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「幸せ感」って何?  4

 一つはローマからフィレンツェに向かう途中にある小さな古都アッシジの風景とその歴史、ここではセント・フランチェスコの生涯を描いたジョットのフレスコ画があるサンフランチェスコ大寺院を紹介している。

 二つめはパリ、モンパルナスに於ける七〇年代頃の古きよき栄光の時代の残り香、この街に住み着いた芸術家たち、たとえばピカソ、ジャコブ、モジリアニ、レジェ、シャガール、コクトーなどの生活の様子や痕跡が綴られていた。そして三つめはロンドンのロイヤル・ボダニック・ガーデンズ・キュー(英国王立キュー植物園)内にある「マリアンヌ・ノース・ギャラリー」について詳細に記されていた。

 ページをめくりながら彼に目をやると、やはり相当疲れているのだろう、腕を組み今にも寝入ってしまいそうな風情で眼を閉じていた。

 ザッと眼を通した私は、私なりの勘でこのままいけると判断できていた。

 原稿と資料をひとつに重ね、用意したストリップボックスにしまい込むと、揺り起こすように大きな声で呼びかけた。

「お疲れさま。今夜もう一度ゆっくり読ませていただきます。でもほんとに三箇所とも日本ではあまり知られてないですよね。モンパルナスは少し有名かな。何処が一番お気に入りでした?」

「そうですね、マリアンヌ・ノース・ギャラリーですね。実は正直に言いますと他の二つは無理やり作ったんです。後で付け足した感じですかね。予定をオーバーして一週間もロンドンに滞在していたものですから、ローマとパリは三日で仕上げました。おっとこれはいかん。こんなに遅れておいて、どうもどうもすいません」

不意を衝かれ余計な事を喋ってしまったという顔をして、慌ててポケットからタバコとライターを取り出し、「いいですか?」とたずねた。

「ええ、どうぞ」

 ちらっとタバコに眼をやりながら灰皿を手元に差し出した。

 一本引き抜き、フィルター部分を軽く歯で咥え、ジッポのライターをカチッといわせた。

 一回大きく吸い込むと、少し首を横に曲げゆっくり吐き出し、私の方に煙がいかないように気を配った。

「そんなに良かったんですか?」

「ええ、一週間毎日通いました。行かれたことがありますか? マリアンヌ・ノース・ギャラリー」

「いいえ、ないですね。ロンドンは二回ほどあるんですが、その植物園には行ってないです」

「そうですか。私も初めてだったんですけど、すばらしいですよ、何て表現すればいいのかなってぐらいに」

「あれ?文章にはちゃんと表現してもらえたんですよね?」

 ちょっとちゃかすように目を細めた。

 相沢はくすっと笑って話を続けた。

「もちろんですよ。話をするのがにがてなだけですから。それにしてもすばらしかったなあ。毎日観ていても飽きませんでしたよ。どんどん興味が沸いてきたんです。何と言うか、そもそも私は絵でもなんでもそうなんですけど、その人のヒストリーみたいなものに興味を惹かれるんです。マリアンヌ・ノースは何故世界中を旅したのか。何を求めていたのか。ひとつひとつの絵の前に立ってじっとそれらを観ていると、彼女の抱いていたであろう人生観や世界観に吸い込まれて行く。彼女の瞳を通した世界がおぼろ気ながら見えてくる。百年も前のことですよ、大変だったと思うんですよ。だって現代のようにジェット機なんか飛んでるわけじゃないですからね」

 まるでギャラリーに魂が呼び戻されてしまったかのように、どんどん興奮ぎみに語り続けた。

「どういう人なんですか、マリアンヌという人は?」

 ストリップボックスから再度ロンドンの資料だけを取りだし、ペラペラと捲りながら尋ねた。

「マリアンヌは一八三〇年生まれ、もう故人なんですけどね。ノース家は名門なんですよ、イギリスの。父親は国会議員で結構裕福な家に育った。彼女は三七歳のときに油絵を習い、それからその世界にとり憑かれていったようです。そして、四一歳から世界中の植物を描くという旅が始まった。約十四年間です。日本にも来てるんですよ、一八七五年に。ほら、そこに富士山の絵があるでしょう」

 身を乗りだし、めくっていた資料に腕を延ばしながら指し示した。

 真っ黒く日焼けした腕に、青くたくましい血管が幾筋も浮きでている。

 その腕のさきには繊細そうな細く長い指があった。そしてよく見渡すといたるところに傷痕があり、なぜかそのことが気にかかった。

 視線を絵に戻し呟いた。

「どれも素敵な絵ですね。私、表現力が乏しくてなんとも情けないんですけど、ひとつひとつがまるで生きているようですよね」

「そうでしょう。私もそう思います。耳を澄ませば植物の吐息が聞こえてくる、そんな感じがします」

 タバコを丁寧にもみ消し、さてとじっくり説明、という態勢を整えた。

「マリアンヌ・ノース・ギャラリーには八百三十二枚の植物画がびっしり並んでいるんです。どれも全て色彩豊かで、地球上にはこんなにたくさんの植物が生息しているのかと思うと感動します。しかもマリアンヌはそれらを全て彼女の眼で見てきた。その中には絶滅してしまった植物もあるらしいんです」

