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南国の雪嶺

作者: どくだみ

『私は見た。寒風に吹かれ、寒さに震えながら、複葉機のコクピットから確かに見たのだ。赤道直下にも関わらず、高山の頂に積もった雪を。そう、そこはニューギニア島にある……』

 寺田新吉が夢中に本を読んでいる。すると、高井大作がヒョイと本を取り上げた。

「何をするんだ!」

「怒るなよ。お前があまりにも夢中になって本を読んでいるんで、ちょいと俺も興味をそそられたのさ」

 高井が寺田を諌めた。そして、本の表紙に目を落とした。

「赤道の雪山……、ハインリッヒ・ビスバーグ?」

「ドイツの航空探検家だ。第一次世界大戦後、ニューギニアを飛んだんだ。ニューギニアに雪山があることは一六二三年にオランダの探検家ヤン・カルステンツォーンによって目撃されている。ハインリッヒはそれを確かめたかったんだろう。俺にも信じられん。赤道直下のニューギニア島にも氷河があるなんて……」

「ふーん……」

 高井がページをパラパラと捲った。そこにはセピア色ではあったが、確かに雪を抱いた山の写真が掲載されていた。

「俺もニューギニアの雪山をこの目で見てみたい……」

 寺田は頭の後ろで腕を組みながら、宙を眺めた。

「ところでお前はラバウル航空隊に志願したそうだな?」

 本を閉じた高井が寺田に本を返しながら、尋ねた。本を受け取った寺田はモノクロの雪嶺を眺めながら、「いや」と言った。

「俺が志願したのはジャワだ。それにニューギニアの氷河は島の西にある。それを見るにはジャワへ志願するのが最良だったんだが、第二希望のラバウルへ配属が決まった」

「お前、飛行機を操縦したことあるのか?」

「これから覚える。ヒヨコでも何とか飛べるだろう」

「奇しくも俺はニューギニアのラエだ。陸上を歩いてポートモレスビーに進軍するそうだ。兵士の間では『ジャワ天国、ビルマ地獄、死んでも還れないニューギニア』と言われているそうだ」

「お前は陸上をやっているからな。その脚が買われたんだろう」

「まあお互いに生きて帰ってこようぜ」

 それが出兵前に寺田と高田が交わした最後の会話らしい会話だった。

寺田新吉も高井大作も十七歳だった。ともに幼馴染として、そして親友として親交を深めてきた仲だった。

 寺田が夢中になって読んでいた本とはハインリッヒ・ビスバーグというドイツの探検家が書いた「赤道の雪山」という本だった。この本によればニューギニア島西部の高山地帯には赤道直下にも関わらず万年雪を抱いている山が存在するという。寺田はその事実に少なからず衝撃を受けた。赤道直下といえば熱帯雨林のジャングルを想像するからである。だが、「赤道の雪山」には「それは亜寒帯と呼ぶべき寒さ」だという。そして、その最高峰であるカルステンツ・ピラミッドは五〇三〇メートルもあり、それは悠然とそびえ、実に雄々しい姿をしているのだとか。

 寺田はまだ見ぬこの山群に、秘めやかな憧れを抱いていた。ジャワの航空隊に志願したのもニューギニア西部の空を飛べるかもしれないという淡い期待があったからだ。だが、この第二次世界大戦の最中に個人が夢を追うことなど許されるはずもなかった。


「明日はニューギニア島を横断してポートモレスビーに爆撃に行く。我々の任務は爆撃機の援護だ」

 ラバウルの基地で零戦の整備をしていた寺田に隊長の敷島がそう言った。

 ポートモレスビーはニューギニア島の東南部にある町で連合軍の拠点でもあった。

「わかりました。命を賭けて爆撃機を守ります」

「お前はまだ若い。それなりに夢があるだろう。絶対に死ぬんじゃないぞ」

「はあ。自分はニューギニア西部の山岳地帯を飛んで、万年雪や氷河をこの目で見るのが夢なんです」

 寺田は敷島に笑顔でそう返した。寺田の手にはハインリッヒ・ビスバーグの「赤道の雪山」が握られていた。すると、敷島は「そうか」と頷き、実に神妙な顔をした。

「実はな、明日の爆撃は特攻なんだ」

「え?」

「爆薬を積んでポートモレスビーの連合軍の基地に体当たりするんだ」

「そうなんですか……」

「乗組員はお前と同じ歳くらいの志願兵だ。あいつらにも夢があるだろうになぁ……。お前はあいつらに果たせなかった夢を果たす義務がある。わかるか?」

 敷島の瞳には力が篭っていた。そして、敷島は寺田から目を逸らすと、零戦の機体を撫でた。

「もし、お前が明日、爆撃機を無事に特攻させ、生き延びることが出来たら、迷わず西へ向かえ。ただし、これは俺とお前だけの秘密だ。西部ニューギニア戦線にはいくつか我が軍の滑走路が整備されているはずだ。まあ、戦況が有利というわけじゃないがね。お前はそこへ向かって飛ぶんだ。ニューギニア西部にあるその万年雪を見ながらな」

