第五王女
ミナトは抱きしめた私の腕の中で長い間、小さく泣いていた。
それは何日も降り続ける小雨のよう。
その小雨が止んだのは、一時間後だったか、二時間後だったか、それ以上だった気がする。
正確な時間は分からない。
ミナトと共に、獄中場を出たときには、日が沈みかけていた。
人を殺した時と比べて、幾分か顔色は良くはなったが、リョナ家の屋敷に戻る際は、始終…無表情で黙り込んだままであった。
実の父親が死んだ事と人を初めて殺した事で頭がいっぱいなのだから、当然か。
直ぐに立ち直れる事ではない。
ただ……屋敷に戻るまで、ミナトはずっと私の手を握っていた。
ま、まぁ…私としても、絶対に嫌というわけではない。
リョナ家の屋敷に戻ると、ミナトはそのまま部屋に行き、泥のように眠った。
余程、疲れていたのだろう。
今は休ませておこう。
しかし、少し気がかりだったのは、一人の小さな女の子だ。
紫の瞳に水色の髪で、髪先だけは朱色になったショートヘアの女の子。
使用人の格好をしていることから、リョナ家で働いている子なのか(後に、その子の名前がイチカであると知った)。
屋敷に戻ったときに、その子がミナトの元に駆け寄り、無表情のミナトを見て、どうしたのかと尋ねた。
そして、父親のペドロが死んだとミナト本人から教えられると、まるで自分の父親が亡くなったかのように大泣きした。
そして、その子はミナトに抱きつき、しばらくの間…大粒の水を目から流していた。
ミナト自身も、その子の事を無下に扱ったりしなかった。
何だか……ミナトは何かと、この子を気にかけている様子だが、二人はどういう関係なんだ?
まさか……………………兄妹?
いや、まさかな。
ミナトは一人っ子のはずだ。
妹などいない。
私は頭に思い浮かんだ考えを即座に否定する。
それから数時間が経ち、すっかり夜になった。
今も部屋でミナトがぐっすり眠っている中…リョナ家の応接室には、クラルとミル様とフルオルの三人がいた。
「………」
フルオルは、ミルから渡された手紙をじっくり読んでおり、視線の動きから同じ文章を何度も読み直しているのが窺える。
暫く経って、手紙から視線を外し、ミル達に向き直る。
「ヴィルパーレ殿からの手紙、しかと拝見させて貰いました」
それを聞いて、ミルが頷く。
「内容が無いようでしたので、伝承鳩を使わず、私達が直接届けに参りました」
ミルは常に被っている茶色いローブのフードの部分を、今は取っていた。
そこには、雪のごとく白い素肌に、長い亜麻色の髪と薄緑色の眼があり、クラルに匹敵する美麗な顔があった。
フルオルは、また視線を手元の手紙に戻し、手紙の内容を口に出す。
「ピレルア山脈の調査を…………まさか、ミスティル様とクラリサ殿が受け持ってくれるとは」
そう……ヴィルパーレからの手紙には、現在リョナ家が頭を悩ましているワイバーンの頻繁な出没。
その出没の原因となっているであろうピレルア山脈の調査に、Aランク冒険者のミルとクラルが協力して貰う有無が書かれてあった。
「フルオル男爵、今…この場において、私はミスティルではなく、ただの冒険者のミルです」
「同じく私もクラリサではなく、冒険者のクラルです」
言われた名前を二人は即座に、否定する。
「…………失礼しました。ミル様、クラル殿」
「”様”は要りません」
「し、しかし!こればかりは!」
フルオルが慌てる。
ミルの素性を知っているフルオルからすれば、ミルを呼び捨てにするのは、流石に憚れる。
何故なら、目の前にいるミルという人物は、本来呼び捨てにしたら、不敬罪で物理的に首が飛ぶような身分の持ち主だからだ。
「私など、所詮…王城で殆どいない者として扱われていた身です。出来る事なら、このような身分など捨てて、冒険者だけの人生を送りたいです」
「は、はぁ…」
その美しい顔を歪め、皮肉を持った表情に、フルオルは戸惑う。
話を逸らすためか、フルオルは二人が協力するに至った経緯を確認する。
「ヴィルパーレ殿とは若い頃からの付き合いで、私がアグアの街の領主になっても、頻繁に手紙のやり取りをしていました。半年前からワイバーンの襲来が活発になった際に、手紙には近況報告のつもりでピレルア山脈の事を書いていました。ヴィルパーレ殿は必要なら、自身の抱えている騎士団を貸して、調査に協力させると度々言っておりました」
そこで、フルオルはため息をつく。
「私は二ヶ月前より王国第七魔法団がこの街に訪れ、王国第七魔法団もワイバーン討伐と並行して、ピレルア山脈の調査をすると仰ったので、協力は必要ないと返答しました。しかし、ヴィルパーレ殿は今のフリランス皇国との国境の対立具合から、調査は建前になる可能性が非常に高いと言われ…………………本当に、その通りになるとは」
フルオルはとても渋い顔を作る。
彼は襲撃された獄中場に出動していた時に、ミナトが調査が建前という事に激怒して、王国魔法団の団長を殴打し、屋敷の前では王国第七魔法団と王国第七追従騎士隊と戦闘になったことを……イチカや門番をしていたナットから聞いた。
ミナトのやったことを責めないで欲しいと、イチカが泣きながら言っていたことを鮮明に覚えている。
そのイチカは、部屋で寝ているミナトに寄り添っているそうだが。
「確かに、今のフリランス皇国は少々きな臭い動きをしています。貴重な一級魔法を使えるミーナさんがいる王国第七魔法団を、もしピレルア山脈の調査をさせて、負傷もしくは死亡させてしまったら、エスパル王国としては大損害です。…………………あ!勿論、この街を見捨てて良い理由には、なりませんが」
「ありがとうございます。そう言ってもらえるだけ、有り難いです。本当なら、私達リョナ家が解決すべき案件ですのに。ましてや、貴方様に」
自身の不甲斐なさに、フルオルは悔しさで唇を固く結ぶ。
そんな彼に、ミルは表情を改めて、耳に染み渡る美しい声で言う。
「フルオル男爵、もう一度言いますが、今の私は冒険者ミル。ピレルア山脈調査の件、Aランク冒険者の私とクラルが承ります。私達に任せてさい」
反論を許さない意思の入った声調に、フルオルは息を飲む。
自身の身分を捨てたいなどと言っていたが、やはり目の前の方は、その身分にあった貫禄を備えている。
そう実感せざるを負えない。
ミルは表情を崩して、微笑む。
「ワイバーンはこれまでに何度か、私達で討伐したことはあります。…………………それに私達には心強い”助っ人”がいますから」
「助っ人?」
フルオルが最後の言い方に引っかかりを持った、その時であった。
応接室の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「誰かが来ます」
クラルの知らせに、ミルは咄嗟にフードを被って、顔を隠す。
段々と近づく足音。
そして……ドン!
