね。でも、決して孤独ではないのよ。魔法があればなんだってできるわ。ただこの場所から出られないというだけ。魔法で手に入らないものなんて何もないもの」
大魔法使いにはその台詞を言う資格がある。
だが、それは嘘だろう。
でなければ、僕がこの泉を訪れた時、あれほどうれしそうな表情を見せるはずがない。
来訪者を喜んだわけではない。おそらく、きっと……彼が来たのではないかと思ったのだ。
少女のようにあどけない顔。きっと彼女は、ギルベルトが冒険から戻る度、いつもそんな表情を彼に見せていた。
小さな小屋の中に揃えられた二人分の食器やカトラリーが、いずれ彼女と共に消えゆくものだとしても、人はそれほど簡単に思い出を捨てることはできない。
「少し散歩をしませんか?」
帰り道を送ってもらうついでに、僕は森の端にある山肌へと彼女をいざなった。そこは、森の中から唯一ゼナ王国を見渡せる丘だった。
「世界は美しいわね」
純粋な眼差しを夜空に向けながら、彼女は言った。
元来、他者への悪意や疑いが希薄な人なのだろう。この狭い世界の中で生涯を終えることに対しての失望や諦めを、彼女からは感じなかった。
「今夜は、もっと綺麗なものが見れると思いますよ?」
「どういうことかしら?」
「たぶん、そろそろ……」
その時、王国中央の広場のあたりから、白い一筋の光が打ち上がった。
「……!」
それは夜空に向かってか細い糸を引いた後、小さく弾けて儚い花を咲かせた。
光る花というよりも、これでは花火だ。続けて何発も打ち上がり、どんどん派手に弾けていくのがいかにも剛腕のギルベルトらしい。
とても簡単な初期魔法だ。ギルベルトは、それができるようになるまで十二年の歳月がかかった。
「エターナルフラワーって言うらしいですね。ギルベルトさんがあなたに見せたかった光る花の名前は」
彼女は呆然とした様子で白い花の乱舞を見つめていた。
「……ギルはね、子供の頃は剣士になりたかったらしいの。でも彼、大雑把な性格でしょう? 繊細な剣の技を覚えることができなくて、大人になるまで何年もかけて斧の使い方を覚えたのよ」
「ギルベルトさんのことは、よく覚えているんですね」
「覚えているわ。ギルのことなら、なんでも覚えている……。あぁ、ダメね……ごめんなさい。ひとつ訂正しないといけないわね」
優しい笑みを浮かべながら、彼女は言った。
「この世界には、魔法では手に入らないものもある」
◯
朝食を済ませて宿を出た後、僕は何度も首を捻った。
チャオのおかげか、常の森のことはわずかに覚えていたが、そこで出会ったはずの人物のことが思い出せない。
頭に霞がかかったような感覚。きっとこの国を出る頃には、丘の上の森へ立ち入ったことすら僕は忘れてしまうだろう。
「お、昨日の若い記者さんじゃないか」
マジックセミナーの前を通りかかった時、店から出てきたギルベルトが手を上げた。
「おはようございます」
「昨夜の魔法はどうだった?」
子供のように目を輝かせて訊いてくる。
そうだった。ギルベルトが覚えた魔法をどうしても使ってみたいと駄々をこねて、僕はそれを見るために昨夜は丘の上の森に入ったのだ。
「綺麗でしたよ。それに、覚えたてとは思えないくらい力強かった」
「ふははは、そうだろうそうだろうッ!」
「威張って言うことじゃないわよ」
中庭で花壇に水を上げていた女性が、ギルベルトを叱りつける。
「なんでだ!」
「魔法局から注意勧告があったんだから。あんな威力で打てるってわかってたら、私だって許可しなかったのに」
「仕方なかろう。制御の仕方がわからんのだから」
「あきれた……。お父さんって、昔からそうなんだから」
お父さん……?
「あら、今日も魔法の体験?」
「いえ。午前中に魔法局の取材をしたら、午後にはたつつもりです」
「そう。昨日はありがとう、父の話し相手になってくれて。獣みたいな人だから、みんな怖がってしまって」
「心踊る冒険譚の数々が聞けるのに、もったいない」
「父って、有名なのかしら? 声も体も大きいけど、街を出ないし、旅行にも行きたがらないのよ。生まれ故郷に連れて行ってくれたこともないもの。トレジャーハンターだったなんて、信じられないわ」
「それは、きっと……」
「?」
「いえ、なんでもありません」
人は魂の安寧を見つけた時、旅をやめる。
手を振って、僕は二人と別れた。
「ほら、生徒じゃない時はお店の準備手伝ってよ」
「わかっとるわ」
セシリー——。
と、ギルベルトが呼んだ時、僕は弾かれたように振り返った。
それはきっと、忘れられたはずの名前。
「なるほど、確かに」
魔法では手に入らないものもある。
彼女のやさしい笑顔を見ながら、僕の頬に涙が一筋、流れて消えた。