「隊長……」

 敷島は寺田に向き直った。

「だから明日は爆弾ではなく、増槽を積んでいけ。ただし、西部に向かう前にお前が打ち落とされればそこで終わりだ。ポートモレスビーの上空にはスピットファイアがウジャウジャいるはずだ。それにニューギニア島を横断するにはオーエン・スタンレー山脈を越えなければならない。あそこは乱気流が発生し、よく飛行機が堕ちる場所だ。ヒヨコのお前には難関だよ。それでも生き残れたら、お前は夢を果たせ」

「燃料が持ちますかね?」

 寺田が不安そうな表情を隠せずに尋ねた。

「ふはは、日本男児は気力で飛ぶのだ。それでも飛べない時は、どこかへ胴体着陸でもするんだな。その後のことまでは俺は知らんぞ」

 敷島は笑いながら、手を振り、引き揚げていった。寺田はそのまま機体を磨き続ける。機体の整備は整備班の任務であったが、自分が飛ぶ零戦は自分で磨きたかった寺田である。


 その日の晩、寺田は宿舎の集会所へ赴いた。中では酒宴が開かれていた。明日、ポートモレスビーに特攻する爆撃機の搭乗員たちを励ます酒宴である。

 酒宴は盛大に行われていた。食料こそ粗末なものであったが、酒があれば男たちは酔い、陽気に歌などを歌っていた。

「さらば、ラバウルよ。また来る日まで……」

 隊長は呑気に「さらばラバウル」を歌っていたが、寺田には違和感が心の中に残った。明日、特攻する搭乗員たちには「また来る日」がないのだ。

 寺田は搭乗員たちを見た。隊長の歌に手拍子を叩く者もあれば、家族の写真を眺めている者もいる。

「あなたが機長ですか?」

寺田は陽気に手拍子を叩く特攻隊員に話しかけた。手拍子の男は「ああ」と頷いた。

「明日は俺と敷島隊長で特攻を援護する。精一杯やるから、安心してくれ」

「何が『安心してくれ』だ。敷島隊長は歴戦の勇者だが、お前はまだヒヨコじゃないか」

 男は手拍子を止めて、寺田を睨んだ。男の歳は二十歳を少し越えたくらいだろうか。

「俺はな、同じく生きて還れないならば、月へ飛びたかった」

 男は沈痛な面持ちをしながら、茶碗の酒を飲み乾した。その茶碗に水が一滴垂れた。

「機長……」

「畜生、酒でも飲まなきゃやってられん!」

 寺田は機長に敬礼して、その集会所を離れた。外では空に満天の星が輝いていた。

 寺田は星たちを見上げながら思った。機長の夢は月へ飛ぶことだという。ならば、あの満天の星たちに一歩近づくことではないかと。

「死んで星になるか……。軍神と崇められたとしても、果たして彼らの魂は救われるのだろうか?」

 寺田は南十字星に向かって呟いた。そこへ、敷島隊長がやってきた。寺田に寄り添うようにして立つ。

「気にするな……。彼らも自分の役割はわかっている」

「そうでしょうか? 果たして本当に自分の役割を納得しているんでしょうか?」

「そう思うしかないだろう。明日、お前がスピットファイアに撃墜されずに生き残ることが出来たら、迷わずニューギニアの西へ向かえ。それが夢を諦めるしかなかった彼らへの最大の供養だ……と、お前も思え」

 敷島の言葉に寺田は俯き、そして頷いた。

「さあ、明日は早いぞ。もう寝ろ」

 敷島は寺田の肩をポンと叩いて、宿舎の方へ帰っていった。寺田はその場に残り、涙がこぼれないように星空を見上げた。星が滲んでいた。

 

 翌朝、一杯の水杯を交わした爆撃機隊員と零戦部隊は、ラバウルの飛行場を飛び立った。普段は穏やかな気質で知られるラバウル航空隊であるが、この時ばかりは異様な緊張と寂寥に包まれていた。飛行したのは爆撃機と零戦二機、敷島隊長と寺田である。ラバウルからニューギニア島本土を目指し飛び立ったのだ。敷島は増槽ではなく、爆弾を機体の下に抱えていた。寺田は増槽である。

 ニューブリテン島のラバウルを飛び立つこと一時間半。日本軍の特攻隊はニューギニア島中央部の山塊に突入していた。オーエン・スタンレー山脈である。

 寺田はふと、親友である高井を思い出していた。高井はニューギニア島のラエに上陸し、このオーエン・スタンレー山脈を徒歩で横断し、ポートモレスビーに向かっているはずだった。機体から見下ろすその山塊は懐が深く、熱帯雨林のジャングルにそびえる壁のようにも見えた。幾重にも重なる尾根の襞に、寺田は高井たちの無事を祈った。しかし、オーエン・スタンレーの山々は微動だにせず、人の侵入を拒んでいるようでもあった。

 オーエン・スタンレー山脈は三千から四千メートル級の高山であり、その複雑な地形から乱気流が生じる場所としても有名であった。それは戦闘機乗りにとっても危険な山脈であり、今まで多くの戦闘機がオーエン・スタンレー山脈に墜落していた。

