第一話:Girl meets Boy.
「君は実に素晴らしい」
目の前で、婚約者のクロウ様がうっとりとした表情で言った。
クロウ・リゼル公爵令息。彼はこの国で最も完璧で、最も「理想の婚約者」と謳われる男だ。社交界の誰もが認めるその完璧さは、私へのアプローチにも遺憾なく発揮された。一年間の徹底したプロポーズ作戦。一日の予定は秒刻み、プレゼントは私の好みを完全にリサーチし尽くしたもの。彼の熱意と、それに伴う一切のミスのなさに、私は「きっとこれが幸せなんだろう」と折れた。
しかし、婚約から三ヶ月。私の奔放な魂は、その完璧すぎるスケジュールにうんざりしていた。
「リア、今月の末には、君のために用意した新作のオペラ鑑賞がある。もちろん、君が苦手な退屈な貴族との同席は避けた、二人きりの特別な席だ。君の好きな薔薇の香りの香水も手に入れたよ。君の瞳の色に合う、深紅のルビーをあしらったペンダントと共に贈ろう」
クロウ様は、まるで国家予算でも発表するかのように、流れるような美しい声で計画を読み上げる。彼の横顔は、自分こそが私を一番愛し、理解していると信じきっている、揺るぎない自信に満ちていた。
(ああ、また「予定」か。)
私、リア・ヴェール子爵令嬢は、カップに残った紅茶を飲み干した。
この完璧な計画は、クロウ様が私を「こうあってほしい」と願う理想の婚約者のためのものであって、私、リアのためのものではない。私の奔放な性格は、突然の衝動や、気まぐれな寄り道こそを愛しているのに。
「あの、クロウ様。今から、王都の裏通りにある、あのお菓子屋さんの新作を食べに行くのはどうでしょう?」
リアが提案すると、クロウ様の完璧な眉がわずかに歪んだ。
「リア。君は昨日、そこのお菓子で少し胃もたれしたと記録されている。今日の予定は、君の健康を考慮し、最高級の薬膳スープを味わうことになっている。それに、あそこは治安が少々……」
「わかったわ、薬膳スープね」
リアは諦めた。この男といると、私に自由意志は許されない。
重苦しい空気から解放されたく、薬膳スープのレストランを早々に切り上げたリアは、馬車を降り、人気のない王城近くの広場へ逃げ込んだ。
「あーあ、息苦しい!」
深呼吸した瞬間、背後から陽気な声が聞こえた。
「お嬢さん、そんな顔してちゃ、せっかくの美人台無しだよ。何か嫌なことでもあった?」
振り向くと、そこにいたのは、貴族らしい品位があるのに貴族らしからぬ男だった。
背は高く、体格はしっかりとしているが、纏っているのは自国の伝統的な礼服ではない。鮮やかな青い麻のシャツに、少し色褪せた革のベスト。髪は緩く結ばれ、足元は磨き上げられた長靴だ。貴族のそれとは違う、活発で実用的な服装。
何より驚いたのは、その親しみやすい笑顔だった。
「あなた、どちら様?」
警戒心なく問うリアに、男は片目を閉じて楽しそうに笑った。
「失礼。自己紹介が遅れたね。僕はアルフレッド。まぁ、しがない留学帰りだよ」
「……留学帰り」
「お嬢さん、もしかして、君のその溜息、あそこで売ってる『時間通りに鳴かない鳩』の絵のせいかい?」
男——アルフレッドは、広場に立つ古びた露店の抽象的な絵画を指差した。
「え、どうして?」
「僕が留学していた東方の国じゃ、時間を気にしすぎる人間は『時間に殺される』って言われてね。あの鳩は、『時間を無視して、好きなときに鳴きなさい』っていうメッセージなんだ。君の溜息が、なんだかその鳩と共鳴している気がして」
リアはハッとした。
(時間に殺される……!)
クロウ様の完璧なスケジュールに雁字搦めになっていた私の心を、この男は、たった数秒の会話と「留学先の常識」で言い当ててみせた。
「面白いことを言うのね。あなたは本当に、この国の人?」リアは目を輝かせた。
アルフレッドは肩をすくめる。
「君の国の人ではあるけど、僕はもう、君たちの『常識』をぜんぶ置いてきちゃったんだ。向こうじゃ、王子だろうが、自分でコーヒー豆を挽いて淹れるのが当たり前でね。誰かに用意してもらうなんて、非効率で馬鹿げてるって笑われるんだ」
王子……?
リアは思わず息を飲んだ。この自由で奔放な男が、この国の王族?
その瞬間、リアの心は音を立てて崩れた。クロウ様に向けられていた「きっとこれが幸せ」という曖昧な気持ちは、一瞬で消え去り、アルフレッドという名の新しい世界に、熱烈に恋をした。
(これだわ。私が求めていたのは、この、常識の外側よ!)
「ねえ、アルフレッド。コーヒー豆の挽き方を教えてくれない? 私、今からそれを習いたいわ!」
リアはクロウとの薬膳スープの予定どころか、婚約のことなど、頭からきれいに消え去っていた。




