「幸せ感」って何? 6
夫婦の関係が最終段階を向かえたとき、「子はカスガイ」などというお宝のようなご託はまったく効力を失っている。
もう流れのままに従うしかない。
むしろこれでそれぞれがスッキリして再スタートできるのなら、それも選択肢のひとつなのだとも考えた。
就職先も内定していた大学四年の秋、母に離婚を勧めた。
母は返事をしなかった。
弟は高校卒業と同時にアメリカへ留学することになっている。
〈みんながこの現実から逃げ出せばいい。もう誰も引き留めたりはしない。私自身もこれで自由になれる〉
この苦痛から私は解放されたかった。
「雅彦には私から話すわ。反対はしないはずよ」
投げやりに話しかけた。
母はそれでも黙って聞いていた。
「私たち家族はもう繋がっている意味がなくなったのよ。そう思ってるんでしょう?」
母と娘という女同士の飾り言葉のないやり取りが続いた。
「離婚するなんてね、そう簡単なものじゃないのよ」
「簡単よ、判を押せばいいだけ。夫婦なんてそれだけの関係なんだから」
「簡単なことじゃない。あなたたちのこともあるし・・・」
「あのね、私たちのせいにしないでね。私たちはもうどうでもいいんだから。あとは母さんが決めればいいだけなの。父さんは押すわよ、きっと」
下瞼に涙が溢れてくるのが分かった。
母は返事をしないでうつむいていた。
〈何でこんなに責めているのだろう?〉
そんな予定で切り出すつもりはなかった自分自身が結局息苦しくなり後悔した。
リビングを離れ部屋に戻った。
倒れ込むようにベッドにうつ伏せになると止めど無く涙が溢れ出た。
大切なものが壊れていくのだと思った。
もう止める事はできないのだろう。
〈なるようになればいい!〉
心の中で何度も叫んだ。
結局、両親は離婚することはなかった。しかし、運命だったのだろうか、三年後の秋、急性の心不全で父はあっけなく他界した。
海外の仕事も一段落し、自宅で一週間程休養をとっていたそんな穏やかな朝のことであった。
母の隣のベッドで永遠の眠りについた。
結局、父は勝手に生きそして勝手に死んだのだと思った。
泣き崩れる母を尻目に私は涙の一粒も流れなかった。
葬儀は盛大に行われたが弟はアメリカから帰国しなかった。
母は悲しみに明け暮れていた。
来る日も来る日もふさぎ込んでいた。
私にはそんな母の深い悲しみを理解することができなかった。
慰めの言葉もあえて探さなかった。
私は母をそのまま放置し続けた。
浴槽に深く身を沈め、ぼんやり眼を閉じていると、そんな昔の切ない思い出が脳裏をかすめた。
湯船の中で存在感のない自分が中途半端に浮かんでいる。
そこがまるで母親のお腹の中のモラトリアムスペースのような錯覚さえ覚えた。
何もしなくていい。
何からも拘束されない。
誰からも傷つけられないし誰も傷つけることはない。
あの悩み多き中学時代から、いやオーバーにいえばこの世に生まれた瞬間から精神的には何も成長していないのかもしれないと思った。
自分の大切なものがまだ見出せない。
何年も彷徨い続け、この先もそれを捜し求めて死ぬまで放浪を続けるのだろうか。
探す必要などそもそもあるのだろうかと居直ってもみた。
「人生は本当の自分探しの旅」とかっこいい台詞を言い聞かせても、精神安定剤の十分の一程度にしか今の私には効果が表れなかった。
「おフロなの?」
外から母の声がする。
「どうしたの?随分早起きじゃない。昨日も遅かったんでしょう?」
「疲れすぎてるのかしら。眠りが浅いみたいなのよ」
気怠そうに返事しながら少しあけられた扉超しに視線を合わせると、母もまた気怠そうに微笑みを返した。
「今日何か予定あるの?」
「夕方からね。苑子と・・・」
「そう? あら、珍しいわね。お元気なのかしら?だったら午後つき合ってくれない?もうすぐ命日だしね」
一瞬間を置いたが「そうね」と短く答えた。
バスルーブを羽織りキッチンを横切ると母は朝食の用意をしていた。
コトコトと何かを刻む音がキッチン全体に響いていた。
「もう少し寝てなさいよ」
母の背中に語りかけた。
「たまには一緒に食べましょうよ。めったに無いことなんだから」
振り返らず答えた母の返事に苦笑いした。
髪を拭きながら椅子に腰掛けた。
二人はたわいもない話をしながら朝食をとった。