足音を立てている主は応接室の扉を勢いよく開けた。
開けた人物は、ボサボサの赤い髪に、血の気の無い顔色をして、鼻の周りに包帯を巻いていた男だった。
「サンルーカルラ団長?!」
フルオルは男に対して、舌を噛みそうな長い名前を言う。
名前を言われた男は鼻息荒く、開口一番にフルオルへ怒鳴りつける。
「フルオル男爵!どう弁明する?!」
男はそのままフルオルに歩み寄り、フルオルの胸倉を掴む。
ミルとクラルが目を見開く。
けれど、見開いた理由は男の行動では無い。
男の名前だ。
「サンルーカルラ?まさか、サンルーカルラ公爵か」
「「火の公爵」…………なるほど。”御三家”ですか」
クラルとミルがそれぞれ補足する。
ここエスパル王国で、サンルーカルラという名称は一つしか無い。
サンルーカルラ公爵。
貴族家の最上位である公爵家であり、エスパル王国にある四つの公爵家の一つである。
多くの優秀な火の魔法使いを排出してきた「火の公爵」と呼ばれる名門貴族家。
…………………目の前の男が優秀かは、置いておくとして。
サンルーカルラ公爵と、他に「土の公爵」と「風の公爵」を含めた三つの公爵家を、俗に御三家という。
因みに、残りの公爵家は多くの宰相を出してきたエスパル王国最古参の貴族家だが、今は割愛する。
「お、落ち着いて下さい!弁明というのは………」
「決まっているだろう!!あの落第貴族のクソガキと白いローブの女騎士が、この俺…トルドバ・サンルーカルラに!暴力を働いたことだ!どうしてくれる!」
男……トルドバが言っているのは、ミナトとクラルの事である。
「団長?!お止め下さい!」
トルドバに遅れて、応接室に入室した紫髪のツインテールの少女が、フルオルに掴みかかっているトルドバを見て、制止の声を上げる。
「………ミーナ」
クラルが少女の名を言う。
ミーナも部屋の傍らにいるミルとクラルがいることに気がつく。
「あ!クラリサ」
ミーナも幼馴染みの名を言う。
それによって、トルドバもようやくミルとクラルの存在に気づく。
特にクラルを見たトルドバは、益々顔を紅潮させる。
「てめぇ!!」
フルオルの胸倉を離したトルドバは今度、クラルに掴みかかろうとするが、
「うっ?!」
クラルの鋭利な視線が威圧感を伴って、トルドバを睨み付ける。
トルドバは怯み、数歩後ろに下がる。
トルドバは一瞬で理解した。
この女には、勝てないと。
「その件でしたら、私の護衛が貴方に暴力を振ってしまい大変申し訳ありません」
「ミル様?!」
ミルはソファから立ち上がり、トルドバに対し、頭を下げる。
そんな主の行動に、クラルを目を剥く。
さっきまでの威勢は削がれたトルドバだが、ニヤリと笑う。
「へ!そうだ、どうしてくれんだ!無礼にも程があるだろ!なぁ?!」
「…………貴様」
ミルの行動に気を良くしたのか、調子に乗り始める。
心底舐めきっているトルドバの態度に、クラルの堪忍袋が切れる寸前になる。
トルドバとクラルの様子を見て、ミルはフードの中でため息を吐く。
このままでは、自身の護衛がトルドバを殺しかねない。
そう判断したミルは、意を決する。
それと同時に、自身に対して呆れの感情を抱く。
自身の身分を捨てたいと言いながら、今からその身分を有効活用しようとするのだから。
虫が良いにも程がある。
ミルはフードを外す。
晒される麻栗色の長く綺麗な髪と薄緑色の眼。
いきなりフードを外したミルに、トルドバは首を傾げ、次にミルの視線を釘付けにするほどの美麗な顔に目を点にさせる。
「確かに無礼なのかも知れません。しかし、それは貴方にも言えるのでは無いでしょうか?」
「は?何を言ってる?」
ミルは口をゆっくりと開き、自身の本当の名を告げる。
「エスパル王国゠第五王女…ミスティル・アルスブルゴである私を突き飛ばし、私の護衛に暴言を吐いているのですから」
ミルの名乗りに、トルドバだけで無く、ミーナも驚愕する。
驚いていないのは、事情を知っているクラルとフルオルのみ。
アルスブルゴ……それはこの国の貴族全員、いや知見が少しでもある平民でも知っている家名。
それはエスパル王国の王族の家名なのだから。