マリ・タイゾン
その時のウィルター様は、珍しく真剣な顔をしていた。
『ミナト君、恐らく……十中八九、君にとってはショックな事でしょうが、君の身のためにも話さないといけません』
今日も水魔法の訓練かと思ったら、何やら重大な話があるらしい。
結果的にそれは、俺にとってウィルター様が言った事であっても信じたくない内容だった。
「えっと……何ですか?」
『落ち着いてよく聞いてください。君は五年前まで魔阻薬という本来は囚人に服用させて、身体の中の魔力の動きを阻害させる薬物を取り込まされていました。そのせいで四級水魔法〈ウォーター〉すら、まともに発動できなかった』
「は、はい。そうですね」
思い出すのは、俺の師匠であるレイン様とウィルター様とシズカ様に会った日に、俺が四級水魔法〈ウォーター〉を上手くコントロール出来なかった。
それを見て、ウィルター様は墓地の部屋の中央にある泉の水を飲めと言った。
泉の水は霊水と言い、あらゆる状態異常を癒すだけでなく、ちょっとした傷もすぐに治し、精神も安定させる作用がある。
それで俺は魔阻薬による魔力阻害の影響を解除できた。
さらにウィルター様はアクアライド家が力をは落としたには、何者かの手によってであり、魔阻薬はその一環であるとも考察した。
あの時はそれを深く考えても不毛だとされたが、
『これは僕の仮説ですが、ミナト君に魔阻薬を飲ませていた人物………………マリ・タイゾン。君の専属使用人です』
「…………………………………………………は?」
ウィルター様の言っていることが分からず、思考が停止する。
マリ姉が俺に魔阻薬を?
何かの冗談だよな。
「う、う、嘘ですよね?!」
『いいえ。残念ながら嘘ではありません』
「嘘だ!!」
俺はこの時、初めてウィルター様に向かって怒鳴った。
反射的に、そうしてしまった。
だって俺のこの世でたった一人の信頼における人であり、家族同然の人が俺に魔阻薬を飲ませていたと聞かされたんだから。
ウィルター様は怒鳴った俺を怒るでもなく、寧ろ悲しげに俺を見据える。
「マ、マリ………マリ姉のはず………ない!」
『ミナト殿………………』
俺は狼狽え、動揺する。
そんな俺をシズカ様は優しく抱きしめてくれた。
暫くシズカ様の抱擁を受けることで少し落ち着いた。
『すみません。怒るのも無理もありませんね、マリと言う人物はミナト君にとって、かけがえのない人ですから。しかし、今は僕の話を聞いてください。僕を怒るのは、話を聞いた後でも遅くありません』
ウィルター様は何と俺に頭を下げのだ。
なんとか冷静になった俺は考える。
ウィルター様が軽はずみに俺を傷つけるためだけに、こんな嘘を付くわけがない。
「………………分かりました。話を聞きます」
『ありがとうございます』
感謝を述べたウィルター様は仮説を話し始める。
『まず初めに伺いますが、ミナト君は魔阻薬どのような物かは知っていますか?』
「えっと…飲むと体内の魔力の流れが乱れて、上手く魔法が使えなくなる薬剤ですよね」
ウィルター様はうんうん…と頷く。
『概ね合っていますが、補足すると魔阻薬は特殊な材料に、特殊な製法を使って作られる液体の事です。飲めば魔法が上手く使えなくなると言いますが、実際に飲んだところで即効性はありません。微量の魔阻薬である場合なら、胃の中で分解され、効力を殆ど失います』
初耳だった。
てっきり少し飲んだだけで忽ち魔法が使用不可になる危険なものだと思っていた。
『大量の魔阻薬を一度に飲んでも数日経てば、回復します。ですので、魔阻薬は毎日、一定以上の量を飲んでいく事で徐々に効果が表れます』
「毎日?!俺って…毎日、魔阻薬を飲んでたって事ですか?」
『そうとも言い切れません。ミナト君が初めて見せてくれた〈ウォーター〉ですが、形は歪で不安定ではありましたが、水の球らしきものは初手で作られていました』
確かに、俺が以前作っていた〈ウォーター〉はそんな感じだ。
『もしミナト君が毎日、魔阻薬を飲んでいたとするなら、少量の水すらも出なかったでしょう。つまり、ミナト君が魔阻薬を飲んでいた頻度は大体三、四日に一回のペースだと思います。それでもミナト君の身近にいる人物でないと出来ませんね。それこそ専属使用人ぐらいでは』
「それでマリ姉という事ですか」
確かにマリ姉とは毎日会っているし、魔阻薬を飲ませるタイミングはあったと思う。