久しぶりの朝食、いやこんな時間を持ったこと自体が久しぶりだった。
「ちゃんと食べているの?顔色よくないわよ」
「死なない程度にはね」
箸の先でスクランブルエッグの端っこをグルグルと弄んだ。
「困った子ね」
落胆しながら首を横に振り、はい、とドレッシングを手渡した。
昼下がり、初秋の光が柔らかく音もたてずに降り注いでいる。
静かな午後だった。
二人は山の手線駒込から銀杏並木の本郷通りを菩提寺に向かってゆっくり歩いた。
久しぶりに太陽の下で母親をみるような気がした。
〈自分以上に母も疲れているのだろうな〉
母のうなじを見つめながらそう思った。
ちょっと背が縮んでしまったようなそんな後ろ姿が寂しく胸を締め付けた。
「母さん」
立ち止まり母は振り返った。
「何?」
「事務所の方はどうなの? 相変わらず忙しそうね」
「注文もたくさん来てるし、ありがたいことよね」
久しぶりだったのか、私からの問いかけに、はにかみながらも微笑みを浮かべ、またゆっくり歩き出した。
「身体壊したら元もこもないよ。少し調整したほうがいいんじゃない?」
「そうね、でも期待されてるからね。期待されている内が花ってものよ。なかなかのものでしょう、母さんの実力も」
「それは認めるけど、でも最近似てきてるわよ父さんに。気をつけないと」
「父さんに?そうね、仕事ばっかりだったわね、父さんも」
後姿を眼で追いながら、私は父親の事を想い浮かべていた。
きっと同じように母も想い出しているのだろう。
仕事に熱中し、その中に生きがいを見出している人間を私は不思議な生き物のように思えた。
大切なものがそんな中に存在しているのだろうか。
仕事は生活するための手段のはずだ。
大切なものは他にある。
長い間、なぜか私は、敢えて押し付けるようにそんな考えに固執していた。
通り沿いにある花屋で少しだけ花を買いお寺の門をくぐった。
祖父や祖母も一緒に眠る我が家の墓はたくさんの菊の花で飾られていた。
「きれいになってるじゃない」
水を汲んできた母に問いかけた。
「一昨日寄ったのよ。近くまで仕事で来たから」
「そうだったの」
紺色のジャケットを脱ぎ木の枝にかけた。
腕時計を外しジャケットのポケットにしまうと、雑巾をバケツに浸した。
<こうやって最近は父さんに会いに来てるんだ>
母親の寂しさを少しだけ推し量った。
「最近父さんの夢よく見るのよ。いろいろ私に話しかけてくるの」
「覚えてるの?」
「はっきりと覚えてる。気味悪いぐらいにね」
「何と言ってるの、その父さんは」
「謝ってる。いろんなことを一つ一つ説明しながら謝ってる」
花の切口を揃え花瓶にさしこむと、垂れている水滴に気をやりながらゆっくり手渡した。
「もうわかったわと言っても、ちゃんと聞いてくれって。それからとうとうと話を続けるのよ。不思議よねぇ、成仏できてないのかしら。なんとなく気になってね。だから最近ここに来てるの」
「そうだったの。人騒がせね、相変わらず」
墓石に刻まれた戒名という文字を雑巾でなぞり、当たり障りなく返事をした。
「この間、タンスや父さんの机を少しづつ整理をしてたのよ。もう捨てちゃおうと思ってね。ほら雅彦が帰って来るまでは、そのままにしておこうと考えてたんだけど、もう雅彦もそんなつもりはないみたいだし。きりないからね」
「そうなんだ、だから最近ゴミ袋がいつもいっぱいになってたのね」
「スーツなんか、ひょっとすると雅彦が着るかもと思ってとっておいたんだけどね」
「無理よそれは、若者向きのデザインじゃないもの」
「そうかしら、流行というのは回転するものなのよ」
「そうね、これは失礼しました。専門家だったわね、そちらの」
茶化すように相づちを打った。
「そうよ、それに素材も良いモノなのよ。父さんはおしゃれだったからね」
「ハイハイ。それでどうしたの?」
「全部クリーニングに出したつもりでいたのに、一着だけ出してないスーツが残っていたの。ポケットの中にハンカチが入ってた。匂いが残っていたわ…」
「え?」
「父さんの匂いがしたのよ」
「匂い?」
聞き返した。
一瞬背景の色が消え去ったように感じた。
まるで壊れたブラウン管のように彩りが消え失せた。
手の甲で目をさすりながら、ハンカチで額の汗を拭き取った。
