第五話:新しい常識と、残された影
リアはアルフレッドの手を握ったまま、舞踏会場を抜け出した。後ろからは、クロウの激しい怒声と、貴族たちのひそひそ話が聞こえてくる。しかし、リアの心は驚くほど軽やかだった。
「私、やっちゃったわね」
「うん、盛大にね」
アルフレッドは苦笑したが、その顔には、長年の王族の常識から解放されたような、清々しい笑みが浮かんでいた。
二人は馬車には乗らず、夜の広場を歩いた。アルフレッドは、リアのために、東方の国で流行っているという簡単な踊りを披露してくれた。
「ほら、リア。君のダンスは、クロウ公爵の完璧なエスコートに合わせて、いつも窮屈そうだった。もっと自由に、自分の心のままに動けばいい」
リアはアルフレッドの言葉に導かれ、スカートの裾を気にせず、夜の街灯の下で踊った。その自由な動きは、クロウの教育のすべてを否定するものだった。
「アルフレッド、あなたのおかげで、私、やっと息ができるわ」
「僕もだよ。君の奔放さが、僕の中の『王族としての常識』を壊してくれた。僕の論文よりも、君の行動の方が、この国の貴族に衝撃を与えただろうね」
二人は商館の隠れ家に戻り、アルフレッドが自ら豆を挽いて淹れた、少し苦くて、でも温かいコーヒーを飲んだ。
「私の新しい恋人は、世界で一番不謹慎な王子様ね」
「僕の新しい恋人は、世界で一番奔放で大胆なお嬢さんだ」
二人の間には、完璧な計画も、形式的な儀礼もなかった。あるのは、お互いの個性を肯定し合う、新しい常識だけだった。リアは、初めて、誰かの熱意に押されてではなく、自分の意志で勝ち取った幸福を感じていた。
一方、舞踏会の後。クロウは誰にも近づくことを許さず、自室に引きこもっていた。
彼は激怒しているように見えたが、その表情はすぐに凍てついた無表情へと戻った。
(お構いなく、だと? 私の完璧な計画を、一時の感情で踏みにじっておきながら……!)
クロウにとって、婚約破棄は単なる失恋ではない。それは、「クロウ・リゼル公爵令息の人生における、ただ一度の、そして最大の失敗」だった。完璧主義者である彼にとって、この失敗は許容できない。
「いいだろう。君が自由を望むのなら、私がその『自由』の脆さを、完璧に証明してやろう」
彼はデスクの引き出しから、新しい報告書を取り出した。それは、アルフレッドの留学先の商業大国の政治的弱点と、王族間の権力闘争に関する詳細な調査書だった。
クロウは、感情を完全に排除した冷たい声で、秘書に命じた。
「第三王子アルフレッド殿下の『自由な思想』が、この王国にとって、いかに危険なものであるかを、より具体的、かつ計画的に知らしめよ。リア・ヴェール令嬢の実家については……当面、静かに見守るように」
クロウは、もう感情的な「熱烈アプローチ」はしない。彼は、彼の得意とする「完璧な計画」によって、リアとアルフレッドの「新しい恋」の足元を、静かに、確実に崩していくことを選んだ。
彼が引き下がったのではない。彼の執着は、「熱意」から「復讐」という名の、より冷徹な熱意へと形を変えたのだ。




