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「幸せ感」って何?  1

 嵐が吹き荒れる週末の夕刻だった。

 大型台風がまるでヘッドピンを外したボーリングの球のように、無防備なほど半開きに空いた東京湾の喉元をほんの少しだけかすめ、ゆらりゆらりと、蛇行しながら通り過ぎようとしていた。

 慢性的な寝不足がたたったのか、真っ昼間だというのに両眼はほとんど半開き状態、上瞼と下瞼が完全密封され、さほど感動するわけでもないショートドリームシアターの開演は間近に迫っていた。

 上映開始のブザーが鳴り響くと、最低限の常識だけは持ち合わせているもう一人の自分が、それは何度も観たよ、もうちょっとはマシな発展性のある感動的なストーリーに仕立て上げてもらえませんか、と映写室の方を振り返って懇願し始めた。

 先週、無理やり観させられたあの三流映画と同じ筋だったら観たくない。

 ほんとに酷かったのだ。

 お陰で週末は鬱状態から立ち直れなかったほどに。

 いかん、眠らなんぞー。

 ユメとウツツの境目をまったりと漂いながら、それでもその危険を察知し、現実の自分が少しだけウツツの世界にスタンスを引き寄せた。

「今ちょっと手が離せないんだ」

 ユメの画面からいきなり主演男優らしき声がする。

 腐れ縁であるアイツの相変わらずの冷酷なコメントが、耳の入り口で脳への侵入を拒絶されクルクルと渦巻きだした。

 そうか、この境目の地点まで、ツキのなさが侵食してきていたのか。

 今更ながらしっかりとがっかりした。

 頭を揺すり、上映を中止させ、焦点のさだまらない視線で荒れ狂う窓の外を眺めた。

 あの嵐の渦巻きの中にある不思議な無風地帯に、すっぽり包まれてみたいという子供じみた願望が、ストレスに満ち溢れた心の奥底に存在する空洞という唯一の隠れ家で、ふつふつと醸造されてきた。

 満たされない魂には、ついに破滅志向までもが芽生え出してしまったのだろう、その破滅的な刺激を執拗に欲しだす得体のしれない病魔に冒されていた。しかし、車を飛ばし横須賀の辺りまで見物に行ってみる勇気を、即行動に移せるほど子供になりきれない正常な判断力は、睡魔と闘いながらも、映写室に頼み込み、せめてそんな異空間なユメでも観させてもらえませんかとばかり、今一度両手を枕に、完全にユメ支度の体制に入ろうとしていた。

 私はトラベル雑誌社で編集の仕事に携わっている。

 いつからだったのかはとうに忘れてしまった。

 大学を出て、ヤル気も起きずダラダラしていると、知らない間にここに嵌め込まれていた。

 きっと父が既に根回ししていたのだろう。

 無気力な私は、ハイハイとその指示に従った。

 ただ、それだけのきっかけでココにいた。

 オフィス内は、十月に発売を予定している冬のトラベルガイドの最終追い込みで異様なほどにざわついていた。

 ダラダラしてはいたが私は相当焦っていた。

 任されているヨーロッパ編だけが大幅に遅れているのだ。

 たまにはメガネ屋の店頭に並ぶメガネクリーンとやらで、ちゃんと洗ってきてくれよとおせっかいの一つも言いたくなるほど、ぬるぬるに曇った金縁の丸眼鏡を右手の中指でせわしなく押し上げながら、おい、まだかよ、このタコ!と口癖のように怒鳴る編集長の脂ぎった丸っぽい童顔が、べっとりと脳裏にへばりついて離れなかった。

