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「幸せ感」って何?  9

 相沢は人さし指を立てもう一杯?と尋ねた。

 私は「ええ」とうなずいた。

「でもね、その話の内容がわからないのには理由があるんですよ」

「何故ですか?」

「全然家庭にいなかったから。仕事も確かに忙しかった。今の仕事をする前は通信社にいたんですよ。もうほとんど一年中世界を飛び回ってました。やりがいもありましたし、のめり込んでもいました・・・。いや、違うな・・・」

 急に話を中断しグラスの中に漂う自分自身の本性と語らい始め、そして意を決するように包んでいたオブラートを剥ぎ取った。

「正確に言うとね、逃げていたんです、仕事という世界に。結局、夫として、父親としての責任を放棄していただけなんだと後になって気付きました」

 相沢はっきりした口調でとうとうと続けた。

 姉である女将も、辛そうな顔をしながらそれでも静かに聞いていた。

 口元から放たれた微かなため息が、研ぎ澄まされた静寂の中を異質な気体となって漂いだした。

 奥の客がその異質な澱みに気付いたのか、勘定の合図を送った。

 女将は慌てて笑みを繕った。

「なんだ雨かよ」

 ドアが開けながら客が振り返った。

「傘ありますよ」

 二人はタクシーを拾うからとやんわりと断わり、携えた週刊誌を頭に載せると、雨に因んだ小唄を口ずさみながらゆっくりと表通りに歩いていった。

 相沢を見つめ柔らかく微笑みかけた。

 相沢も少しだけ口元で受取り、そしてこぼれそうになったグラスの中の全てを一息に飲みほした。

「私にとっての神はそんな魂の声なのかもしれないなと最近は思ったりもします。だってその神々がまるで家族団欒でもするかのように心の中で語らっているんです。もっと早く気づけばよかったな。幸福感というか何が大切なのかを勘違いしていたんですね、私自身が」

 話しかけるわけでもなく、どこか遠くの、いや、心の中にある誰も入り込めない部屋の中でひとり黙々と自身に語りかけているようだった。

「本当に大切なものは、実は眼には見えないんだそうですよ」

「本当に大切なもの?」

「ええ、空気とか、水分とか、勿論心や魂もそうです。例えばね、朝起きてグッドモーニング、グッドアフタヌーン、グッドイブニング、別れる時にグッドバイそしてグッドナイトで眠りに就く。一日の生活って結局こんなグッドの積み重ねなんですよね。決してベリーなんて付いちゃいけない。付くと毎日が重たくなる。だって食事も毎日デリィシャスでは体を壊しちゃうわけです。やはりグッドテイスト、この何気ないグッドの積み重ねが実は本当に大切なものなのかもしれないわけです。極論すると究極の幸福感はそのグッドの中に存在してるんだなって。しかし残念なことに私はその大切なものに気づかなかった」

 話に肯きながら母の呟いた幸福感をダブらせていた。

 二人はきっと同じ事に気づき同じ想いを語ろうとしているのだと感じた。

 でもその何気ないグッドな毎日って口で言うほど簡単なもんじゃないんだよね、と相沢は付け加えた。

 平凡が一番と言いたいのではないのだろう。

 何気ないのは周りからの印象であって、そのひとつひとつはやはり誠実な行為の積み重ねで形成されているのだと。

 私は、昔みた洋画のなかのひとつのシーンを思い出した。

 寒い夜、疲れて帰ってきた主人公に、相手役となるその女性が、冷蔵庫の中にある食材を使って暖かいスープを作ってあげる。

「グッド・テイスト」

 カップを両手で包み込みながら、にこやかな微笑を浮かべ主人公は心からそう感嘆する。・・・そんな「シアワセ感」を思い浮かべた。

「考えてみれば不思議ですよね、このグッドという英語的言い回しは。良い朝ですねって言われて良い朝ですねって答えるんですから。グッドであるかどうかは個々人の心の持ちようなんですものね。いや、それとも尋ねられてるんでしょうか。あなたにとって良い朝ですかって?」

「そうそう、あんたなんかとばったり会っちゃってバッドモーニングと言い返されるかもしれないのにね」

 吹き出すように笑った。

「きっとこうなんでしょう。全ての現象や状況を良しとして受け入れようとしてるんです。出会えた事そして別れ、もっと言うと朝が訪れたそのことに対してグッドと言ってるんだと思います。つまり生きているというその事にね。生きているからこそ朝も昼も夜も迎えられるし、こうやってたくさんの人と出会えるし、おいしいお酒も飲める」

 お酒はぬるめの燗がいい、肴はあぶったいかでいい。

 急に懐かしい演歌を小声で口ずさみながら微笑み、この取り合わせがいわゆるグッドテイストなのだと説明した。

「人間関係もそうかもしれませんね。グッドフレンド、やっぱりそんな関係が一番落ち着くし長続きする」

「そうですね、夫婦であればなおさらそうかもしれない。グッドパートナーですよね。だから私は本当に大切なものに触れたいと感じたとき、意図的に現実から眼を閉ざすことにしているんです。目を閉じ、心を無にしたとき、大切なものが見えてくるような気がするんです。時折眼を閉じてみてください。その大切なものが心の眼で見つけ出せたとき、佳織さんにとっての生きる意味を間違いなく諭してくれるんだと想いますよ」