「ゆっくり時間をかけて見させていただきます。でも相沢さんはよっぽどこのギャラリーに魅せられてしまったようですね」

 にこやかに微笑みながら,それでも少しだけ言葉を遮るように話し続けた。

「そうなんですよ。また近いうちに行ってみたいですね。しかし、マリアンヌに会ってみたかったなぁ。直接話を聞いてみたかった」

 まるで夢みる少年のように瞳を輝かせ勢いは止まらなかった。

 さりげなく腕時計に眼をやった。

「あっ、もうこんな時間。直行してもらったのでお疲れでしょう。分からない事がありましたら、私の方からお電話致します。連絡先はオフィスの方でよろしいですか?」

「そうですね、じゃあこちらにお願いします」

 名刺の裏に携帯電話のナンバーを書込み手渡した。

 名刺にはライター相沢 亮と記されアドレスはオフィス ジェイと同じになっていた。

「リョウさんでいいんですか?」

「ええ、リョウと読みます。そう言えばこの間は名刺を切らしていたんでしたね。失礼しました」

 深いシワが幾重にもかさなる目尻を優しく細め、少しだけ長い時間私を見つめた。

 その後、何度となくこまめに電話を入れた。

 語句や状況の確認のためではあったが、別にそんな必要などないことぐらいじゅうじゅう承知していた。

 何度も伺いましょうかと言う彼の言葉に、それではよろしくと言ってしまいそうな自分の唇を必死の思いで塞いだ。

 それだけはさすがに気が引けた。

 なぜならあの翌日には編集長からオーケーを貰いゲラを構成に回し終えていたのだから。

 相沢と話しているとなぜかハイテンションになる自分がいた。

 相沢の事を想うと熱い血液が身体中を勢い良く駆け巡る気がした。しかし、そんな自分を冷ややかに観察するもう一人の自分もいる。

 <あなたは何を求めているの? 愛情? 違うわよね。保護でしょう? 優しく大切に守ってほしいだけなんでしょう?>

 耳元でそう諭しながら冷酷に問い詰め、その的確な図星の指摘に打ちのめされ、結果より一層傷つき、またいつもの暗い部屋に閉じこもってしまう。

 そんな日々が続いた。

 フロイト的に例えると、鉄板のような私の自我は二十年近くもエスを押さえつけ、そのエスは完全に萎縮し抵抗すらしなくなったのだろう。しかし、その学説を自分に当てはめることはできても、それを有益に活用する術を知らなかった。

 苑子の言うようにまさしく埋没してしまっている状態だった。

 一週間が過ぎた。

 レポートと写真は苑子の見立て通りやはり完璧なものだった。

 出版社の意図「玄人受けするアートの旅」というテーマを、十分理解したそんな出来栄えだった。

 もちろん誤字脱字なども一切なかった。

 何度も読み返しながら満足感に浸っていた。

 三つのエッセイは、中でもマリアンヌ・ノース・ギャラリーに対する思い入れが色濃くにじんでいた。 

 私自身も自然にそのギャラリーが気に懸かった。

 昼下がりのオフィスでギャラリーのパンフレットをゆっくりめくりながら、彼女が描いた絵のひとつひとつを食い入るように見つめた。

 確かに全てが不思議な魅力を持つ油絵だった。そして、いつしか私の心も幻想に包まれて落ちていくようだった。

 ふと、気づくと、私は壁いっぱいに飾られた八三二枚もの植物画の前に佇んでいた。

 地球上に存在するさまざまな植物たち。そしてそれを取り囲むたくさんの生き物と自然、フルカラーの世界に包まれたその空間で、私はふと錯覚を覚えた。

 すぐ後ろに相沢が立っているのではないかと、そんな気配がしてならなかった。

 胸は徐々に高鳴っていった。

 顔を会わせないように眼だけを動かしながら、そっと肩ごしに確認した。

 細く繊細そうな指、真っ黒く日焼けした腕が見え青く血管が浮きでている。

 手の側面から手首にかけて深い傷跡がある。

 確信した。

 やっぱりここに来ていたのか。

 相沢も絵を見入っているようだ。

 偶然を装って声をかけてみよう。

 でも失礼にならないだろうか。

 後を追ってきた心が見透かされてしまうかもしれない。

 いや、そもそも顔を覚えてくれているのだろうか。

 胸はより一層高鳴っていた。

 日本から遠く離れたこのギャラリーで、ばったりと出会った確率の低い必然性に心は動揺していた。

 思い悩み、身体を硬直させていた。

 すると突然肩に手が置かれる。

「佳織、佳織」

 名前を呼ぶ声に、ゆっくりゆっくり振り返った。

「何ボーッとしてるのよ」

 隣の同僚が私の肩を突つきながらいつものようにペンシルで電話機を指し示した。

 やむなく頭を振りながら現実の世界に立ち戻った。

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