 ストレス発散の唯一の手段である大きなうなり声が、あちこちで頻繁に小爆発している。しかし誰も気など留めはしない。

 そもそもこの手の職場は、あまり他人事などに干渉しないし興味も持たないしそんな暇もない。

 それぞれの感情は野放し状態であり、一定の方向性と締め切りさえ踏み外さなければ、いわゆる社会常識的礼儀や秩序などは必要としないのだ。

 言い過ぎかもしれないが売れる雑誌ができればそれがベストなのだ。

 ただ少しだけのプライドさえ認めあえれば、全てのモラールは排除されている。

 そんな環境が、私の、一日の大半を費やす悲しい戦場だった。

 いつもの癖で、コンパクトミラーを手にとり疲れ果てた両眼を映し、そして今度はミラー越しにそろりと周囲を見渡した。

 これじゃ身も心もすさぶはずだと半ば諦め状態で納得し、もう一度顔全体を映し出し瞳の奥をのぞき込みながら、壊れていく心と化粧気のない不健康な顔色を、まるで他人事のように冷静に観察した。

 ひと寝入りする前にやっておかねばならないことを思い出し、雑然と散らばったデスク上のレポートを、えんぴつの端で弾くように払いのけ、ころがっていたナマコ色のコードレスフォンを手にとり、その腹部に押し馴れたナンバーを荒っぽく打ち込んだ。

 程なく、はいオフィス ジェイ、と気だるい返事が返ってくる。

 すぐ苑子そのこの声だと分かった。

「??、どうしたの、直接出るなんてめずらしいじゃない。社長さんの手も借りたいぐらい忙しいって訳なのかしら?」

 イライラ気分を正確に伝えるべく、敢えて声を低めに設定し、皮肉たっぷりに挨拶代わりのファーストメッセージを呟いた。

「これはこれはクライアント様、誠に申し訳ございません。そんなにピリピリなさらないで下さい」

 苑子は、得意のお茶ら気で対抗する。

「佳織、ほんとにごめん。大幅に遅れちゃってるよね、締切。今朝にはパリから帰って来るはずなんだけどなぁ。この天気だと飛行機着陸できてないのかも。連絡入ったらそっちに直行させるからさ、ごめん」

「そうしていただけますでしょうか・・・」

 余韻に氷のような冷たい響きをこれでもかとトッピングさせた。

「編集長、角出し状態?」

「もちろん、このタコ野郎ってね。罰として今廊下にバケツ持って立たされてるよ」

「ウーン、眼に浮かぶ。名は体を表す。さすが角田編集長」

 あまりの極楽トンボさに、くるくると回していたえんぴつがバランスを崩し指先から滑り落ちた。

 えんぴつは膝の上でワンバウンドすると、買ったばかりの白いスカートに少しだけ悪戯サインを施し、デスクの下に逃げこむように転がり落ちた。

 手際良く、いや足際良くと言うべきか、逃がさんぞ、とばかりにヒールのかかとで行く手を塞ぎ、じわじわ椅子の下まで連行し、観念したえんぴつ野郎を拾い上げようと手を伸ばしたのだが、不覚にもおでこをデスクの角にぶつけてしまうというアクシデントに見回れ、結果、より一層目尻をピクピクさせるというコントのオチのような状況に陥ってしまっていた。

「イテテ、あのねー、なんだよ他人事見たいに・・・」

 痛さも加わり今度は声が裏返った。

「ごめんごめん、我が社の、いえいえ私の責任です。今からそっちに飛んで行きます。編集長のために思いっきりミニスカートはいて。そーだ、代わりに私がバケツ持つよ」

 お気楽なジョークは続いた。

「おしり十往復ぐらい撫で回されるけど、我慢できるんだろうね?」

 おでこを摩りながら不覚にもそんなジョークに付き合った。

「我慢しますとも、佳織が怒られないためだったら。十回だろうと百回だろうと。あっ、でもそこまでにしといてね。やっぱりほら、私にも我慢できるタイプは一応あるし。あのジュゴン君はちょっとね。百回までが限界かな、やっぱり」

