郭公の棲む家
里子として少女時代を過ごした女性が婚家でも虐げられ、渡り鳥のカッコウが托卵する習性に己が身を重ねる◆父がその母親の文章に手を入れたものです。何かのコンクールの第1次予選に通ったけれど、結局は落選だったと言っていました。肝心な彼女の生い立ちにサラッとしか触れていない理由は多分、境遇が過酷すぎて書けなかったのでしょう。設定時期は1980年前後です。
唐松高原別荘分譲地と書かれた立て看板のある角を右に折れると、道は途端に細くなった。アスファルト舗装をしてあるといっても、乗用車が辛うじてすれ違えるだけの幅だ。ただ、後ろに続く車はないし、向こうからやってくる車もない。曲がりくねって徐々にきつくなる山道を、夫の運転する新車はものともせずに登っていく。
五月の雨の上がったばかりの空気が視界を遮り、人間の手が入っていない雑木林を熱帯の密林の様に見せる。時折飛んできた水滴がフロント・ガラスを叩く。恐る恐る窓を開けると湿ったガスに含まれた草木の香りが街から来た人間を咽せ返らせ、慌てて閉める。徐々に明るくなり出した空の下を鳥の声も風の音もなく、ただ車だけが進んでいく。
道標を頼りに右に左に何度か曲がると、ブナやクヌギだった両側が、いつしか整然と直立するカラマツに変わる。黄緑色の若葉と、剥き出しの真っ直ぐな幹が美しい。十数年前の終戦直後に建築材として持てはやされて日本中で植林されたが、成木となった近頃は供給過剰となり、打ち捨てられた林が多いという話を思い出す。
下草のところどころに、紺色の板に白い文字で数字を振った、背丈ほどの立て札が続くようになる。分譲地の番号だ。一年前に売り出したと聞いていたはずだが、建物は赤いトタン屋根のログ・ハウス一軒が見えただけであとは続かない。夫に言われるままに白い数字を読み上げる。しばらくすると登り道がだんだん緩やかになってきてカラマツが途切れ、斜面をL字形に切り開いたところで目指す番号が現れた。
私の乗った助手席側を左の山側一杯に付けて車を止める。
「ここだ。晴れていれば、谷向こうの道からでも、よく見える」
サイドブレーキを引きながら、ことも無げに言う夫の顔は優越感に満ちている。そして素早く降りて土地を眺め始める。道路の縁から二、三十度の斜面が谷に向かって十メートルほど開けていて、そこから下がカラマツの林になっている。
私は、新車のドアの先が左側の斜面に当たらないようにゆっくりとノブを引っ張る。半分だけ開けたドアから身をよじって一歩踏み出すと、角の立った山砂利を靴底に感じる。扉を閉じた途端に、山の冷気が衣服を僅かに貫いてくる。念のためと後部座席から夫と私の上着を持ち出す。
何度も大きな音を立ててしまったことを恥ずかしく思わせるほどの静寂がある。
「カーディガン、要る?」
と尋ねる言葉を遮って、
「とりあえず、車を置く場所が欲しいなあ」
と言うなり、夫は草むらに入っていく。後を追おうとすると足元に黒くて細かい火山性の土が現れる。とっさに、靴に付着する、夫が大事にしている新車が汚れてしまうという連想が、私を押し留める。
天空は白いままだが明るさを増して、カラマツの幼い葉に鮮やかな透明感をもたらし、また地表に這いつくばるウラジロ・シダの葉の水玉に鋭い輝きを与えている。しゃがみ込むと、その下に鉄平石によく似た平たい赤い石に苔が取り着いている。掌ほどの大きさ石を取り上げてみる。これを飾り棚の上に育てている植木鉢の根元に置いたら綺麗だと思い付く。夫が縁日で買ってきたザクロの盆栽だ。
不意に鳥の声が柔らかく響く。
「カッコゥ、カッコゥ」
私は小さく口真似を試みる。紛れもなくカッコウだ。その登場は目の前に広がっている舞台に正にふさわしい。この鳥が冬を暖かい東南アジアで過ごしてきた渡り鳥で、たった今、ここに到着したばかりだということを、私は知っている。