彩りは戻らなかった。
それは、ある意味匂いという感性に集中させるため起こった現象だったのかもしれない。
モノクロームの陰りに包まれながら、母はバケツにもう一つの花瓶を入れ丁寧に洗い始めた。
墓石の周りをほうきで掃き、溜まった落ち葉を袋の中に押し込んだ。
私はその父の匂いというモノの存在を想い起こしていた。
もちろん記憶の中には何も残ってはいなかった。
ただ少しだけ、幼い頃の遊園地での背負われていた背中の温もりだけは記憶の片隅に張り付いていた。
落ち葉が舞う公園の帰り道、弟は母に抱っこされ、疲れ果てた私はいつも父の背中に張り付いていたのだから。
あの頃は本当に毎日が楽しかった。
おぼろげな記憶とはいえ、休日に家族で散歩することが待ち遠しくて仕方なかった。
なぜなら、たくさんの写真も残っていたし、みんなの笑顔が弾け出すほどアルバムにぎっしり詰まっていた。
そんなアルバムはどこにしまい込んでしまったのだろう。
ふと、行方知れずが気に掛かった。
匂いに対する感覚は、女性特有の感性なのだろうか。
洋輔を意識するとき、不思議と洋輔の愛用しているコロンの香芳が脳裏をかすめる。
その香芳が洋輔を連想させるのかもしれない。
空気が乾燥した街角で、擦れ違いざまに漂うその香芳にふと振り返ってしまうことさえもあった。
そんな時、ふいに自分は独りぼっちなのだと気づかされ立ちすくんでしまう。そして匂いは楽しかった頃の思い出をフラッシュバックさせる。しかしその匂いは私にとっては、擦れ違い生活を送る二人の現実を浮き彫りにするだけであり、将来に不安を抱かせる材料でしかなかった。
心だけは繋がっている、きっといるはずだと、ただそれだけの幸福感に私は必死にしがみついていた。
思い起こせば、あの頃の母もそうだったのかもしれない。
<この母にしてこの娘ありか>
花を繕う母の横顔を覗き込んだ。
少し瞳が潤んでいるように見えた。
父が亡くなったあの時、母が包まれたその見えない悲しみを、傍らにいた娘として放置していた自分がいた。
悲しみを背負った人は、その悲しみの根源を見ないようにするという。
忘れるということで苦しみから逃れようとする。しかし母はその悲しみをあえて許容していたのだと初めて気づいた。
墓参りを終え駅に向かって並木道を歩き出したころ、やっと心の中に色彩が戻ってきた。
青く輝く銀杏の葉が昼下がりの風にゆらゆらと揺れていた。
あと数カ月もすると黄金色の景色に変わるのだろうなと心の中に秋の匂いを感じた。
駅前の喫茶店でレアチーズケーキとコーヒーを注文した。
二人は気遣うようにたわいもない話題に花を咲かせ、雅彦の将来に思いをはせながら、久しぶりの時間をゆっくりと流していった。
時計に眼をやると、夕方の五時を指している。
こんな時間か、私は急いでもう一度シャワーを浴びた。
流れ作業のように部屋に戻りドレッサーの前で念入りに化粧をした。
ショーケースの中からラベンダー色の麻のスカートとオフホワイトのオープンシャツを選んだ。
ミラーの中の自分が少しづつ柔らかな表情になっていくのが分かった。
不思議ではあったが、相沢に会える、そのことが間違いなく私を元気にさせていた。
パールのネックレスを巻きつけ、チャコールグレーのジャケットに袖を通し、バッグを手に持ち行ってきますとキッチンに向かって声をかけた。
勢いよく玄関を飛び出すと遅くならないようにと母の声が背中を追いかけてくる。
ちらっと振り返り、にこっと微笑んで今度はゆっくりエレベーターホールまで歩いた。
もう一度玄関の方を振り返ると、母はまだ見送っている。
ふと思い付いたような仕種で玄関まで引き返した。
「どうしたの? 忘れ物?」
「ううん、違う。ちょっと思い出したことがあって」
「なあに?」
少し首を傾けた。
「ごめんね。離婚しろ、なんて言って。あの時」
母はすぐには反応しなかった。
「どうしたの、今ごろ。そんなこと」
「気になってたの・・・。じゃあ、行くから」
「遅くなるようだったら電話入れてよ」
「分かった」
もう一度ニコッと微笑み急ぎ足で歩き出した。
「気にしてないわよ」
背中に声が届いた。
タイミング良くエレベーターが十階に到着している。
さりげなく手を振り小走りでエレベーターに乗り込んだ。