 つばきを飛ばしながら、大声で怒鳴っている丸顔童顔編集長の姿を思い出しながら、私たちは電話線の中だけで気だるくクスクス笑った。

 もはや振り上げた拳を上げたまま笑っているしか手はなさそうだった。

「まあ、いいわ。じゃあ、連絡あったらよろしくね。今日は何時でもかまわないからさ。きっと泊りになると思う。この嵐だし・・・」

 窓をみやった。

 街路樹は軋むように揺れていたが、さっきまで猛烈に降っていた雨は小康状態に変わっていた。

 ランチしたのかと苑子は尋ねた。

 口ごもりながらまだと答えたが、次に何を問いただすか予測できていた。

「朝は?」

「・・・」

 コンパクトミラーに左右の横顔を映しながらいつものように黙秘した。

「相変わらずなの?だめじゃないの!」

 状況が逆転し耳元でいつものお説教がはじまる。

 そして叱る側もしょげる側もその言葉のやり取りに慣れっこになっていた。

 まずいと思ったがもう止める事はできない。

 食べるときは食べてるし、強いて言えば食べることに興味がないだけなのだと、屁理屈を口の中の両頬で奥歯に絡ませなだらモゴモゴと言い連ねた。

「いずれにしろ摂食障害でしょう? チョコレート食べてりゃ良いってもんでもないのよ。まったく困った娘ね。分かったわ、今から食事しましょう。お詫びを込めてご馳走する。ほっといたら今日も食べない気みたいだしね」

「この嵐の中、どこいくのよ。だいたいやってるとこなんかあるの?」

「ダ・イ・ジョ・ウ・ブ。迎えに行くわよ車で。そうね三十分ぐらいね。ビルの下に着いたらもう一度電話する。いいわね」

 煮え切らない返事をしてひとつため息をつきながら静かに受話器を切り、無造作に子機をデスクの端に転がした。

 腕時計を覗くと午後二時をさしている。

 まともな食事取ったのは?とデスクに肘を付き顎を支えながら思いだそうとしたが思い出せない。

 食事が食べるというその行為であれば、それはそれなりに行っている。しかし食事が食べる為に費やす時間をも含むのであれば、その事には心当たりがなかった。

 昨日や一昨日でないことだけは分かっていた。

 なおも思い出そうとすると、軽い目眩が身体全体を襲ってきた。

 もう一度コンパクトミラーを覗き込み顔色を観察した。

 息絶え絶えの魚にも似た両眼がだらしなく映っている。

 鱗を付けたままゆっくり、そして諦め気味に瞼を閉じ、両腕で枕を作り、消え入るように眠りについた。

 苑子は中学校からの唯一親友と呼べる存在だった。

 私たちは都心にある私立の女子中学から系列の女子大までたいした苦労なく十年間の青春を過ごした。

 高校を卒業するまではなぜかずっと同じクラスで、女子大を選択したとき私は心理学を、苑子は外語学と初めて別れた。

 私たちの性格や行動はまったく正反対。

 ほとんど家と学校を往復するだけの私の余暇は、読書やビデオ鑑賞といった結構暗めの趣味に時間を費やされていた。

 対する苑子は、いわゆる発展家で流行にも敏感、遊びに限らず、芸術や政治、経済に至るまで何でも知りたがりの行動派だった。

 しかも成績は常時上位、進学指導では一流国立大学への受験を薦められるほどの才女だった。

 当初本人も受験にまんざらではないようだったが、なぜか三年生になる頃にはすっかりそんな気もなくなっていた。

 それどころかまったく学業に興味を示さなくなり、学校もなんだかんだと理由をつけては欠席がちになっていた。

 そんな流れの中で、両親の強制により系列の大学だけには一応形だけ進学したのだった。

 苑子の性格はいわゆる燃え尽き症候群、何に対しても思いっきり集中し情熱を燃やすのだが、あるレベルに到達すると突然全てを投げ出してしまう。それも完璧に捨ててしまうのだ。

