ワイバーン
俺は現在、大変疲れている。
その理由は、今日の朝から憂鬱気分だってのに、それに加えて俺の周囲がカオスな状況になっており、この状況を最適解で解決する手段が思いつかないからだ。
思考しようとする事すらも億劫だ。
右側を見ると、
「お、おい?!この落第貴族!は、早くここから出せ!!」
自分を水剣技流の使い手だとを偽っている茶髪の剣士………ナットが俺の〈氷壁・囲〉に閉じ込められており、ここから出せと喚いている。
左側を見ると、
「「「うぅ………」」」
エスペル王国に直属する王国魔法団の魔法使い達と、それを護衛する王国騎士団の騎士達が気絶もしくは悶絶した状態で地面に転がっている。
「許さないわ?!ざ、雑魚だったくせに!!ミナトの分際で私になんてことを!!」
その中に一人だけ、紫髪のツインテールをした王国魔法団の制服を着た火魔法使い………ミーナが俺にぶっかけられた冷たい水を全身にずぶ濡れになった状態で、凍える身体を小刻みに震わせ、俺を睨んでいる。
後方を見ると、
「「「………?!ひ、ひぃぃ!!!!」」」
俺に視線を送られ、俺が元々住んでいた屋敷に従事していた使用人達が尻餅をついて慄き、俺から距離を取ろうとする。
皆んな、俺を化け物であるかのように怯えている。
そして最後に前方………もっと言うと、前方のやや下を見ると、
「お、お、お兄さん!ぼ、暴力は良くないよ?!謝ろうよ!わ、私も一緒に謝るから!!」
俺の前には、使用人の格好をした小さい女の子がいた。
淡い紫の双眼に、肩ほどもない短い髪。
髪色は根元から水色に塗られ、髪の先の部分で朱色にグラデーションされている。
そんな可愛らしい女の子が今、俺の服を引っ張りながら、オロオロした様子で俺を見上げていた。
出会って間も無いのに、やたらと俺に絡んでくる。
「はぁ…」
今日はいろいろな事が起こってしまい、疲れ果てた俺は両手で顔を隠しつつ、膝を折る。
「?!ど、どうしたの!お兄さん?!具合悪いの?!」
「………………ああ、気分が悪い。凄ぇ疲れた」
動揺し、困惑する女の子に空返事をしながら、俺は心の中で何度もため息をつく。
こうなってしまった原因は、遡ること数日前になる。
「ミナト殿、二時間もあれば到着します」
「………いよいよか」
マカの街から馬車で数日。
故郷であるアグアの街は、後二時間という距離になっている。
マカから北東に位置するアグアの街へはきちんと舗装された街道が整備されている。
道のりには、いくつかマカほどではないが、大きな町があった。
俺は別に寄る気もないので、ここ数日は街道から少し外れた場所に馬車を止め、俺は馬車の中で夜を過ごしている。
寝る際は〈氷壁〉で馬車を囲っているので、夜でも安心だ。
そこらにいるような魔物では、俺の〈氷壁〉に擦り傷すら付けられない。
御者をしている騎士の人も、夜に安心して休むことが出来るという事で大変喜んでいた。
基本的に夜行性が多い魔物に対して、暗闇に弱い人間は野宿する場合は火を炊き、交代で見張りをすることで夜を過ごす。
これは見張り一人一人の睡眠時間が削られる上に、周囲を警戒するので、神経を削られ、疲労が蓄積される。
それは翌日の行動に支障をきたす。
例え、達人でも睡眠不足と疲労はミスを生み、実力が出せないときがある。
夜にしっかりを休むことが出来る事は、それだけで多くの利点がある。
俺は馬車の窓から顔を出して、前方の景色を見る。
前には、馬車が進む街道だけしか見えていないが、そのうちアグアの街の城壁が見えてくるだろう。
さて……アグアに着いたら、まずは俺の…アクアライド家の元屋敷に行ってみるとするか。
