「幸せ感」って何? 7
地下鉄の階段を駆け上がると、交差点の周りは夕暮れを待ちわびている戦闘態勢の若者たちで賑わっていた。
さすがインターナショナルタウンを彷彿とさせる色とりどりの肌、髪の色、眼の色が、まるで規則性のないアメーバーのようにせわしなく六本木一帯を徘徊し集合しそして分散している。
休戦中の私はそんな熱い人混みを潜り抜け、麻布十番へ抜ける固い石畳の坂道を、ヒールの音をせわしく刻みながら降りて行った。
やがて正面にはネオンで飾りあげられた東京タワーが浮き上がってくる。
坂道を下りきりフラワーショップの先を右に折れた三つ目のビルの二階にそのカフェバーはあった。
「カリヴィアンハウス」と筆記体で書かれた焼き付くようなフラッシュネオンが、壁際で踊るようにはじけていた。
備え付けの螺旋階段を上がり、厚手の木製のドアをゆっくり押すと、強めの冷気と軽快なビートが異次元の世界から私を外に押し戻そうとした。
眼をそばめ店の中をうかがった。
タバコの煙で風景がよどみ、心地よいレゲエサウンドがそのよどみの隙間を漂っている。
足が地に付かない私は、そんなよどみの中を泳ぐように客席に進んでいった。
「いらっしゃいませ。お待ち合わせですか」
実際のカリブの浜辺か、おそらく、この街のこの店でしかお目にかかれそうもないスタイリッシュカリビアンボーイが声をかけてくる。
「ええ」と肯きながら周りを見渡した。
「佳織、こっち」
これまたビートの間隙を縫うように声が届く。
声の方向を見上げると、中二階のラウンジの手摺から身を乗り出し苑子が無邪気に手を振っている。
つられて思い切り手を振った。
対面の席にはスーツ姿の男性が座っている。
弱い視力のせいもあってとっさに判断できない。
幅の狭い木目の階段を恐る恐る上がり、苑子たちのテーブルに近付いた。
「こんばんわ、お久しぶりです」
丁寧に会釈するその優しい眼を私は覚えていた。
「相沢さん・・・ですよね、見間違うところでしたよ」
「そうでしょう、いつも野暮ったいヒゲ面ですもんね」
クスクスと笑いながら苑子が相槌を打った。
「たまにはこんな服も着るんですよ。似合いませんか?」
テレ笑いを浮かべながら相沢は返事をする。
「佳織に会うからおしゃれしてきたんだってさ」
茶化すように話しに割り込んだ。
相沢は頭を掻きながらもう一度優しく、そうです、もちろんですよと微笑みかけた。
苑子は目ざとく私の服装の変化にも気づき、今度は顔を覗き込むようにしながら茶化した。
私は制するようにキッと睨み付けた。
「まあまあ、お座りください」
苑子は椅子の上に置いてあった自分のバッグを持ち上げた。
「今日父さんの墓参りに行ってきたのよ、母さんと一緒に」
「暑かったでしょう。そうか、もう何年になるのかしら? たしか今ごろの季節だったよね」
「九月十三日、来週の火曜日が命日、早いものよね。あの日も暑かったわ」
ふと母の寂しげな背中を思い出した。
「おばさまはお元気?」
「うん、仕事バリバリやってるわよ」
「それは良かったわ」
「でも何だか最近変なのよ。急に父さんのこといろいろ言い出したりなんかしてさ」
「へー、例えば?」
「どうも最近夢みるらしいのよ。夢枕に立つってやつかな。ごめん、ごめんって母さんにあやまるんだって」
「そうなの?」
「今ごろ閻魔様の前でバチでも当たってるんじゃないの、きっと」
苑子は笑い顔を作りながらビールを飲み干し、「さあ、飲もう飲もう」と手を上げながらボーイに合図した。そして相沢の方を見やりながら表現しようのない苦笑いを浮かべ、意識的に話題を変えた。