姑が死んで三年になる。
日曜日の生活パターンが変わってきて、夫は昼まで寝ていることが多くなった。姑の生きている間は、早朝から自分で起き出して裏に作った畑の手入れに精を出していたのに、その変貌には驚かされる。まあ、今朝は雨が降っているせいもある。
姑は、二男一女を産んだところでその夫に先立たれ、女手一つ、苦労して子ども三人を育ててきた。しかしその末に、長女を適齢期を前にして病気で失い、続いて長男を市役所に就職した途端に事故で亡くすという、不幸を絵に描いたような人生を送ってきていた。
そして、残った次男というのが私の夫である。ただ、期待の星であった姉と兄に較べて、必ずしも出来が良いとは言えなかったようで、それまで可愛がっていなかった次男一人を頼りにしなければいけなくなった母親と、急に愛情を独り占めできるようになった息子との間に、単純だが複雑な強い絆が出来上がっていたのは想像に難くない。
そして夫は、現地採用の臨時雇いではあるが名の通った会社の地方営業所に辛うじて入ってから、定時制高校に通った末に正職員に採用されるという涙ぐましい努力の人となった。
一方、私の父は外国航路の航海士をしていた。戦前のことだから、その羽振りは推して知るべしで、浅草の呉服屋の末娘だった母とは見合い結婚だったという。その母は、私を産んで直ぐに亡くなってしまい、私は母方の縁者に預けられた。父は、しばらくして再婚したようだが、帰国の度に異国情緒あふれる珍しい土産を持って会いに来てくれたことを覚えている。それも先の戦争で行方が分からなくなり、里の呉服屋も戦災で散り散りになってしまった。そして養育費の入らなくなった私は、預け先で持て余されるどころか、厄介者扱いされていた。
そんな状況下で世話をしてくれる人がいて、私は夫に嫁いできたわけだ。中には、親一人、子一人のところへなど嫁に行くものではないと助言してくれる人もあったが、私には選択の余地が全くなかった。正に逃げるようにしての嫁入りであった。反対に、肉親のいない私にとっては、一つの家族に加えてもらえるという大きな期待があった。
しかし一流企業のサラリーマンといえど、正職員になったばかりの給金は三人が食っていくには苦しいもので、婚礼の翌日から私は近所の大百姓屋に手伝いに出ることになった。また直ぐに息子と娘が生まれたから、貧しい暮らしが続いた。
それに、世に言う「嫁いびり」と夫の無理解は度を超していた。姑はリュウマチをこじらせて結婚当初は寝たきりだった。足が不自由で、私に下の世話を焼かせる後ろめたさを糊塗する意味もあったのだろう。正に牛馬のごとき扱いと表現しても言い過ぎではない仕打ちが続いた。
それらは思い出すだけでも辛い。ただ一つだけを記せば、それは息子が離乳食のカユを残したときのことだ。私はあまりの空腹に一人、台所でそれに箸を付けようとした。その途端に、夫が見付けて椀を取り上げ、「オフクロ、こいつがこんなものを食っていたでぇ」と姑に言い付けて、自らの胃袋に納めてしまった。そのときの夫の誇らしげな声と姑の嬉しそうな顔は耳と目に焼き付いて離れない。
肉体的にも精神的にも、来る日も来る日も、そして明くる日も、思い出したくない、じっと胸の奥に封じ込めたい事実が重なっていった。
でも、帰るところのない私はひたすら耐えた。
そうこうしている間に、片手間で始めた洋品を売りさばく仕事が私に合致したのか、借家だが小さな店を構えるまでになった。母方から受け継いだ血のお陰だったのだろう。できるだけ顔を会わさなくて済むように、姑に家庭を預けるという方法が、家々を歩き回る商法となって開花したのだ。
当初、一、二年も持てばいい方だという話しもあった病弱の姑が息を吹き返してしまったのは、皮肉にも私の存在が原因だったのかも知れない。