 突如、寺田の機体が大きく揺れ、操縦桿がぶれた。

「オーエン・スタンレーの乱気流だ。気をつけろ!」

 敷島の無線が聞こえた。

「くそーっ!」

寺田は汗で湿ったグローブで操縦桿を握りなおした。その乱気流は機体を水平に保つことさえ、困難に思われた。

「寺田、大丈夫か? ここを越えればポートモレスビーだ。ふんばれ!」

 だが、オーエン・スタンレー山脈に吹き荒れる乱気流は想像を絶するものであり、寺田の機体を持ち上げたり、逆に落とそうとしたりした。寺田は操縦桿を握り締め、昇降舵の調整に夢中になった。

「寺田、高度が下がっているぞ!」

 計器と睨めっこをしていた寺田はハッとして正面を見た。電影照準機から見つめたそこにはオーエン・スタンレー山脈の岩肌がそこまで迫っていたのである。

(このままでは激突してしまう!)

 そう思った寺田は機体を大きく右に旋回させた。一度、後退することにより、高度を上げ、尾根を飛び越えるつもりだった。

 その目論見は功を奏した。上手く上昇気流を捉えた寺田の機体は、一気に高度を上げた。そして、無事に尾根を飛び越えられたのである。

「増槽は爆弾より重い。俺にとってはこのオーエン・スタンレーの山々も難所だな」

 寺田がそう呟いた時、前方の上空に光る機体が見えた。

「敵だ! 畜生、俺たちの作戦は敵に筒抜けだったのか!」

 マッカーサー元帥は暗号指令の解読に長けた人物で、その功績で太平洋を支配していたと言っても過言ではない。この日の特攻作戦も連合軍の知るところだったのだ。

「寺田、増槽にまだ燃料はあるか?」

 敷島からの無線が寺田に入った。

「はい、あります」

「敵の数は多い。このままでは無駄死だ。お前はこのまま西へ向かえ」

「しかし、隊長……」

「しかしもかかしもない。こんなところで夢を諦めるのか? お前には使命があるはずだ。爆撃特攻隊員たちの果たせなかった男の夢を果たす使命が……」

 敷島の零戦が速度を上げた。敵の編隊は少なく見積もっても十機ほどはある。そこへ猛突進していったのだ。

「くっ、すみません。隊長、みんな……」

 寺田の零戦は大きく右へ旋回した。


 敷島は敵のスピットファイアに突進していった。歴戦の勇者である敷島の照準機の中にスピットファイアが収まる。敷島は躊躇わず砲撃を開始した。するとスピットファイアは炎に包まれ、墜落していった。

 だが、敵の狙いは爆撃機であった。数機が敷島を取り囲み、自由にはさせてくれなかった。爆撃機も機銃で応戦をしていたが、スピットファイアの機動力には敵わなかった。

 敷島がチラッと横目で爆撃機を見ると、既に左のエンジンが被弾していた。

 だが、敷島には目の前に倒さねばならない敵がいる。スピットファイアは敷島の機体を捉えるのに必死だ。敷島にはわかっていた。自分が相手をしている敵のスピットファイアも囮なのだ。敵の真の目的は爆撃機にある。だが、敷島一人ではどうしようもなかった。

 そして、爆撃機は火達磨になってオーエン・スタンレー山脈に墜落していった。

「畜生!」

 敷島は敵のスピットファイアをすべて撃ち落すつもりで旋回した。その時であった。オーエン・スタンレー山脈の複雑な地形が作り出す乱気流が敵味方無く戦闘機を舞い上げたのだ。

「くそっ!」

 敷島の零戦は木の葉のように舞い上げられたかと思うと、一気に高度を下げた。操縦桿を握り体勢を立て直すつもりの敷島であったが、高度はぐんぐん下がっていく。

「もうダメか……!」

 見れば敵のスピットファイアも木の葉のように弄ばれている。

 敷島はコクピットを開け、脱出した。パラシュートは敷島を熱帯のジャングルへ誘導しようとしていた。

 そこで敷島は見た。火達磨になって墜落していく爆撃機を。

 敷島はパラシュートから火達磨の爆撃機に向かって敬礼をした。上空ではスピットファイアがオーエン・スタンレー山脈からの乱気流によって木の葉のように弄ばれていた。そういう敷島もどこへ着地出来るかは皆目見当もつかなかった。


 寺田はニューギニア島を縦断するように西へ飛んだ。空になった増槽は既に捨てた。後は機体に残った燃料で飛ぶのだ。軽くなった機体は軽快に飛んだ。ニューギニア島の中央部はまだこの時代、地図の空白部であり、眼下は見渡す限りのジャングルであった。高度は五千メートルを越えていた。右手にビスマルク山脈が望める。そのビスマルク山脈も四千メートルを越える峰を抱いている。