「その後洋輔からは連絡ないの?」
「全然、代わりに向こうのお父さんからは三日に一度はかかってくるよ。元気にしてますか、洋輔からは連絡ありますかってね。どうも実家にも音信不通みたいね、あの親不幸息子は」
うんざり顔で返事をすると、「ご婚約目前なの」と相沢に状況を説明した。
「そうなんですか。それはおめでとうございます」
グラスを置いて相沢は丁寧にお辞儀した。
「どうなることやらなんですよ、まだまだ。顔も忘れてしまうぐらい音信不通なんですから」
「忙しいんだからしかたないよ」苑子はチーズにフォークを延ばした。
「物わかりがよろしいこと、お譲りしましょうか、何でしたら」
冗談めかして返事をした。
「いいの? ほんとに?」
同じように対応した。
さらにオーバーに肯いてみせた。
「佳織もう酔ってるよ」
苑子は相沢の方を見てゲラゲラ笑った。
本心ではないがまんざら嘘でもないと私は感じていた。
結婚が何のためのものなのか、正直わからなくなっていることは確かだった。
さほど仕事に未練があるわけでもないが、じっと旦那様の帰りを待つ専業主婦が魅力的だとも到底思えない。
ひょっとすると、もう洋輔には他に好きな女がいるのかもしれないと想像したりもした。
たとえそうだったとしてももうどっちでもいい。
要するにこのストレスは中途半端な境遇からきている。
塀の上をバランスよく歩き続けるのに疲れてきているのだ。
だから壁の向こう側でもこっち側でもどっちでもいいから落ちてしまえば、それはそれですっきりするのではと考え始めていた。
パラダイスはどっちなのか、それはやはり結果論でしかないのだと寂しく達観していた。
取り止めのない話題で一時間程過ぎた頃、苑子のバッグの中から携帯電話のコールが鳴り始めた。
「何かしら? オフィスはまだ仕事してたの?」
仕事先から直行してきたという苑子は相沢に確認をとった。
相沢は首を横に倒し、「さあね?」と呟やきバッグを苑子に手渡した。
「ちょっとごめん」席を立ち、レストルームに向かった。
程無く戻った苑子は憂鬱そうに「またトラブル、何で最近多いのかしら」とはき出すように嘆いた。
「暑いからね」
相沢は苦笑いした。
「佳織、ごめん。オフィスに戻るわ。ゆっくりしてって」
「大変ね、社長業は。また戻って来れる?」
「わかんないな。電話入れるよ」
相沢は眼だけで頷いた。
三十分ほど相沢の旅行話の続編で話題は盛り上がった。
腕の傷のことをたずねてみた。
傷を摩りながら危険な取材ばかりこなしたからと相沢は答えた。
身体中傷だらけで勲章みたいなものだと照れ笑いした。
「危険な処ってたとえばどこなんですか?」
「主に紛争地域、カンボジアとかアフリカとかバルカン半島とか、世界中はまだいろいろもめてるんですよ。日本はボケちゃうぐらいに平和ですけどね」
「どうしてそんな処ばっかり?」
「うーむ、みんながいやがるからしぶしぶですかね。運悪く一人身ですし結構フィーもいいものでね」
「恐くないんですか?」
「最初は恐かったですよ。でももう馴れました。なんだかだんだん使命感も沸きましたし、自分がこの真実を世界に伝えなきゃってね。しかし悲惨な状況をたくさん見せつけられました。多くの「死」という厳しい現実にも立会いましたし、人間の業というか、なぜ殺し合わなければならないのか、悲しい現実ですよね」
相沢は状景を思い出したのか、だんだん暗くなっていくのが分かった。
「でも勉強させられた事もたくさんありましたよ。平和な場所にいたんじゃ本当のことは見えないということ。マスコミで流される映像からだけでは本当の痛みは伝わってはこない」