店の売り上げを夫は持ち出して、カメラに注ぎ込み始めた。ただ、家族を撮影することは希で、専ら職場の旅行や行事に持っていくとか、コンクールに応募するためということが多かった。
今になって考えると、小遣いだけでも頼りにしてくれる夫が嬉しかったのだろう。私はますます稼ぎに精を出した。小さい町のこと、内緒だった郵便局の預金額が夫の耳に入ると、親孝行という名分の下に新興住宅地に一戸建てを買うことになった。もちろんローンを組んでのことだが、この頃には夫の月給もそこそこの額になっていた。
日曜日の今朝も、父親が起き出さないのを良いことに、茶の間は子ども達が占拠している。
高校生の息子は模型を作るのに夢中で、中学生の娘の方は宿題の切り絵細工に熱中している。兄の部品が妹の材料の中に紛れたといっては騒ぎ、妹の台紙に兄の塗料が掛かったといっては言い合いが始まる。日頃は隣部屋を家事に使っている私も、その喧噪にひかれてアイロン掛けを持ち込む。
そして、遅い朝食というよりも、早い昼めしを摂るために片付けさせるときには一騒動となる。
夫が起き出してきて、親子四人が揃ってテーブルに向かう。夕飯と違ってテレビを付けないから賑やかだ。姑のいない食卓は、やはり違う。季節が早いが今日は冷やし素麺にしてみた。息子の食いっぷりが頼もしい。娘も箸の上げ下ろしが女の子らしくなってきた。
いつもはこの後、大好きなカメラを持って出掛けるのを日課としている夫が、今日は「土地を見に行こう」と言い出した。新聞には午後から晴れるという予報が載っている。
行く先は、不動産仲介業をやっている同窓生に勧められた山の分譲地だ。所得倍増計画とかいう政策が功を奏して庶民にも余裕ができ、このような需要が見込めるようになったらしい。自宅から一時間ほどの山の中だから、夏は確かに涼しく避暑地と呼ぶに間違いはない。しかも、冬は雪が深く、歩いて二十分のところにスキー場があるからセカンド・ハウスとしては最適、という謳い文句だ。戦前からの軽井沢などは別世界として、庶民のささやかな夢の実現にちょうどいい物件といえる。
ただし元来この分譲地は、四時間ほどで到着できる都会人を当て込んで計画されているので、元々田舎に住んでいる地元の人間には、イメージに合わないところがある。スキーなどというハイカラなスポーツには四十歳代半ばの夫婦二人共に縁が無く、子ども二人が馴染むまでにも時間が掛かる。それに自宅のある市街地が標高四百メートルほどもあり、クーラーが要らず扇風機で十分に過ごせる土地柄からすれば、安サラリーマンのこの家族に必要かどうかに疑問がないはずはない。
広さの五百坪といえば、住宅地では十軒分にも相当する大邸宅。しかし、山あり谷ありの傾斜地にあっては、分譲地の中でちょっと広い方に当たるだけ。それに斜面に築く基礎には、建物の三分の一ほどの費用が掛かるらしい。
夫のプランは、総平屋として真ん中に二十畳ほどのリビングルームを設け、その両側に寝室を持ってくるというもの。このリビングルームに夫は異常なほど固執する。同僚への新築披露をしたいから、十人ほどが座れる広さが要るという。確かに二十畳もあれば豪華だが、そうたびたび必要となる広さではない。そう言えば、今の家を建てたときも、八畳と六畳の二間続きをふすまで仕切る間取りにして、新築早々に同僚を呼んだ。
建物自体は雪国向けのプレハブ・ハウスにすれば丈夫だし、工事の期間も短いから安くできる。不動産屋の勧めるカナディアン・ハウスは、いかにも山小屋といった感じで貧相だという。
こんな話に息子は全く関心が無く、
「どうでもいいや。オレは行かない」
と、素っ気ない。
娘の方は目を輝かせて
「私も見に行きたい。でも、友達と遊ぶ約束があるから」
と残念そうである。