 敷島隊長たちに別れを告げ、西へ向かってからどのくらい飛び続けただろうか。寺田の零戦は濃霧に包まれた。燃料タンクのガソリンが見る見るうちに減っていく。

濃霧の中を寺田は飛んだ。ニューギニア西部の山岳地帯はやはり乱気流や濃霧が発生しやすい場所でもあった。

 ふと、霧が晴れた。その時、寺田の眼下に広がっていたのは高山に積もった万年雪だった。

「こ、これが『赤道の雪山』か……。凄い! 赤道直下に本当に雪がある!」

 それは高くそびえる峰々が雪を湛えた絶景であった。そして、その雄々しい姿はどうだろうか。寺田はその雄姿に畏怖の念さえ覚えたほどだ。

 寺田が見た山はカルステンツ山群と呼ばれる峰々であった。そこには万年雪が堆積され、氷河を形作っている。

「俺は見たぞ! 確かに見たぞ! 赤道直下にそびえる雪山を!」

 寺田は叫んだ。そして、操縦桿を操り、カルステンツの南壁に挑むように、機体を旋回させた。すると、上昇気流が零戦を捉えた。風に乗り、零戦は高度を上げた。寺田が飛び越えたのは正にカルステンツ・ピラミッドと呼ばれるニューギニア島の最高峰であった。その標高は当時、五〇三〇メートルと言われていた(現在では四八八四メートルであることが確認されている)。

 そして、その頂を越えた寺田は絶句する。カルステンツ・ピラミッドの北壁には真っ白な氷河が広がっていたのである。そして眼下には広大な盆地が広がっていた。

「俺は今、ハインリッヒと同じ風景を見ているんだ」

 出来ることならば、零戦を氷河に着陸させ、自分の足で赤道直下の氷河を踏みしめたかった寺田である。

 その直後、寺田は機体が大きく揺らぐのがわかった。乱気流である。

「くそっ……!」

 寺田は操縦桿を操り、カルステンツ・ピラミッド北壁の氷河に機体を近づけようとするが、雄々しくも厳しいカルステンツ山群はそれを許してはくれなかった。

「仕方がない……。このままでは山に激突してしまう……」

 寺田が北へ向かって機体を立て直そうと思った時、突風が零戦を煽った。

「くそーっ……!」

 まともに操縦ができる状況ではなかった。零戦は北風に煽られ、木の葉のように舞った。

 ガツンという衝撃が寺田を襲った。機体がカルステンツの峰に接触したのだ。しかし、幸いなことにかすった程度の胴体の接触であった。寺田は必死に操縦桿を操り、機体を立て直そうとする。だが、カルステンツの山々は冷たく、非情にも寺田の零戦を煽った。

「ここで死ぬわけにはいかない!」

 寺田はカルステンツ山群の南壁を這うように飛び、険しくそびえる山々を見上げた。そして山群の東側へ回り込むと、迂回路を探して飛んだ。シリンダーの音がまるで心臓の鼓動のようだった。吹き付ける乱気流のため高度を取れない零戦は、山群の東側に迂回路を見つけた。ちょうど、カルステンツ山群が切れたところだった。その谷間を零戦は飛びぬけた。幸いにもそこは乱気流の影響も少なく、零戦は再び息を吹き返した。高度をあげることが出来たのだ。

 寺田が振り返ると、カルステンツ山群の氷河が太陽に燦然と輝き、目が眩みそうになった。

「さらば、ニューギニアの雪山よ……」

 だが、ここで寺田は自分の犯したミスに気が付いた。先ほど、カルステンツの峰に機体を接触させた時、燃料タンクに穴が開いていたのだ。ガソリンは徐々に漏れ、霧となってニューギニアの上空に撒かれていった。

「くそっ、燃料が……!」

 燃料計がみるみるうちにエンプティーに近づいていく。

 寺田は戦闘機乗りの心構えを敷島から叩き込まれていた。それは「どんなに絶望的な状況に追い込まれても、決して飛ぶことを諦めるな」というものだった。

 零戦は高度を徐々に下げながらも飛び続けた。


 高井大作がラエからココダ基地へ進行し、更にオーエン・スタンレー山脈の中を彷徨ってどのくらい経っただろうか。高井は身体のだるさを覚え、進行する軍隊から遅れ気味となっていた。小銃を杖の代わりにするが、思うように脚が動かない。ついに高井は前のめりになって倒れこんだ。すぐに衛生兵が駆け寄った。

「そうか、マラリアか……」

 衛生兵からの報告を受けた桐山隊長が唸るように呟いた。

「自分を置いて、先に行ってください……」

 隊列の中にしばし緊張が走った。隊長は深く帽子を被りなおした。高井は死を覚悟していた。未開のジャングルの中を切り拓いていく己の部隊にとって、自分の存在が足手まといになることは十分すぎるほどわかっていた。隊長は帽子の下で苦悶の表情を浮かべていた。

「日本男児たるもの、いざという時は云々……」

 桐山はいつもそんなことを口走っていたが、本心はすべての隊員に生きて還れと願っているに違いなかった。だが、ニューギニアのジャングルは容赦なく隊員たちを襲ってきた。最も恐れられていたのはマラリアである。今までも何人もの隊員がマラリアで倒れていった。だが、倒れた隊員は生きることにしがみ付こうとはせず、自決する者も多かった。