人が人として最も美しく輝くのは、生きるというその一点のみに全てが注がれている瞬間なのだと相沢は力説した。
「結局人を醜くしているのは心なんですね。だからそんなさまざまなしがらみや欲望から解き放たれたとき、人は真の大切なもの、生きている意味を見出して何というか神聖な表情を浮かべるんですよ。まるでこの世に生を受けた瞬間の無垢で汚れをしらない新生児のようにね」
アップテンポのサウンドが大切な言葉の重みを半減させようとしている。
もう少し聞きたいという気持ちを敢えて押え込み、次の話題の引き取り先を模索した。
この話は場所を変えてじっくり聞かねばと思った。
「でも今度の取材は楽しかったですよ。ああ、マリアンヌがうらやましい。同じ地球を旅するなら美しいものを追い求める旅がしてみたい。つくづくそう思いました」
相沢も感づいたのか話題をマリアンヌに戻した。
「願わくは花の下にて春死なん、の心境ですよ」
悦に入るようにたばこをふかし、西行の有名な一句を口ずさんだ。
苑子からは結局戻れないという連絡が入った。
「さてと戻って来れないんじゃ仕方ない。店でも換えますか。時間まだ大丈夫ですか」
さり気なく私は腕時計に眼をやった。
「そうですね。もう少しなら、なにせ箱入り娘なもので。出てくる時も母に先手を打たれてるんですよ」
時間は全然気にならなかったが、一応決まり文句としてのフレーズを返した。
「それはいけない。じゃあ急ぎましょう。いき付けの店があるんです、少し歩いた処に。小料理屋ですけどね。唯一の栄養補給場所なんですよ」
外は蒸しかえるような熱気に包まれていた。
夜はこれからという六本木の街並みから降りてくる熱気だった。
二人はだらだらと続く坂道を他愛もない話しをしながら歩いた。
外苑東通りを右に折れ鳥居坂を麻布十番の方に向かった。
「同級生なんですよね、どちらのご出身なんですか?考えてみれば聞いたことがないんですよ、苑子君からは」
左右にうっそうと広がる緑の中を覗き込むように尋ねた。
「ここなんですけど、中学からずっと」
左手の親指だけを立てて肩の横で後ろに反らし、通り過ぎようとする裏門の横っつらをツンツンと突つき、楽しい思い出なんか何も無かったわとでも言いたげな投げやりな言い回しで返事をした。
「そうでしたか。なるほど」
相沢は覗き込むのを止め、名声高い女子高の門を振り返りながら、妙に感心したようにつぶやいた。
「嘘ですよ」慌てて否定し、くすっと笑った。
「そんなお嬢様に見えます? 私・・・」
「もちろんですよ、正真正銘の・・・」
相沢も声を出して笑った。そして「もう少しです。我慢して歩いてくださいね、お嬢様」と付け加えた。
一ノ橋の交差点の手前の路地を少し入った処にその小料理屋はあった。
ビルの一階の軒先に色あせた紺色ののれんが架けられ、端にくすんだ白い墨文字で「高千穂」と記されている。
「ちょっと狭いんですけど、座れるかな?」
暖簾をかき分けガラス戸を横に滑らせた。
「いらっしゃい。あら、久しぶり。元気にしてたの?」
カウンターの中から白い割烹着姿の女性がちょっと大袈裟に声をあげた。そして私の方に視線を移すと「いらっしゃい」と愛想良く続けた。
店内は十人ほどが座れるカウンターだけのこじんまりとした造りだった。
それでも充分に奥行きはあり天井も高い。
少し強めではあるが今の二人には適温ともいえるクーラーの淀みが、この手の小料理屋が求める家庭的な暖かみを消しさらない程度にじんわりと店内に漂っている。
熱気あふれる街並をちょっと長い距離歩いてきた二人にとっては、それはオアシスの木陰のそよ風に思えた。