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「幸せ感」って何?  2

「ごめん、遅くなって」

「うんうん、久しぶりよね。電話じゃ話してるんだけどね。それで身体の具合どうなの?目眩はしなくなった?」

 矢継ぎ早に問診を済ませた苑子は、私の顔を覗き込み三カ月ぶりの定期健診を開始した。

「元気よ、心配しないで」 

 前髪を摘むという乙女ちっくな素振りを繰り返しながら手のひらで眼の下の居座りグマを巧妙にブラインドさせた。

「そう」苑子は頷いて車をスタートさせた。

「何処に行く?」

「何処でも良いよ、あんまりお腹空いてないし、好きな処で」

「まだそんなこといってるの?」

 小さい子供をたしなめるようにキッと横目で睨み付けた。

「そうだ、パティスロールにしよう」

わざと元気よく声を上げると、スピードを緩め左右を気にしながら車を思いっきりユーターンさせた。

 ドアに押し付けられた態勢をやっとの思いで立て直し、慌ててシートベルトを引っ張り出した。

 苑子はそんな私をまた横目で見ながら今度はニヤリと笑った。

 レモンイエローのシルクサテンシャツにオフホワイトのノータックパンツ。

 苑子の相変わらずのハイセンスに、まるでスケベな中年おじさんのように執拗にじろじろと全体をなめまわした。

「パティスロールって麻布の?」

「そう、この間店の前を通ったんだけど、あの辺全然変わってないのよ、学生時代と。お世話になった交番もまだあったわ」

「懐かしいよね。パティスロールか。マスターも変わってないのかな」

「それはわかんない」

 ディスクのスイッチをオンにした。

 誰の影響を受けたのか、ここ数年来彼女のお気に入りになっているビリージョエルのオールドナンバーが流れだした。

 ビリーが奏でるピアノと透き通るような口笛が風音から遮断された車内に特殊な空間を造った。

 車は横風に少し煽られながら溜池を左に折れ、ガラガラの六本木メイン通りをハイスピードで駆け抜けていった。 

 パティスロールは外観も店内も昔のままだった。

 壁の絵、テーブルの配置、そしてマスターの顔、そんな全てが二人を学生時代にタイムスリップさせた。

 二人は座り馴れた窓際のテーブルを自然に選んだ。 

 あの頃と同じように苑子が奥の席、私は手前の椅子を引いた。

 席につくと二人はテーブル越しに顔を見合わせ、昔を懐かしむように穏やかに笑った。

 苑子はバッグからキャメルを取りだし、パールピンクに縁取られた唇の右端にさりげなく押し込み、サイドポケットからマッチを抜きだすと馴れた手つきでスライドさせ、広がる炎を両手で囲み、リンの匂いが少しだけ遠ざかるのを待って煙たそうに眼を細めながらフィルターに近付けた。

 右手の人差し指と中指に挟んだマッチ棒の端を親指の先でピンと弾くと、炎は瞬時に消え青白い余韻がクーラーの風にたなびき、唇から吐き出された一つ目の煙が追いかけるようにそれと融合しながら天井伝いに去っていった。

 灰皿を右手前に差し出した。

「ありがとう」と、その大きな瞳だけで言葉を表現した。

 あの頃と同じようにちらっと見つめ、流れるような自然さでそう表現した。

「相変わらずマッチ使ってるのね」

「そうなのよ、結構くせになってる、このリンの匂い」

「マッチが好きだって言ってたよね。あの頃も」

「そうだったかしら」

「そうそう、マッチは儚いから好きだって」

「えーっ、そんなキザなこと言った?」

 はにかみながら、ストレートロングの前髪を左手で無造作に掻き上げた。

 この手のヘアースタイルの女性の得意とするナルシスト的仕種を、私はいつもある種の尊敬の念を持って見つめている。そしてまさしくぴったりはまった表情で「生意気だったからね、あの頃」とまさしく生意気そうに付け加えた。

「今も変わってないよ」

 苑子はもう一度はにかんでみせた。

「あの頃か・・・」

 唇をすぼめ二つ目の煙を吐き出し、何も変わっていない店内を懐かしむように一つ一つ見渡した。

 現実から逃避すると心地よい虚脱感が二人を包み込んだ。

 この店自慢の二種類のピザとイタリアンサラダを注文した。

「ワイン飲もうかな」

「ダメでしょ。クルマ」

「こんな天気じゃ。お巡りさんもお休みの日よ。付き合い長いから分かるのよ」

「相変わらずごやっかいになってるんだ。でもダメ」

「スピードだけよ。でもハイハイわかりました」

 くすっと笑ってコーラを頼んだ。

「でもなんだかあっという間に年とっちゃったね。卒業してもう八年」

 独り言でも言うように呟きながら、ストローの口をつける部分だけ外袋を残しグラスに突きさし、その先端を意識的に真横に向けた。

「佳織もその癖止めないのね」

 顎の先でストローを指し示しクスッと笑った。

「そもそも病気が多すぎるのよ、精神的な病気が。潔癖症、先端恐怖症。どれをとっても柔だからダメなの。心理学を学んどいてその中に埋没してしまってる。ミイラ取りがミイラね、まるで。もっと鍛えなさい、身も心も。生きて行けないよ、それじゃ!」

 いつものようにマジ顔でたしなめた。

「箱入りお嬢様の唯一の弱点なのよね」

 苑子を真似るように前髪を掻き上げ私はふざけ顔で苦笑いした。

 苑子の実家は世田谷の祖師谷にあり、昔から都内に印刷会社や幾つかの書店を経営していた。

 正真正銘のお嬢様である苑子は、学生時代に買い与えられた南青山のマンションに一人で住んでいた。 父親の節税対策とやらのそのマンションが、今のオフィス兼住まいになっている。