「よし、全員出発!」

 桐山の号令で隊列が再び動き出した。桐山はそっと高井の元に乾パンを置いていった。

 隊列が去ってどのくらい経っただろうか。にわかに高井が起き上がった。乾パンを抱え、小銃を杖代わりにし、立ち上がったのだ。この時、高井は高熱にうなされていた。

「畜生……、負けてたまるか!」

 もはや高井の身体を動かす原動力は生への執着という気力のみであった。

 蟻のような速度で高井が歩く。目の前にはオーエン・スタンレー山脈が迫っていた。だが、どう考えても、今の高井に三千から四千メートル級の山を登る体力は残されてはいなかった。

 その日はクムシ川の源流部で日が暮れた。高井はその河原に身を横たえた。マラリアは夕方から夜にかけて熱が上がるのが特徴だ。高井はこのままこの河原で朽ち果てていく自分を想像した。

「ジャワ天国、ビルマ地獄、死んでも還れないニューギニア……か」

 自分がここで死んでも遺骨を引き揚げてくれる者などいないだろうと高井は考えた。

 その時であった。一人の女が高井の前に躍り出た。

「誰だ?」

 女は極彩色の服を見に纏っていた。見れば女の髪はオレンジ色だ。それは染めたようには見えなかった。そして、女は現地のポリネシアンでもなければ、白人でもなかった。

 女は高井の横でしゃがみこんだ。そして、言ったのである。

「その銃を捨てたら、あなたを助けてあげるわ」

 何故、女が日本語を喋ることが出来たのかはわからない。だが、女ははっきりとそう言ったのだ。高井は目を丸くした。

「本当に助けてくれるのか?」

 高井は藁にも縋る思いで女に尋ねた。女は無言で頷いた。高井は小銃も拳銃も女に渡した。高井はそれらを渡すのを躊躇ったつもりだった。卑しくも天皇陛下から授かった武器を手放すことより、丸腰になることを恐れたのである。それでも確かに高井は小銃と拳銃を女に手渡した。

 すると女は小銃と拳銃をクムシ川の中へ投げ込んだ。女は木の葉でコップを作るとクムシ川の水を汲んだ。そして、それを口に含むと口移しで高井へと飲ませた。

 それは美味い水だった。熱が出ていて喉も渇いていたのだろう。だが、理由はそれだけではなかった。

「もっと水をくれ……」

 高井の要求に女は何度も応じてくれた。高井は女に乾パンを差し出した。だが、女は笑ってそれを受け取ることを拒否したのだ。

 もう日はとっぷりと暮れていた。クムシ川のせせらぎの音だけが聞こえる。女は高井に寄り添うようにして寝た。


 翌朝、目が覚めると高井は予想以上に身体が軽いことに気付いた。

「おはよう」

 寄り添って寝ていた女が声を掛けてきた。

「ああ、おはよう。ところで君は一体何者なんだ?」

「私はアグネス。何者でもないわよ」

 アグネスは笑っていた。昨夜は夕日に染まって髪がオレンジに見えたのかと思った高井だが、やはりアグネスの髪はオレンジ色をしていた。

「ここにいても犬死するだけよ。もう、大丈夫でしょう? 歩くわよ」

「あ、ああ……。マラリアは君が治してくれたのか?」

「ふふふ、多分ね……」

 身体が嘘のように軽くなった高井は、アグネスとともに歩き出した。アグネスはポートモレスビーへ行くと言う。アグネスは身軽で、木に登っては木の実などを取ってきてくれた。高井はそれで飢えをしのいだ。

 アグネスは現地の地形に詳しいらしく、オーエン・スタンレー山脈の迂回路を通って進んだ。高井は木の切れ端を杖代わりにして歩いた。あのマラリアのだるさはもうなかった。

 クムシ川の河原を発って何日かが経過した朝、二人が歩いていると、爆音が聞こえた。上空では戦闘機が空戦を繰り広げていた。高い木々の間から、燃えながら墜落する戦闘機が見えた。

「友軍だ。零戦が墜落した!」

 高井が叫んだ。アグネスは恐怖に震えている。木々がざわめいていた。

 少し歩くと、パラシュートが落ちていた。そこで男がもがくように、パラシュートを外していた。

「やはり友軍だ」

 高井は男に近寄る。そして敬礼をしながら言った。

「自分は高井二等兵であります。お怪我はありませんか?」

「私は敷島中尉だ。ラバウル航空隊で隊長をしていた。今日は特攻爆撃機を護衛しながら飛んでいたが敵の数が多すぎてね。オーエン・スタンレーの乱気流にやられた。飛行機を落としたのはこれが初めてだよ」

