裁判員裁判(法的な評価等に争いのある事件)控訴申立
飽田治郎は、山河地方裁判所での裁判員裁判により殺人未遂被告事件について懲役3年の実刑判決を受けた。
この事件の主任弁護人である武留は、再収容された飽田被告人と接見して、本件につき控訴するかどうかの意思を確認すべく、山河刑務所を訪れていた。一歩を身を引いて事件を眺めると、公判前段階で記録を検討している中、公判で弁護活動を行っていく中、被告人の一方的な怒りによる襲撃である以上、実刑の可能性は高いだろうと思っていた。ただ、被告人の立場を擁護する弁護人としては、殺意等の争点につき有利な判断がでたり、被害者が怪我をしていない点を大きく見てくれたりして、執行猶予が付くことについて淡い期待を抱いてもいたので、この判決結果は残念なものであった。ましてや、判決を受けた当人である飽田氏の落胆ぶりは酷いものだろうと思っていた。
「飽田さん、早速ですが、今日は判決に対して控訴するかどうかを聞きに来ました。」
「武留先生、ありがとうございます。……判決の後、また刑務所からに入れられて正直辛いです。」
飽田氏は顔を歪めて声を絞り出す。
「何とか3年も刑務所に行かないで済むようにしてほしいです。」
立会人の無い弁護人と被告人との接見で、飽田氏からは予想された反応があったが、あのような襲撃事件を起こすにあたってそんな覚悟も無かったのだと改めて思ってしまう。裁判が終わるとの同時に社会に戻れる可能性がないわけではなかったと思うが、結局、裁判員裁判として、一般市民の感覚・評価が尊重されそうな犯罪の成否の争点で負けて、量刑でも裁判員らの同情を得られなかった以上、事後審である控訴審で犯罪の成否の判断が変更される見込みや、現在の量刑が覆される見込みは乏しいと思われた。
「これまでにも話してきたとおり、この事件、法律的には執行猶予も可能ですが、実際の量刑で執行猶予になる可能性はほとんどなかったと思います。正直、未遂減軽されて懲役3年まで下がったのはかなり幸運だった、というのが私の率直な感想ですね。」
「先生の話は分かっていますが、刑務所の中で虐められ、病気で苦しみながら、外に出られないまま死んでしまう悪夢を見るんです。判決宣告の日からよく寝付けないままで、どうにかなってしまいそうです。」
「これまでにも説明してきたとおり、一審判決に不服があれば控訴して高等裁判所の判断を仰ぐことになりますが、その控訴の仕組みや控訴に伴うデメリットなどについて、改めて説明しますね。」
この事件では、こちらが控訴するしないについて積極的に後押しするのは妥当でないだろうとの見立てのもと、前提として、改めて控訴の利害得失を簡単に説明した上で、飽田氏からの反応を引き出す方向で会話を進めようと考える。
控訴しなければ刑が確定してしまう一方、控訴した場合、未決勾留による拘束が続き、控訴審での全部算入は破棄されての法律上当然の算入でもなければ現実的でないため、制限の緩い未決が既決と同じ1日分として扱われるとは言え、日数的には余分に身柄拘束を受ける必要がある。
そうすると、控訴審でどれだけ原審が破棄される見込みがあるかがかなり重要になる。本件では、判決については一審で出た事情に照らして異なる判断が出される1項破棄の見込みは乏しいと思われるが、ただ、今回の量刑は、飽田氏は被害者に対する慰謝の措置ができていないという事実があってのものである。したがって、飽田氏が、遅ればせながら控訴審判決までに被害者との示談を成立させ、望むらくは宥恕を得るとともに、自己の反省が伝わるような何かを行うことで、一審判決後の量刑事情を考慮してもらう2項破棄のされる可能性がないでもないと思われた。もちろん、この点も、示談のための金銭をどこから調達するかや、被害者の意向が今更ということで厳しい可能性もあるなどの課題がある上、内容次第では一審判決までにしておくべきだったとして量刑変更に至らないとか、変更されても直ちに社会に戻れるようなところまで刑が減軽されるとは限らないのだが。