 まるで、完成まじかな積木のお城をエイとめちゃめちゃに壊してしまう子供のような、典型的に友達にしたくない、そんな性格だった。

 学業ではない、もっと新しい刺激を与える何かを彼女は常に追い求めていたのかもしれないと、自分なりに解釈していた。

 大学時代の苑子は、仲間を集め既に人材プラニングコーディネートの会社を経営していた。そして休みの度にしょっちゅう日本を離れ、世界中を飛び回っていた。

 そのため、大学をちゃんと卒業したのかしなかったのか、未だに多くの人は知らないし聞こうともしない。

 苑子にとっては卒業という分岐点など必要ではなく、彼女に関わる全ての仲間たちもそれを履歴として必要としなかったという方がむしろ的を得た説明かもしれない。 

 自分の心を満たしてくれる何かを常に追い求める苑子、その何かが提供されるのをただ待ち続けるだけの私、二人の生き方はそんなふうに対照的だった。

 苑子は学生時代からいつもキラキラと輝き、そして今現在もその光を保っていた。

 そんな苑子をいつも付かず離れず見守っていたような気がする。

 苑子はいつも自由の中に身を置いていたが、精神的に疲れると、必ず私を部屋に呼び出した。

 二人はたわいもない話を連ね明け方まで時を刻んた。

 苑子はフォアローゼスのロックを呑み続け、私はコーラに少しだけアルコールをたらした。

 朝になり、うたた寝から眼を覚ますと、苑子はいつも先に起きて食事の用意をしていた。そして食が進まない風の仕種に苑子はいつも本気で怒った。

 まるで酔っているときの父親のように、恐い眼をして叱りつけた。

 絶対食べなさいよ、と執拗に繰り返した。

 うつろいの中でそんな苑子の怒った声が幾度となく響きわたった。


「ごめんなさい」

 いきなりムクッと頭を上げた。

 ゆっくり周りを見渡すが両目のオートフォーカス機能がなかなか作動しない。

 眼を擦りながらやっと身近に焦点を合せると、隣の席で同僚が立ち上がり、びっくりした顔つきで見下ろしていた。 

 唇の左端をキュッとつり上げるという彼女得意のポーズで、あなたの電話番じゃないのよとばかりにペンシルの先を二度受話器の方向に指し示し、「デ・ン・ワ」と無味乾燥した言葉に用件だけを刷り込むと、ポイと紙屑でも投げこむかのように私の耳に押し込んだ。

 まねるように唇の左端をキッと横に拡げ、おでこにへばりついてしまった前髪を掻き上げた。

 少し痺れた腕を交互に摩りながら受話器を取り保留ボタンを解除した。

「はい、スカイ・ジャーナル編集室です」

「私よ、どうしたの? なんだか慌てちゃって。到着よ」

 眼をそばめながら、窓から街路を見下ろした。

 クリーム色のスポーツタイプの外車が、パーキングウィンカーをカチカチと点滅させながら路の向こう側に止まっている。

 直ぐ降りるからと言って受話器を戻し、麻のネイビースーツを椅子の背持たれからはぎ取り、バッグを無造作に肩にかけると、エレベーター裏のトイレに駆け込んだ。

 ミラーの前に立ち、顔を近付けて中の自分を観察した。

 肌は荒れ眼の下にはまるで居心地よさそうにうす紫のクマが居座っている。

 寝不足のせいなのだろう、残念な私の今を物語っていると思った。

 薄幸な人生、このまま飛ぶことなく静かにフェイドアウトしていく青春末期。

 とっておきの悲劇のヒロインがミラーの中で立ちすくんでいるのだと感傷的になった。

 左手をバッグに突っ込みファンデーションの在処を探したがみあたらないので、手に触れたスティックを引っ張り出すと取り合えず口紅だけをぬり直し、はみ出し部分を左手の小指で拭い取った。

 使い慣れた大きなため息をミラーに吹きかけ、テリーショールの裾を揃え、ミラーに向かって最後の抵抗にも似た笑顔を作りながら、駆け出すようにトイレを後にした。

 この風貌では完全に説教を食らうな。

 時計に目をやりエレベーターの中でもう一度今度は小さめのため息をついた。しかし、カウントダウンしていくエレベーターのナンバーを見つめていると、心の中に少しづつ安堵感が広がっていくのがなぜか不思議だった。

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