「自分はポートモレスビーに進軍する途中でマラリアに罹り、あのアグネスの案内でポートモレスビーに向かう途中であります」

「そうか……。それにしても不思議な女だな。現地人でも白人でもない」

「自分のマラリアを治してくれた恩人であります」

「つまりは味方というわけか」

 敷島は安心したように笑顔を見せた。

「拳銃を捨てなさい」

 いささか厳しい目つきでアグネスが敷島を睨んだ。

「何故、日本語が喋れるんだ。それに味方じゃないのか?」

「拳銃を捨てない限り、彼女は連れて行ってくれません。ここは彼女の言うとおりにした方が得策かと思います」

「わかった。ここに留まっても犬死するだけだからな……」

 敷島はホルスターから拳銃を引き抜くと、密林のジャングルの中へ放り投げた。

「これで文句はあるまい」

「いいわ。あなたも連れていってあげる」

 アグネスの瞳は優しいそれに戻っていた。アグネスに先導され高井と敷島は歩き出した。

「ところで敷島中尉はラバウル航空隊とのことでありますが、寺田新吉という男をご存知ですか?」

「寺田は私の部下だった」

「だった……。彼は死んだのですか?」

「いや、彼は生きていると思うよ。今頃、西部ニューギニアの山岳地帯へ向けて飛んでいるはずだ」

「西部ニューギニアの山岳地帯……」

 高井は寺田が持っていた「赤道の雪山」という本が頭に浮び、彼がいつも「ニューギニアの雪山を見たい」と言っていたことを思い出した。

「寺田は自分の親友です。彼はニューギニアの雪山を見に行ったのでしょうか?」

「ふふふ、その通りだよ。一応、私も彼も戦死したことになっている幽霊だ。寺田はまだ若い。こんなくだらない戦争の最中でも夢を持ち続けているんだ。それに少しばかり力を貸してやっても罪にはなるまい」

 敷島は不敵な笑みを浮かべていた。

(この男ならば信用できる)

 高井は直感的にそう思った。

 それから三人で歩き、どのくらいの日が上り、日が沈んだだろうか。

 ある朝、人の気配に三人は歩みを止めた。

「あっ、あれは……」

「やはりオーエン・スタンレー山脈を切り拓くオーストラリア軍よ。さあ、あなた達はあそこへ行くの」

 アグネスがオーストラリア軍の兵士を指差す。

「い、いやだ!」

 高井が首を横に振った。

「俺は賛成だ。このまま山中を彷徨ってはいずれは死ぬ。今は投降するしかない」

 敷島が高井の肩に手を置き、諭すように言った。

「アグネス、君はどうするんだ?」

 高井が振り返った時、アグネスの姿はもうなかった。

「男なら恥を忍んでも、耐え難い屈辱を受けても生き延びるんだ。こんなくだらない戦争を始めやがって……。俺たちは死んでいった奴らのためにも生き延びなければならないんだ」

「ううっ……」

 高井の両目から熱いものがこぼれた。

「さあ、行くぞ」

 敷島は高井の肩を抱きながら、オーストラリア軍の前へ躍り出た。

「ホールド!」

 オーストラリアの兵士が叫んだ。敷島は両手を挙げた。高井が続く。兵士は二人に近寄ると、武器がないことを確かめた。そして、銃を突きつけてきた。

 かくして高井と敷島は捕虜の身となったのだ。

 高井と敷島が連行されながら歩いていると、頭上に一羽の鳥が飛び去っていった。オレンジと赤が入り交ざった極彩色のその鳥は、数回頭上を旋回した。

「極楽鳥だ」

 敷島が唸るように言った。

「ゴクラクチョウ?」

「ああ、俺がいたニューブリテン島ではよく見られた鳥さ」

 敷島が笑った。ゴクラクチョウは二人の上を数回旋回すると、密林のジャングルへと消えた。

「するとアグネスは……」

 高井が生唾を飲み込んだ。敷島はただ微笑んでいた。二人は連行されながらもゴクラクチョウが消えた方向をいつまでも眺めていた。


 時は流れた。日本は敗戦という形で終戦を迎え、民主主義がアメリカより持ち込まれた。生き残った兵士は復員したが、高井と敷島は捕虜だったため、復員が遅れた。

 そして、高井のいた部隊はポートモレスビー目前の五十キロメートル付近まで進軍したが、行く手を連合軍に阻まれ、元来た道を引き返すという悲惨な進行を続けなければならなかった。既に食料も医療品も底を尽き、何万人といた兵士で生きて還ったのは数千人だったと言われる。兵士たちの死因のほとんどはマラリアと飢餓だったそうだ。

 戦後、ニューギニア島は東半分がパプアニューギニアとして独立し、西半分がイリアン・ジャヤと呼ばれるインドネシアの領土となった。

 高井と敷島は復員後、戦友会には所属していなかった。やはり捕虜になった後ろめたさがあったのだろう。終戦後まで「売国奴」と陰口を叩かれたくはなかった。高井は寺田を探したが、彼の姿はどこにもなかった。