もっとも、未決勾留のデメリットは、控訴後、法定未決算入期間のうちに、再保釈を申し立ててすぐに再保釈の許可を受け、保釈保証金を積めるときにも、なくなる。第一審で保釈されていることを考えると、懲役3年という期間が短くないことは懸念点ではあるが、それなりに認められる可能性はありそうではあった。ただ、一審判決前の近井さんも交えた説明の際、一審の保釈保証金300万円に、最低でも50万円程度、可能性としては1.5倍となる150万円程度の上乗せがありえるということと、控訴審と上告審の判断が出るまでの期間として6か月程度が見込まれることを伝えたところ、その負担を突き付けられて近井家の話が纏まらず、立ち消えになった。そのため、再保釈の可能性がどうこうはもう改めて説明しなくてもいいはずである。
「一審判決を変更してもらう手続としては、控訴しかありません。被告人の控訴があって、検察官からの控訴がなければ、被告人には元よりも重い刑が下されることはないため、一審判決が言い渡した懲役3年より重い刑が飽田さんに科せられることはないので、その点は安心してください。」
「裁判長から説明されたとおり、山河高等裁判所宛ての控訴申立書を山河地方裁判所に出すことで控訴をすることができます。その書類は今日差し入れますが、判決日の翌日から14日以内で、書類に飽田さんが署名指印をして施設の職員に提出すればできますし、私が弁護人として裁判所に書類を持っていって控訴することもできます。」
「さて、控訴したときのデメリットですが、端的には、裁判のための身柄拘束、つまり未決勾留が今後も続きます。第一審判決では、飽田さんが拘束されていた期間の一部、90日分が懲役3年に算入されたので、91日目から服役が始まると思ってもらって良いですが、拘束されていた全期間を刑務所で務めた扱いとはしてくれませんでした。これと同様に、控訴審での未決勾留についても、第一審判決が破棄されない限り、全部算入されることは考えられないため、控訴棄却になると、未決算入されなかった期間については身柄拘束期間が延びたことになります。」
「そうなると、控訴審で第一審判決が破棄される見通しがどの程度あるかということも大いに影響してきます。飽田さんの事件の判決書も確認しましたが、残念ながら、理屈や評価について一見しておかしいと突っ込める場所があるものではなく、しかも今回は裁判員も加わって殺人未遂の成立を肯定し、実刑の量刑を下したものですから、高等裁判所としては、事実認定であれ、量刑判断であれ、元の判決が不合理なので変更する、との判断に至るのは相当厳しいと考えられます。」
「ただ、例えば、被害者と示談して許してもらうということができれば、そのような判決後の事情をも量刑の判断材料として一審判決の量刑を下げてもらう余地はあるかもしれません。もちろん、近井さんから相応の金銭的な協力を得られるという前提がないと和解交渉に入ることは無理だと思いますが。」
「なお、他の控訴に伴うデメリットとしては、結論が決まらない状態が引き続いていくので、それが心理的にしんどいから控訴はしないという人もいました。」
飽田氏に対し、大まかかつ一気に、控訴の仕組みや控訴に伴うデメリット、原判決破棄の見込みについて伝えた。その上で尋ねる。
「そういったところですが、飽田さんとしては、一審判決について控訴するかしないかどう考えていますかね。」
「……確かに悪いことをしました。それは謝りますよ。ただ、あっちが人の商売をダメにして、自分の生活をめちゃくちゃにして、息子の大事な時にも何にもしてやれなかったんです。私も今度66歳になるんですよ、もう半年も外に出られないでいて、本当にしんどいです、見張られていて自由にならないことばかりです。飯も腕が悪くて不味くて耐えられません。服役して本格的な刑務所生活になったらと思うと苦しくて怖くてたまりません。既に、これだけ辛い思いをしているし、あのときの私はどうにもおかしかったし、あっちはケガも何もしてないのだから、裁判所は、被告人はもう十分大変な思いをしたんだから刑務所から出ていいですよ、とそう言うべきだったんです!何で、あと3年も刑務所にいろだなんて言うのか、老人虐待も甚だしい!!」
飽田氏は、自己の心情を語っているうちに声が大きくなって、ヒートアップしてきた。自己の反省、犯行に至る自己の境遇、現在の環境への不満や今後への不安などをないまぜにして、あれこれと吐き出したい気持ちは分からないでもない。