結局、夫婦二人だけで出掛けることとなった。
夫が新聞の朝刊を広げている間に食器を片付け、外出の用意をする。それから車のカバー・シートを外しに戸外に出る。まだ降ってはいるが、小雨だ。手早くシートを引っ張る。まだ新しいので水を弾いて軽い。裏庭に運んで、物干しざおに吊す。
こんなことは毎朝やっていることだから、手際よく運ぶ。夫は会社へ行くのに車を使っている。自転車でも約十五分の距離だが、数年前に軽自動車を購入してからは、ずっとそうだ。ただ、毎日の走行距離が短いものだから蓄電池が一年と持たず、また直ぐに消音器に穴が空いてくるとは出入するセールスマン氏の弁で、そのお陰もあってこの車で三台目と商売になっている。最初は勤務する営業所唯一の自動車通勤者だったので、会社の中で止めるところに不自由することがなかったらしい。しかし、この頃は駐車場所を抽選で決めるとのことで、今年それに落ちた夫は会社近くに有料駐車場を借りてまでして、乗って出掛けている。
居間に戻ると、夫の用意ができ上がっている。ここで私から、
「駅前のペンション協会に寄ってみない?」
と持ちかけてみた。
本人は全く気にしていないのだが、あと数年もたたないうちに否応なく定年退職を迎える。現在、退職していく人達の身の振り方を聞いてみれば、ほんの一部は下請け会社などに再就職先を見つけることができるのに対して、大半は田畑を耕す生活に戻っている。退職金でアパートを建てたという話も多い。
確かに、ちょっと早すぎるかも知れないが、五百坪の分譲地を買うと言い出したときに、これだと思い付いた。まず、夫の考えるセカンド・ハウスを建てて、定年に合わせてその横にペンションを増築するというのが私の考えだ。この家を売って資金にすればいい。
会社の同僚には夫と同じ年代が多いから、関係会社に引き取ってもらえるのは一握りに限られるだろうし、我が家には耕す土地などはなく、もちろん賃貸住宅を建てられる地面も持っていない。
小さなホテルもどきの宿屋ならば、夫婦二人でできるのではないか。根が真面目で手数を惜しまない人だから、こういう仕事に向いている。私にだって商売の経験がある。それに、十年後には独立している子ども二人が家族を連れて返って来るにも打って付けではないか。
私の言葉に夫は、気乗り無さそうに、
「ああ、そうだな」
と返事をして、玄関を出る。
今度の白いセダンで、子ども達が一番喜んだのは後ろの席にもドアが付いていること。そのドアを開け、山での天候に備えて上着を二着、座席の上に用意する。夫は、エンジンを掛けるやいなや、ワイパーを操作している。動いては止まり、動いては止まるという、こんな雨に最適な間欠機能が気に入ったようだ。
駅前までの道は途中の繁華街で渋滞していて、三十分ほども掛かってしまう。車は路地に止める。ペンション協会の事務所は、四階建てで間口三間ほどのビルの二階である。宿泊希望者を案内するのが本来の目的と思われる受け付けの女性に私が来意を告げると、奥に通される。
ベージュ色をしたクロス織りの応接セットに腰掛けると季節には早い麦茶が出てきた。竹を編んだコースターの上に載ったバラの花模様を透かしたガラスのコップは、辺りの湿気を吸って露まみれになってくる。さらに五分ほど待たされて、六十歳ほどの白髪に眼鏡を掛けた老人が現れた。
「電話中だったもので」
と一言断ってから、協会が客を斡旋する仕組みを説明し始める。
いわく、紹介する代わりに客一人につき一定の歩合で手数料を納めてもらう。この金が協会を運営したり、雑誌や新聞に広告を打つ費用となる。自治体からの補助もあるが、あくまでも営利団体だ。