でも、それは他の使用人も同じ。
ウィルター様は掛けてある眼鏡を直し、続ける。
『恐らく魔阻薬は別の飲み物に混ぜて、ミナト君に飲ませていたのでしょう。ここで問題なのは魔阻薬の独特な味です。ミナト君は魔阻薬本来がどんな味をしているか知っていますか?』
「いえ、知りません」
『とっても苦~~い味をしているのですよ。一度飲んだら忘れないぐらい。あの苦い味は飲み物に混ぜた程度では消えません』
あたかも魔阻薬を飲んだことがあるかのような言い方である。
けど、今は置いといて。
「じゃ、じゃあ…仮に……ですよ。マリ姉が魔阻薬を俺に飲ませていたとして。三、四日に一回の頻度で、そんな苦いものを飲ませ続けるなんて………………あ!!」
言っている途中で、俺の思考が止まる。
一つ思い当たったものがあったからだ。
定期的に魔阻薬を俺に飲ませる方法。
『ミナト君が思いついた通り、アオナジュースです』
アオナジュース……マリ姉が良く俺に作ってくれる甘い飲み物だ。
『僕も悩みました。ミナト君は少し抜けているところがあるとは言え、度々苦いものを飲まされていたら、不審に思います。そこでマリ・タイゾンが作っているアオナジュースを飲んでいたと聞いて、ピンときました』
俺は魔法の訓練や稽古の休憩中、ウィルター様とシズカ様に時々、自身のアクアライド家での生活を言っている。
勿論、家族同然であるマリ姉の存在やアオナジュースを作ってもらっていることも。
『アオナは千年前もアグアの周辺に群生していた果実。特徴的なのは優しい甘み。しかし、もっと特徴的なのは、アオナに含まれる成分は苦みを緩和させる作用があること。液状化してジュースにすることで、より効果が増します。魔阻薬はその中に入れたのでしょう』
「………」
俺は押し黙る。
ウィルター様の推測は状況証拠ばかりだ。
けれど、筋が通っていた。
では、本当にマリ姉が?
………………やっぱり信じたくなかった。
奥歯を噛みしめて逡巡する俺にウィルター様は小さく微笑み、肩に手を置く。
シズカ様は背中をさすってくれた。
『今のは、あくまで僕の仮説。念のために伝えておきました。この仮説が合っているか否かは、ミナト君がここから出た時に確認する他ありません』
それを聞いて、俺は決心する。
必ずマリ姉の潔白を証明すると。
その結果がこれではあるが。
「………………………バレちゃいましたか」
まるで長年の隠し事がバレて、諦めきった顔でマリ姉は溜息を吐き、下を向く。
そのマリ姉の言葉と態度はウィルター様の仮説を残酷に肯定していた。
「少し怪しいと思ってたんですよね。いきなりアオナジュースが飲みたいなんて言うから、もしやと考えましたが」
再度、俺に向けられる顔には怪しげな笑みがあった。
「どうして分かったんですか?飲んでもいないのに。そう言えば、先程魔法を使っていましたよね?」
俺は激情に飲まれないように、何とか拳を握り締める。
そうしないと、今にもマリ姉に飛び掛かりそうだった。
「さっき探知魔法をジュースに対して、やったんだ。そうしたら魔法が弾かれた反応があった。魔阻薬が入っている証拠だ」
俺は出されたアオナジュースをちょっとだけ飲んでから、〈水蒸気探知・解析〉を使って、アオナジュースを解析した。
探知魔法を魔阻薬に向かって行うと、魔法が弾かれる反応が返ってくると、ウィルター様が言っていたから。
フルオルが手配してくれた魔阻薬にも同じ反応が返ってきたので間違いない。
少し飲んだ時も、僅かに体内の魔力が乱される感覚がした。
魔力を敏感に感じ取れるようになった俺には分かる。
「へ~え…そんな事が分かるんですか!てか、ミナト様どうしちゃったんですか?あんなに弱かったのに!」
マリ姉の口から放たれたとは、到底思いたくない発言。
「雑魚集団とは言え、この屋敷の水剣技流の剣士達皆んな倒しちゃって。遠くから拝見させてもらいましたけど、ワイバーンを氷漬けにしたり、空中をかけて首をちょん切るとか、聞いたことありません!弱くないミナト様なんて可愛くありませんよ!もう!」
「………………本気で言ってるのかよ」
それしか言葉が出せなかった。
「ミナト様はどのようにして、そんなに強くなったのか非常に気になりますが、取り敢えずこのアオナジュース全部飲んでください。折角作ったので。また、いつもの弱いミナト様に戻ってください」
罪悪感など一筋もない笑みがあった。