 相沢はゆっくり、そして何度も肯いた。

「あのぉ、おいくつなんでしたっけ?女性に齢を聞くのもなんなんですが」

「私ですか。もう三十ですよ」

「そうですか。そうだ、そうだ、二十七からの十年というのは人生にとって大切な時代なんですよ」

「なぜですか?昔先輩は三十路は闇の中である、と嘆いてましたが」

「面白い。木曽路は山の中である、島崎藤村のパクリですね、それは。丁度ね、生まれて一万日目を迎えるのが二十七歳の年なんです。一万日ですよ。一万日も生きてきたんですよ。間違いなく大きな節目ですよね。そして今は二万日目に向かって歩いている。生きているんですよ。人生が確立されていく次の一万日。ですからいろんな意味で大切な時代なのかもしれない」

 相沢は丁寧にそして繊細に私の魂に接してくれていた。

 苑子からいろいろ私の性格を聞かされているのかもしれないとも思った。

 そんな包容力が究極の安心感を提供してくれていた。

 相沢の不思議な存在感の前で私はただ無防備に身を任せた。

 雨が止むのを待って私は腕時計を見やりながら「そろそろ」と切り出した。

 盛り上がりに水をかけることになってしまったが、短い針と長い針は同時に真上を指そうとしている。

 送るという相沢の申し出を、丁重に遠慮した。

「たまにはお姉様とゆっくり語り合わないと・・」

 カウンターの中に微笑みかけた。

「それでは通りまで」

 相沢は念のため置傘に手を伸ばした。


 三十分ほどの通り雨は、熱みを帯びたアスファルトに跳ね返され、地面から五十センチぐらいまで温泉地の湯気のような蜃気楼をつくっていた。

 駆け抜ける車のヘッドライトが漂うようにゆらゆらとゆらめいていた。

 大通りのガードレールの切れ目で二人は空車のタクシーを待った。

 相沢は身を乗り出しフロントガラスの赤いランプに目を凝らした。

 そんな相沢の背中にひと言ふた言と語りかけた。

 えっ?と相沢は少しだけ振り返ったが、それでも赤いランプを捜すことに集中していた。

「また話しの続き聞かせてくださいね。中途半端になってすいませんでした」

「ああ、とんでもない、とんでもない。暗い話し持ち出しちゃって。今度はパッと明るい話題で呑みましょうね」

 程なく赤いランプはつかまり軽く握手をして別れを告げた。

 タクシーに乗り込み行き先を告げながら振り返ると相沢はまだ子供のように手を振ってくれている。

 軽く会釈し、蜃気楼に霞むまでその姿を見つめていた。

 相沢の姿が、今夜が、いや出会いそのものが、まるで幻想のようにテールランプの向こうで霞んでいった。

 皆幸せそうだな、ふとそう思った。

 もう一度振り返ってみたが、相沢の姿は消え蜃気楼の彼方に東京タワーの飾りネオンが浮かび上がり揺れるように点滅していた。

 眼を閉じた。

 大切なもの。

 それはきっと子どもの頃から捜し求めていたものなのだろう。

 おぼろげながらその欲している何かが見えてきたような気もした。

 知らない間に私はスタート地点に引き返し、そもそもまだ人生のスタートさえも切っていなかったのだろう。そんな病んでいる自分の心をやっと素直に受け入れることができるような気がした。

 いずれにしろ早くこの羊水というモラトリアムの浴槽から飛び出さねばならないことだけは確からしい。

 恐れずに前に一歩でも踏みださなければ…。

 そう思った。

 無意識にバッグから携帯を取り出した。

 短縮の一番をプッシュし耳にかざした。

 呼び出し音は一回で繋がった。

「はい、もしもし」

 懐かしさと愛おしさが交錯する。

「わたし」

「おう、ちょうど今おまえに電話しようとしてたんだよ」

「どうしたの?今どこ?」

「家だよ。さっき帰り着いた。いやあ、来週の月火と久しぶりに休みが取れたんだ。明日そっちに行こうと思ってね。それともおまえ来るかい?」

「そう、・・・・・行くよ」

「そうか、じゃあ、うまいもんでも作ってくれよ。ここんとこずっと海外出張やら接待やらで胃が滅入ってたんだ」

「そうなんた、じゃあグッドテイストでもご希望なのかしら?」

「なんだそれ?」

「ううん、何でもない。明日、買い物してから行くわね」

「わかった、・・・ところで佳織・・・」

「うん?」

「いや、あのな、ほら、長いこと放りっぱなしだったからさ。やっと仕事も落ち着きそうだし、いろいろゆっくり話したい事もあるから…」

 洋輔のそんな温かい不意打ちに下瞼の裏側が敏感に反応した。

 バッグに手を突っ込みハンカチを探したのだが、ふと指に触れたコンパクトミラーを取り出した。

 いつもの癖で瞬間瞬間の自分を確認したくなった。

 恐る恐るミラーを覗き込むと、やはり、涙が溢れていた。

 等身大の自分が写っているようにも思えた。

 溢れ出る涙を手の甲で受け止めてみると、柔らかいぬくもりを実感できた。

 素直に嬉しいのだと思った。そして無性に早く会いたいという感情を抑えきれなくもなっていた。

 これでミラーを覗き込むクセを止められるかな。

 なんとなくそう思った。

 携帯をバッグにしまいゆっくり深呼吸した。そして後部座席から身を乗り出し、行き先の変更をドライバーに告げた。

「すいません、行き先、目黒に変更してください」


            お・わ・り・・・

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