しかし、経緯動機は一般市民8名を含む裁判員裁判により、同情するようなものではないと評価されてしまっているのだから、そのあたりは何を言ってもどうにもならなそうだが、飽田氏のほうもこのあたりは頑として変えられないまま来てしまっている。。
やはり、飽田氏は、法廷では、最後のあたりは反省したと殊勝な態度を見せていたものの、結局は、山田女史に対する怒りや恨みが根深く、周囲から期待されている反省、そこから繋がる再犯防止などには目が向いていないようで、これでは、示談等ができるかどうか、できたとしても控訴審での被告人質問で見透かされてしまい、せっかく判決後の事情が作れたとしても、刑の大きな軽減を求めるのは厳しいかもしれないと思わされた。
「今の話からすると、一審判決には不満があって甘受することも難しいから、控訴をしたいということで良いですかね。一審判決が変更されないときには現実の身柄拘束が延びて損をすることになるのは、飽田さんも承知の上ということで良いですよね。」
「……その…保釈…できませんかね。近井さんの一家には、昔、何度も私の店を安く使わせてあげたりしていたのを思い出したんですよね。貸しということで、保釈に必要なアレコレをやってもらうように説得してきてもらえませんか。そして、保釈が許可されたら控訴すれば、何の損もないのではないですか。」
…………、近井家としては負担が大きかったということで、これ以上は金額的にも生活的にも難しいということは十分に察せる様子であったのに、さらに話をするのは現実的ではないだろう。
「保釈の間、近井さんのところで過ごした上に、判決までの短い期間で、借りていた家の引払いに当たって人や車を出していただいたり、飽田さんが多少残したいという荷物を、近井さんが物置等ではありますが預ってくれるということで、いろいろお世話になっていますよね。」
「ええ」
「あれだけ気に掛けてくれた近井さんがこれで限界ということなのですから、それ以上に無理をお願いするのは宜しくないのではないですか。」
「いや、多少大変かもしれないけどこのくらいやってくれたのだしあともう少しくらいは何とかならないですかね。お金もどうにか工面してもらうとして。」
「さすがに、私としてはこれ以上近井さんにお話しはしかねるので、どうしてもというのであれば、飽田さんがご自身で手紙を出してお願いするなどしてくださいね。」
「それだと時間も手間もかかるから先生のほうで上手くまとめてもらえると楽だと思うのですが。」
「私としてはやはり難しいと考えますけれどね。それと、控訴する前に保釈を申し立てるとしても、元の住居も引き払っていますし、飽田さんにはもう確定までの短期間で挙げられる目ぼしい保釈の必要性が見当たらないと思いますが。」
「いや、そこを何とかお願いします。」
「……再保釈は、一審判決前にも話をした上で難しいという結論になったと理解していますので、こちらとしてはちょっと対応しかねますね。もう、そういう前提で、控訴するか否かを考えてほしいのですが。」
この後、飽田氏は、控訴について、原判決は、私は何も考えていなかったのにどうして殺意を認めるのか、どうして不幸な自分の境遇を分かってくれなかったのか、被害者が余計なことをしなければ自分もこうならないで済んだのに、などと取り留めもなく話をした後、また再保釈に関して食い下がってきたので、さすがに内容的にも時間的にも応対しかねるところであり、話を打ち切って控訴の有無に話を戻した。
「私の方は一審の弁護人ですので、再保釈に関してはしかねますね。それで、もう時間もないので、結論を聞きます。控訴するかどうか、どうですか。」
「……控訴します。」
「分かりました。では、私のほうで山河地裁に控訴申立書を出しておきます。その後の手続進行については裁判所からの書類の指示に従ってください。」
そして次の予定が詰まっているなどと告げて、武留弁護士は山河刑務所を後にし、その他の差し迫った用事を終えると、原審弁護人の権限により控訴申立書、すなわち、山河高等裁判所宛ての、本件の懲役3年に処するとの判決の全部に不満があるとの書面を作成し、山河地裁に提出して、本件につき控訴を申し立てた。