俺の頭にあった激情はいつの間にか無くなり、代わりに絶句が頭を支配していた。
まだ別人と言われた方が納得できる。
「嫌だ」
「はぁ…なら、仕方ありませんね」
マリ姉は懐を漁り、ナイフを取り出す。
果物を切るためとか、そんな安っぽいものではない。
刃渡りの長い戦闘用のナイフだ。
そんな武器を隠し持っていたのか。
「殺しはしません。半殺しにするだけです。再起不能な傷を残して、弱いミナト様にするだけです。ご安心を」
ナイフを右手に、マリ姉は重心を落とし、半身の構えを取る。
「…………何で、マリ姉と!」
そう呟いても状況は変わらないと分かりつつも、呟かずにはいられなかった。
「〈氷刀〉」
いつものではなく、刃を潰した氷の刀を生成して、構える。
俺も戦闘態勢に入った。
こうして俺とマリ姉の戦闘が幕を開ける。
「………」
「………」
俺とマリ姉は互いの一挙一動を観察し、静止し続ける。
シズカ様との稽古で培ったのは、何も近接戦の技術や水剣技流だけではない。
相手の戦力を見抜く観察眼もまた、戦闘においては必須。
それ故、静止した姿だけ取っても、マリ姉が強いと理解した。
とてもではないが、ただの使用人ではない。
昨日会った時点で気づくべきだった。
もしかしたら俺はマリ姉が裏切者ではないと認めたくない余り、無意識にマリ姉を直視しなかったのかもしれない。
そうこう考えているうちに、マリ姉は何もない左手をスカーフの中に手を持っていき、何かを投げる。
それは右手に持っているナイフとは違った小さいナイフだった。
俺の顔目掛けて投げられたナイフを全て〈氷刀〉で切り落とす。
だが、気づけばマリ姉は俺のすぐ前に迫っていた。
投擲からの間合い詰めは、先手を打ちたい時によく使われる戦法だ。
だから、ナイフが投げられた時点で俺もこれは予想していた。
続くマリ姉の右手にあるナイフの突きを冷静に〈氷刀〉で受け流す。
「やりますね、ミナト様ぁ!!」
さらに襲ってくるナイフの突きを〈氷刀〉を凌ぎ、体さばきで躱す。
そこからはナイフによる連続攻撃だった。
鋭い、そして速い。
突き一発一発が鋭いくて、速かった。
速度だけなら、魔法を使用していないクラルの剣速と同等かもしれない。
「しっ!」
俺も当然、受けてばかりではなく、反撃とばかりに返す刃をマリ姉の右腕に打ち込む。
それをマリ姉は軽やかなステップで避け、大きくバックステップで距離を取る。
「やりますね、ミナト様。あんなに弱かったのに」
「もう弱い俺じゃない」
マリ姉は呆れるように溜息をつく。
「そうですか。猶の事、後遺症でも負わせて、弱くしませんと。貴方のためにも」
どこが俺のためだ。
マリ姉は、またしても小さいナイフを取り出し、投げる。
再び、投擲からの間合い詰めだろう。
これに対し、俺はまた〈氷刀〉で受け流す………のではなく、〈氷刀〉をマリ姉へ向かって投げることで、ついでにナイフを払い落とした。
「武器を!!」
戦闘の最中に、自身の武器を投げるとは思わなかったのだろう。
マリ姉は意表を突かれたように目を見開き驚愕する。
それも一瞬だけで、投げられた〈氷刀〉を冷静に躱す。
しかし、そんなマリ姉の小さい心の隙を俺は見逃さなかった。
〈氷刀〉をマリ姉に向かって投げた俺は一気に踏み込み、間合いを詰める。
マリ姉がやったことを、俺もやったのだ。
間合いを詰めた時には、俺の手には二本目の〈氷刀〉があった。
勿論、刃は潰して。
俺にとって、〈氷刀〉の生成は瞬きする時間さえあれば十分だ。
二本目の〈氷刀〉をマリ姉の右脇腹に打ち込む。
「うっ?!」
〈氷刀〉は見事にマリ姉の脇腹を直撃する。
刃は潰してあるので、斬られてはいないが、衝撃は伝わる。
マリ姉は脇腹を抑え、片膝をつく。
失敗だったのはマリ姉の痛みに耐えかねる顔を見たことだ。
「あ!マリ姉、大丈…………え?」
裏切者だと思いつつも、少し前まで家族だと信じていた者を〈氷刀〉で殴ったのだ。
〈氷刀〉を握る手が緩み、大丈夫などと声をかけようとしてしまったのは仕方がないことだ。
しかし、そんな俺の大きな心の隙をマリ姉は見逃さなかった。
次の瞬間…………………何とマリ姉は消えたのだ。
何の痕跡もなく、跡形も。
いきなり消えたマリ姉に俺は呆けた。
そして、ドスッ!!
背中から衝撃が襲ってくる。
「油断大敵ですよ、ミナト様」
首を回し背後を見ると、俺の背中にナイフを突き立て、不敵に笑うマリ姉がいた。