クラルの主であるミル曰く、アクアライド家は俺が死んだ扱いになり、俺の父親も重犯罪で捕まったことで、現在取り潰しにあり、リョナ男爵家という水剣技流の武家が切り盛りしているらしい。
だから、俺の実家であったアクアライド家の元屋敷に戻っても、どうしようも無いのだが、あそこにはマリ姉がまだいる可能性が高い。
アクアライド家にもともと使えていた使用人は、そのまま継続してリョナ家に仕えているらしいから。
マリ姉は準男爵であるタイゾン家の次女として、アクアライド家に俺の専属使用人として仕え、幼い頃から俺の面倒を見てくれた姉のような存在。
生まれてから、クズ以下として扱われてきた俺を唯一優しくしてくれた人だ。
「水之世」の外に出て、最優先にやるべき事の一つ目が俺の実家であるアクアライド家に戻ることだが、大体の理由はマリ姉に会いたいためだ。
きっと、「水之世」で行方不明になった俺を心配しているに違いないし、俺もマリ姉に凄く会いたい。
……………………それに、マリ姉には一つだけ確認しておきたいことがあるからな。
これだけは杞憂で終わって欲しい。
マリ姉は俺にとっての姉のような人…俺にはそれだけで充分なんだ。
だから杞憂であってくれ。
本当に。
俺がそんなことを考えている時だった。
「………………おや?」
御者である騎士が前方を見ながら、疑問の声を上げる。
「どうしました?」
俺の問いに騎士は馬の手綱を握りながら、前に少々身体を傾ける。
前に何かあるのか?
「いえ…ここからかなり前方の方で、かなりの数の人が見えるのですが、なにやら様子がおかしいです。…………それに、空中に何かが飛んでいるように見えます」
「人?空中に何かが飛んでる?」
俺は騎士に言われた、ここからずっと先の前方…つまり馬車の進行方向に対して、馬車の窓から顔を出した状態で目を凝らして見てみる。
すると、確かに豆粒のような細長い点が何個も見える。おそらく人だろう。
そして、その人達の頭上に…騎士の言われた通り、何か大きい物が飛んでいる。
ここからだと、少し遠くて鮮明に見えない。
「〈望遠鏡〉」
なので、遠くを視認するための魔法〈望遠鏡〉を生成した。
氷の凹凸と屈折の特性を利用して、遠望する。
俺は〈望遠鏡〉を覗き込む。
〈望遠鏡〉からは剣や盾、弓などを持った人達が見える。
装備が騎士と違ってバラバラ……冒険者だな。
「人の方は格好からして、冒険者ですね。それで飛んでいるのは………………あれは!」
「どうしました。ミナト殿?」
俺が唐突に、驚愕した声を出したので、騎士がどうしたのかと尋ねる。
騎士の問いを無視して、俺は自分の見た物が見間違いでは無いかと確かめるために、しっかりと飛んでいる物を見る。
鳥のようなフォルムだが、鳥とは全く違う。
一軒家よりも大きい巨体。
前足が両翼になっており、鋭い鉤爪がある後ろ足。
長い首から長い尻尾にまである背中の鋭い突起。
鈍い鉛色の鱗に、頭部には大人を丸呑みできるほどの大きな口に、獰猛な目と鋭い牙。
それは、
「………ワイバーン」
俺でも知っている魔物。
俺が生まれてから、初めて見たことのある魔物。
俺にトラウマを埋め付けた魔物。
俺の呟いた言葉を騎士が拾う。
「ワ、ワイバーン?!本当ですか?竜の眷属がこんな場所に!」
騎士は驚いているが、俺はむしろワイバーンがここにいるのは、おかしな事では無いと持っている。
なにせ、アグアの街の比較的近くだからな。
詳しく説明すると、俺の故郷であるアグアの街のさらにずっと行った東側には、多くのワイバーンが棲み着いている生息地があるのだ。