 高井は復員後、建設業に従事した。そして、趣味として登山を始めたのだ。オーエン・スタンレー山脈の地獄のような進軍を思えば、日本の山はのどかなものだった。

 そして、高井の中にある野心が芽生えた。

「寺田がうわ言のように言っていた、ニューギニアの雪山を俺も登ってみたい!」

 高井は所属する山岳会にニューギニアの最高峰への登攀を提案した。カルステンツ・ピラミッドはこの時のインドネシア大統領の名にちなんでスカルノ峰と改名された。そのスカルノ峰への挑戦である。山岳会の中の五人ほどが名乗りを挙げてくれた。こうして高井のスカルノ峰挑戦は実現に向かって歩き出した。登山隊の面々はまだ見ぬ南国の雪山に思いを馳せていた。


 高井をリーダーとする高井登山隊はジャヤプラからイリアン州内地のティミカへと飛んだ。そこからスカルノ峰のベースキャンプへは悪路を百キロメートルほど車で走らなければならない。ベースキャンプでは現地人がガイドとして待機していた。ペニス・ケースを着けたのみのまるで石器時代のような暮らしをしている現住民族だ。そのガイド中に一人だけ肌の黄色い男が混じっていた。無論、衣服など着てはいない。着けているのはペニス・ケースのみだ。

 その男の横顔を見た瞬間、高井の顔に衝撃が走った。

「寺田!」

 その男はゆっくりと高井の方を向いた。

「高井……か?」

「そうとも。お前の親友、高井大作だ!」

「おお……!」

 二人は久々の再会を祝し、抱き合った。お互いの目からは熱いものがこぼれている。

「それにしても寺田よ、お前、よく無事だったな」

「俺の駆る零戦がこの近くに不時着したんだ。燃料タンクに穴が開いてな。それからはこの部族の一員として暮らしている」

「この登山が終わったら、一緒に日本へ帰ろう」

「いや、俺は今の暮らしが気に入っているし、妻子もいる。今更、日本へ帰るつもりはない」

「そうか……、妻子もいるのか……」

 高井が少し寂しげな顔をした。

「お前もよく地獄のニューギニアから生きて還ったな」

「ああ、敷島中尉とオーストラリア軍の捕虜になった」

「敷島中尉と?」

「ああ、空戦でオーエン・スタンレー山脈の乱気流にやられて墜落したらしいが、パラシュートで俺の目の前に落ちてきたんだ」

 こうして和やかなムードで登山隊は登攀を開始した。スカルノ峰を含むカルステンツ山群は岩盤で形成されている。北尾根から登りはじめ、尾根沿いに山頂を目指すルートで昨年、ドイツの登山隊が登攀に成功していた。

「しかし、よく現住民族に同化できたな」

 尾根を登りながら高井が寺田に話し掛けた。

「それしか生きる術がなかったんだ。俺はアメリカの宣教師が来て、戦争が終わったことを知った。宣教師の布教活動は熱心なものだった。それまでは部族間の争いや、倒した敵の人肉を食らう蛮行が見られていたらしい。だが、俺の部族は友好的だよ。それより心配なのはこの美しい山が荒らされないかということだ」

「どういうことだ?」

「最近、この付近の山には銅や金などの資源が眠っていることがわかった。幸いにもスカルノ大統領は植民地解放運動の旗手だけあって、外資の導入には否定的な立場を取っている。だが、アメリカはこの山々を虎視眈々と狙っているんだよ」

 寺田は曇った表情でそう言った。スカルノ峰は難易度の高い山で、それなりの登攀技術を必要とする。だが、寺田の話によれば、彼は何度かスカルノ峰へ登ったことがあるという。正式な記録によれば初登攀は一九六二年のハインリッヒ・ハラーとなっているが、こうした現住民族による登攀もあったものと推測される。


 登攀開始から二日後、高度を上げた登山隊は霧に包まれていた。そして、吹き付ける強風である。

「この風さ。この風に俺の零戦はやられたんだ」

 寺田が笑った。

「寒くはないのか?」

「俺にはこれが正装だ」

 寺田は自慢のペニス・ケースを擦った。

 登攀はかなり高度な技術が要求された。しかし、寺田はザイルもなしにフリークライミングで登っていく。その技術の高さには高井は舌を巻いた。

 そして入山から四日目の朝、登山隊はようやくスカルノ峰の頂直前の氷河に到着したのである。

「凄い、氷河だ!」

 高井が興奮して感嘆の声を漏らす。登山隊の隊員たちは皆、赤道直下の氷河に唖然とし、惚けた顔をしていた。この頃より、今まで厚く登山隊を覆っていた霧が晴れ、日の光が降り注ぐようになった。