 そのオフィス兼住まいは三つの部屋に分かれている。

 一つはオフィス、一つはリビング兼応接、そしてもう一つが書斎兼寝室となっていた。

 苑子は昔から合理性を重視する性格で、公私を分けたいなどと言う世俗的思考は持ち合わせていなかった。

 アルバイトの女子大生二人と専属のライター二人、そして彼女を入れた五人のスタッフで会社をこなしていた。

 このマンションもそうであるが、父親のコネクションをフルに活用し営業を引き受け、順調な経営をこなしていた。

 スタート当初、そんな仕事ぶりは親の七光りの会社ごっこだと蔭口を叩かれていたが、最近ではその手腕も認められ、定期的なオファーも来るようになっていた。

 そんな境遇や世間の視線を、苑子は十分過ぎるほど理解していた。

 ビジネス上の苑子は、そこまでしなくてもと言いたくなるぐらいの低姿勢で、決して奢ることはなかった。

 むしろ、天から与えられたその境遇をベースに、さらなる新しい何かをクリエイトすることに必死になっていた。

 そんなひたむきさが彼女をいつも輝かせている。

 時々苑子は男だったらよかったのにと考えることがあった。

 そのことを問いかけると、「どっちでも一緒。むしろ女であることで得してるのかも。女として見つめられれば女の顔になるし、必要なときには男にもなるわ。でも基本的には、女よ」と、女よ、の前に意識的にアクセントを付け、涼しい瞳を輝かせながらにこっと笑ってみせた。

 私は女友達という感覚で苑子をみたことはなかった。

 唯一打ち解けて話ができる彼女に、時には頼りがいのある異性としての応えを求めたりもした。しかし一方で、そんなレズっぽい気持ちが滑稽に思えたこともある。

 事実、当人達は何とも思ってないのだが、端からみるとどうもそう写るらしい。そしてそんな廻りの色眼鏡に押されながら、時折倒錯してしまう自分が可笑しかった。

 ヤバいんじゃないかなと意図的に会わないようにしたこともあった。

「ところで洋輔とはどうしてるの?」

 思い出したように問いかける。

「洋輔??」

 突然のたわいもない質問に少し戸惑い、それなりの返答を探すべく目が泳いでしまった。

 なぜなら、ああしている、こうしていると説明できるほどの面影が脳裏に残っていなかった。

 ああだった、こうだったという昔のことは少しは残っているのだが。

 ストローでカップの中をかき混ぜながら、心の戸棚の奥にしまってある洋輔のファイルをヨイショと取り出した。

 ペラペラめくると、走っている洋輔の背中が映写機のように映し出される。

 洋輔は相変わらず走っていた。

 何を急いでるのだろう。

 何が忙しいのだろう。

 何処に向かっているのだろう。

 たまには立ち止まって後ろを見てみたら?

 と、その背中しか掲載されていないファイルに向かって話しかけた。

 しかし、私を見てよ、とだけはなぜか言えなかった。

「どうしてるのかしらねぇ」

 ボソッと消え入るように返事をした。

「何よそれ、別れちゃったの?」

「別れてないよ、たまに電話ある。会いたい時だけ呼び出されるだけだけどね。でもこんなのつき合ってるって言えないわね。ああ、昔はこうじゃなかったんだけどな」

「商社でしょう? 仕方ないよ。超ハードなんだよ、あの手の会社は」

「分かってる。海外出張ばかりだからね。でも会わないことに慣れてきている自分がなんだかとっても危険な気がしてね。でもまあ仕方ないかな」

「長すぎるんだよ、あなたたち。早く結婚しちゃいな、どこで待ってても一緒なんだから」

 苑子は時々そんな男っぽい口調で話すことがあった。

 食事のこともそうだが、特に私がぐずぐずしたり、煮え切らない返事をしたりすると、きまってイライラしたそんな口調になった。


「親からは即刻と言われてる。向こうの両親にも一応気に入られてはいるみたいだしね」

「だったら何も問題ないじゃない」

「でもね、そんな話をする時間さえもないのよ、彼には。切り出さない私にも責任はあるんだけど」

「なんで切り出さないの?」

「うーん、分からない。‥‥そうだぁ、幸せになる自信がないのかな、強いてあげれば。なんかさ、イメージ涌かないのよね」

「だったら止めればいいじゃない」

 冷たく言い放ち、誘い水をかけるように言葉を繋げた。

「そう簡単に言わないでよ。母はもうその気になってる。もう止められないのよ」

「変なの、誰が結婚するの?いったい」

呆れ顔で見つめ、そして視線をテーブルに落とし灰皿のたばこをもみ消すと、諦め気味にピザを頬張った。

繋げる言葉を失った。

ストローの外紙を外し、コーラを一口含んだ。

「あなたも食べなさいよ」

 そう言って視線でピザを指し示した。

 一切れをフォークで二つに切り、食べたくなさそうに押し込んだ。

「人の幸福感って千差万別なんだし、結婚にそれを求めようとは思わないんだけど、佳織は昔から三十歳までには結婚したいって言ってたじゃない。もう過ぎちゃったけどね。良妻賢母が夢だって言ってたよね。でも、結婚願望だけが先走って、恋愛感情は後回しなんて、それじゃ幸せなんてつかめないよ」

「良妻賢母は廻りがそう言うからやけになって言ってただけよ。でも分かってる。今はそんな願望もなくなっちゃって困ってるのよ。だから、どうも切り出すのがおっくうになってしまったみたいね」

「少し冷却期間を置くべきね」

残りのコーラを一気に飲み干した。

「そうね、ほっといてもそうなってるんだけどね。それにもっと良い男が現れるかもしれないしね」

他人事のように声を出して笑うと、苑子も呆れ顔で笑った。


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