普段はその生息地から離れないワイバーンだが、たまに生息地からアグアの方面に飛来してくる事があるのだ。
原因は余り良く分かっていない。
なので、ワイバーンが一匹でもアグアの街やその周辺に現れた時は、アグアの街の騎士団と冒険者が討伐に出る。
因みに形式上、その時は俺や父親も討伐作戦に参加する。
勿論分かっている。
父親……ましてや俺が参加したところで戦力外になるだけだ。
それでも、一つの街を治る貴族として参加しなければならない義務があるのだ。
まぁ…アクアライド家が無くなった今、もうその義務は無いけど。
あれは十年前の…俺が五歳の頃に、一匹のワイバーンがアグアの街近辺に出現し、討伐の現場に居合わせたことがあった。
その時だ。初めてトラウマを感じたのは。
多くの騎士に守られながら初めて見る魔物…ワイバーンは俺には恐ろしすぎた。
俺は恐怖で思わず気絶してしまった。
気絶から起きたら、ワイバーンは既に討伐され、討伐に出ていた騎士達と冒険者の皆んなから嘲笑されたよ。
お陰で、ワイバーンを見ただけで気絶した貴族の嫡男という汚名を着せられた。
とても屈辱を感じたのを覚えている。
だから俺にとって、ワイバーンは恐怖と羞恥を思い起こさせる。
実に、けしからん。
それにしても……、
「近くにいる冒険者はワイバーンの討伐隊か。だけど、たった十数人ぐらい。…………少ないな」
〈望遠鏡〉で数えた限り、冒険者の数は十数人。
けれど、ワイバーン相手に十人と数人は少ない。
普通一匹の魔物に対して、その数は十分だと思うが、相手がワイバーンなら話は別。
ワイバーンの討伐には、とにかく矢や魔法などの遠距離攻撃が出来る者を集める。
そして地面近くを低空飛行してくるワイバーンの翼に遠距離攻撃を当て続けて、飛べなくなるくらい翼にダメージを与え、地面に降ろさせる。
そして地面に降りたワイバーンを接近戦で仕留める。
これを聞いただけでは、ワイバーンを仕留めるのはそこまで難しくないと思うが、そもそもワイバーンが低空飛行してくるのには理由がある。
ここで〈望遠鏡〉に移っているワイバーンが冒険者に目がけて地面に近づき、低空を飛んで来た。
そしてワイバーンの口から赤い光が放たれる。
赤い光は地面を焼き尽くす。
あれがワイバーンお得意の炎のブレスである。
低空飛行する理由は、このブレスを獲物に確実に当てるためだ。
ワイバーンを地面に降ろす際には、このブレスを避けながら翼に攻撃をしないといけない。
ふむ………見た限り、このままでは冒険者側はかなり劣勢だな。
なら、やることは決まっている。
あんな空を飛ぶだけのトカゲに、いつまでも恐怖と羞恥を思い起こされるようだと、レイン様に呆れられる。
俺は御者である騎士に言う。
「すみません、あのワイバーンのところに急いで向かってくれませんか?」
「え……正気ですか?ワイバーンですよ?」
騎士に聞き返しに、俺はしっかりと答える。
「大丈夫ですよ。俺なら一人で片を付けられます」
「ひ、一人で仕留めると?!」
「はい」
俺の自信ありげな物言いに、騎士は絶句する様子を見せる。
そして、すぐにハッとした顔をして、馬に結んである手綱を引き、馬車を前方へ加速させた。
ワイバーンはエスペル王国で、空を飛ぶ悪夢として広く知られ、大人数の討伐隊が必要になる。
間違っても、単身で勝てると口走る者はいない。
しかし、この時…騎士は思い出したのだ。
直接見たわけでは無いが、噂や同僚の騎士の話、報告書で知った事を。
馬車にいる水魔法使いの規格外の魔法と圧倒的な戦闘能力を。
「分かりました。急いで向かいます」
騎士はそれだけ言って、馬車を加速させた。