「寺田、お前の夢を俺もしっかり見届けたぞ」

「うむ、俺はこの雪山に抱かれながら、日々を暮らしているんだ。さあ、頂上まであと一息だ」

 登山隊は頂に向かって、脚を動かし始めた。そして、昼過ぎに、ついに高井たち登山隊はスカルノ峰の頂上に着いた。幸運にも晴れ間は続いていた。

「やった、俺たちはついにニューギニアの最高峰を攻略したぞ!」

 頂上から見る景色は絶景であった。南の崖下には湖が太陽の光を反射して美しく輝いていた。北側の真下には大きな盆地が見える。

「あれがンガプル峰だ」

 寺田が南西にある高い峰を指差す。そこには氷河を抱いた雄大な峰がそびえていた。

 高井は氷河からしきりにカメラで雄大な景色を、そのフレイムの中に収めていた。

「カメラか、文明機器だな。俺たちには無縁の物だ」

 寺田が笑った。そして、寺田がカメラをよこすよう高井に言った。

「登山隊の記念写真を撮ってやろうじゃないか」

 この時の写真は高井の生涯の宝物になった。


 高井がスカルノ峰登頂から帰国して数年が経った。その間にインドネシアの情勢はめまぐるしく変化した。スカルノ大統領が失脚し、スハルト政権が誕生した。すると、スカルノ峰はプンチャック・ジャヤとまたもや名称変更を余儀なくされた。そして、スハルトは以前から話があった外資の導入を積極的に行ったのである。この頃からインドネシア軍と現地住民の武力衝突が度々行われるようになった。

 そんな折、新聞の片隅にインドネシア軍がイリアンの現地住民を武装圧力で制したとの記事が書かれていた。現地住民の多数が死亡し、スハルト政権への反発が強まっているとの記事だった。そして、死亡した現地住民の中に「テラダ」という日本人と思しき人物が混じっていることを記事は伝えていた。その記事を読んだ高井は愕然とした。

「そんな馬鹿な!」

 高井はインドネシアの日本大使館に連絡を入れた。

「ああ、確かに寺田新吉と思しき人物が武力衝突で死亡したそうです。ただ、日本に確かめたところ、その人物はラバウル航空隊に配属されて第二次世界大戦で戦死しているそうなんですよ。そのテラダを含め、現地住民はアメリカのフリーポート社の資源採掘に反対しているんです。自然が破壊されると言ってね」

 高井は呆然として日本大使館の言葉を聞いていた。

 高井は思う。寺田の戦争はまだ終わっていなかったのだと。おそらくは地元住民と決起し、外資を導入しようとするインドネシア政府と戦ったのだろう。そして、凶弾に倒れたのだ。

 だが、日本も高度経済成長の最中にあった。明日の日を夢見て、国民が皆、新技術に傾倒していた。そんな中での寺田の死である。

 高井は一枚の写真を握ると、その上にポタポタと涙をこぼした。スカルノ峰に登った時、寺田と肩を組んで写した写真である。モノクロの写真の上に涙は止め処もなく落ちていった。


 それから時は流れた。日本の時代は昭和の終わりを告げ、平成の時代に入っていた。

 高井には健太という孫がいた。よく高井には懐いている。その健太も大学生になった。

 高井が息子夫婦の家を訪ねた時のことである。孫の健太が「おじいちゃん」と高井を呼んだ。健太の部屋にはパソコンがある。その画面に映し出されていたのはプンチャック・ジャヤ、つまりは旧スカルノ峰、カルステンツ・ピラミッドであった。

「健太、お前、この写真をどこで……?」

「インターネットだよ。大学で自然環境について勉強しているんだけど、ここは酷いらしいね」

 健太がマウスをクリックした。すると、プンチャック・ジャヤの北側にかつてあった盆地は見る影もなく、資源採掘で出来た大きなクレーターがそこにあった。

「おじいちゃん、ここは銅とか金が採掘されるんで、今やアメリカのフリーポート社がやりたい放題にやっているよ。一般人ももう、この地域には入れないんだって。政府の許可が下りないらしいよ」

「そうなのか?」

「うん。この鉱山は下流のマングローブを絶滅させ、生態系を大きく崩している。イリアンももう秘境とは言えないね。それに地球温暖化の影響でプンチャック・ジャヤの氷河は大きく後退しているんだって。メレン氷河は二〇〇〇年には消滅が確認されているんだ」

「おお、何ということだ! 儂の思い出が、青春が消されていく!」

 高井はパソコンの画面を覗き込みながら嘆いた。

「健太や、儂が死んだら骨をニューギニアに散骨してくれ」

「おじいちゃん! 縁起でもないこと言うもんじゃないよ」

「いや、儂にはわかる。儂が天に召される日は遠くない。友が迎えに来る気がするよ……。ところで健太、ゴクラクチョウの写真は検索できないか?」

「はいはい、ゴクラクチョウね」

 健太がキーボードを叩いた。そしてマウスをクリックすると鮮やかなゴクラクチョウの写真が画面に映し出された。それを見て高井ははらはらと涙を流した。

「どうして、ゴクラクチョウの写真で泣くの?」

 健太が不思議そうな顔をして、高井の顔を覗き込んだ。

「おじいちゃんは昔、この鳥に助けられたんだよ。戦時中のことだけどね」

 敷島は数年前に他界していた。高井は健太の家を訪れた三日後に肺炎で入院した。そして、そのまま帰らぬ人となったのだ。戦争の語り部がまた一人、いなくなった。高井はニューギニアに散骨されることなく、近くの寺に墓が建てられたが、健太は祖父の魂がニューギニアへと飛んだと信じていた。

 プンチャック・ジャヤことカルステンツ・ピラミッドはその足元を資源採掘で削られながらも、今日も悠然とそびえている。


(了)


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