「幸せ感」って何? 3
ピザを切取りながら、食べなさいとまた眼で指示した。
「苑子はどうなの?」
「私? 全然興味ない」
「どうして?」
「ウソ。はっきり言って自信がないのね、きっと」
「好きな人いないの?」
苑子はナプキンに手を伸ばし少しだけ目をそらしながら時間をつくろった。
「いるわよ、たくさん。いすぎて困るくらい。でもね、一緒にいたいとか住みたいとかは思っても、結婚したいとはなぜか思わないのよ。…やっぱりこれもウソかぁ」
「結婚してくれって言われても?」
「それはそれですごく嬉しいのかもしれない。でもきっとしないと思う。…うーん、またこれもウソかな」
「どっちなのよ?」
「ワカラナイが答え」
最近野菜不足だと付け加えながら、サラダボールを手に持ってイソイソと口に運んだ。
そんな苑子をじっと見つめていた。
視線が合うと話題を戻すべく、また昔話をはじめた。
「佳織はね、良い奥さんになると思うよ」
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく、そうね、聞き上手だし、一緒にいるとほっとする。だから」
溢れ落ちる前髪を左手で押さえながら、プチトマトを二つ続けてほおりこんだ。
カウンターに目をやると、マスターと目があった。
コーヒー飲む?これはサービスと微笑んだ。
店内には緩やかなまったりとした時間と空間が漂っていた。
「美味しかったね。ピザの味、昔と変わってないよ」
そう言いながら助手席の私にちらっと目をやった。
車は新橋にある会社に向かっている。
台風は少しそれたのかもしれない。
風も除々に弱まっていた。
私は久しぶりの幸福感に浸っていた。
「ほんとに美味しかったね、ごちそうさま。今度は私が誘うわ」
苑子は頷きながら、携帯電話でオフィスにコールした。
電話でやり取りをしながら私の方に向けてオーケーのサインを出す。
「連絡が入ってた。もうすぐそっちに着くはずよ。ほんとにごめんなさい、心配させちゃって」
「大丈夫、話したら元気が出てきた。美味しいピザも食べたしね、二日あればなんとかアップできると思うよ」
「彼は筆はたつからね。なんというか情感がある。カメラの腕もなかなかのものよ。すごい感性なの、良いレポートができているはず」
「楽しみね。今度のガイドブックのコンセプトはありきたりのじゃなくて、旅行の通というか玄人受けするものを狙ってるからね。遅れてる分、内容で挽回しなくちゃ」
「大丈夫、折り紙付きよ。間に合いそうになかったらリライト手伝いに行くから」
苑子は優しく微笑んだ。
車は、今度は安全運転を心がけゆっくりと新橋に到着した。
台風は既に通り過ぎてしまったのだろう、街路樹の枝は小刻みに揺れ、強風はすっかり収まっていた。
デスクに戻ると、例の隣のお姉さんが今度はペンシルを待合室の方に向け、二度ほど指し示すと「到着よ、ライターのお・じ・さ・ん」と気怠そうに言った。
振りかえると、一目でそれと分かる風情がタバコを噴かしながらどっかりと座っている。
言葉を捜しながら歩み寄ると、それとなく気づいたのか、タバコをもみ消しスクッと立ち上がった。
着古されたダンガリーシャツにベージュのコットンパンツが、真っ黒に日焼けしている野性的でがっしりした肉体を包んでいた。
「あっ、どうもどうも遅くなって申し訳ありませんでした」
罰が悪そうに深々と頭を下げた。
「いえいえ、間に合ってよかったですよ。この台風でしたから。飛行機欠航になるんじゃないかって心配してました」
結局やさしい言葉になってしまった。
「ご心配かけました。まあ、欠航になるということはないんですけど、パリは晴れてましたから。大阪になるかもしれないとはアナウンスしてましたが。ああ、いや、これはどうも失礼いたしました」
ニコッと笑って膝を引き慌てて蛇足を隠した。
「そう言えばそうですね」
揚げ足取れる立場か、と一瞬ムッとしたが、屈託のないさわやかな笑顔につられるように私も微笑んだ。
「いずれにしろお疲れさまでした。さあ、こちらに」
ボードを確認して空いている会議室に案内した。
相沢は軽く会釈して、重そうなトラベルバッグを引きずるように持ち上げると後に続いた。
会議室に通すと、さっきまで苑子と食事をしていたという他愛も無い話をして、お茶を入れましょうと席を立った。
「コーヒーでいいですか?」
さりげなく振り返った。
「あ、あーどうもどうも。できれば日本茶をお願いします。わがままいいますが」
風でぼさぼさになった髪を手櫛で整えながら、ほのぼのと返事を返した。
微笑みながら会議室を後にした。
給湯室でお茶を入れながら、相沢の人懐っこい柔らかい眼を思い浮かべていた。
不思議な何かがあった。
あの醸し出す雰囲気は、脳裏の奥底にしまい込み忘れ去られた感のある、例えばほのかな郷愁のようなものを想い起こさせた。そして最近使う事のなかった繊細な心の襞に触れられているような、そんなデリケートな感情が僅かではあったが刺激されているのにも気づいた。
まるで高価なブランデーをたしなむように、両手で湯呑を包み込み、少しづつ口に流し込んだ。
「熱かったですか?」
「いや、これが良いんです、日本茶は。とっても美味しいです」
ゆっくり飲み干すと、いたわるように湯呑をテーブルに置いた。
もう一度お茶を注ぎ直した。
すいませんと言って、また同じようにゆっくりと味わいながら飲み干した。
「いやぁ、生き返りました。三カ月近くもろくなモノのんでませんでしたから。アフリカは生水は飲めませんし、ヨーロッパもあんまりね。アルコールだけは別ですけど」
「普通のお茶なんですよ」
クスッと笑いながら答えた。
「そうなんですか。しかし味は、特に美味しいという味覚は結局記憶なんですよね。そのときの状況や体調、気持ちなどが味に大きく影響するんですよ。人間はその環境も含めた味というものを記憶しているんです。キャビアもバケツ一杯食べさせられたんじゃ美味しくないですしね。だからこそこのお茶はとても美味しく感じますよ。ちゃんと日本に帰ってこれたんだなあって実感できるんです」
一言一言噛みしめるように語りかけた。
相沢のその語り口を、不思議なものを見るように静かに聞き入っていた。
「やりがいのある仕事を頂きましてありがとうございました。自分なりにはなかなか興味深いものを探してきたつもりでいるんですが、要望に応えられているのかどうか」
カバンの中からワープロ打ちされた原稿と関係資料を取り出し手渡した。
ゆっくり眼を通し始めた。
原稿と資料は三つにわかれていた。