客はそれぞれのペンションに公平に紹介する。現在の客数から年にどれだけ紹介できるかは簡単に計算できるが、その数を保証するわけではない。こういう宿というのは、主人の個人的な魅力に得意客が付いていくのが本筋だから、それなりの努力や工夫が要る。すなわち、固定客が勝負だ。客と一緒にスキーを楽しんでしまえば、サービスがおろそかとなって、客が寄りつかなくなる。脱サラ組では、これでペンションを畳まざるをえなくなったところが多い。
安い家族労働が頼りだから、夫婦二人で世話できる規模は四人部屋が十ぐらいが適当。これ以上にしても全部埋まるのはハイ・シーズンだけで、そのときにはアルバイトを雇う必要があるから、経費が掛かって儲けが少ない。それ以下にすれば二人の人間が食えなくなる。
今の若い人は、ベッドが二段でも構わない。主人と客、それに客同士の個人的な繋がりを持つための談笑するスペースは重要だ。また、一年を通してコンスタントに客があるわけではないから、協会の紹介だけでは正直言って無理。最初の一、二年をお手伝いするだけくらいに思ってもらわないと続かないなどと、なかなか手厳しい。
しかし私は、ますます自信を深める。大丈夫だ。夫の生真面目さに私の商才を加えれば、絶対に客は付く。
麦茶を私の分まで飲み干した夫も少しは興味が出てきたと見えて、風呂場の大きさや、暖房の方法などを尋ね始める。また既に開業している事例などを神妙な顔つきで聞き出している。
やっとその気になってくれたかという安堵感が私の胸に生じると同時に、まさか私一人にやらせて、自分は会社勤めを続けるつもりではないかとの疑念は、ちらりとよぎっただけに終わる。
私は、これがきっかけで夫を会社人間から脱皮させることができればとも思っている。
姑の死から半年ほど経った頃、夫には会社生活で一つの転機が訪れた。職場長に昇進できなかったのだ。雇員上がりで定時制しか出ていないハンディキャップはあるにしても、似た様な境遇の同僚が辞令を受けて栄転したことがよほど応えたのだろう。二ヶ月ほどは声も掛けられないほどの落ち込みだった。それは夫に姑の死去よりも大きな影響を与えていた。
定年まで勤めるにしろ、早く会社に依存しない精神を獲得してくれれば、夫は幸せになれる。それに私も、あやかれる。
協会を辞すと折りからの雨は上がっていたが、時計の針は午後二時を回っている。山へ着けば三時になってしまう。夫と二人、急いで車に乗り込んだ。
「カッコゥ、カッコゥ、カッコゥ」
また、カッコウが鳴いた。低く木管楽器のように広がるその声は、こだまして心地よく耳に届く。
私はこの鳥に托卵という習性があることも知っている。
ウグイスやモズの親が巣を作って卵を産んで、餌を探しに巣を留守にしたその隙に、カッコウは素早くその他人の巣に自分の卵を産み落とす。戻ってきたウグイスは、そんなこととは露知らず、両方を温める。
本当の親の卵よりも早く孵化したカッコウの雛鳥は、誰に教えられたわけでもないのに残っている卵を足で蹴落としてしまい、養い親のウグイスが運んでくる餌を独り占めする。雛が自分より遙かに大きくなっても、そうとは知らずにせっせと世話をして、いつしかカッコウは巣立ちをし、そして台湾やフィリピンへと渡りの旅に出る。
自らの利益を他人からむさぼるなどという行為を人間の社会に置き換えれば、それは誠に恐ろしい話だ。法律的には犯罪であるし、まして人道的には言語道断、考えるのも汚らわしい。
ウグイスに我が身を感情移入するならば、やり切れない思いがこみ上げてくる。
しかし、現実の自然界では堂々と何万年、いや何千万年にも渡って、この複雑で巧妙な仕掛けが小さな遺伝子に載った情報で受け継がれてきている。ウグイスもそれを甘受することを同じ長さだけ引き継いできている。いうなれば小鳥が小虫を食する、またその鳥をワシなどが餌とするという弱肉強食の行為と変わらないということか。
「カッコゥ、カッコゥ」
その恐ろしい習性を知っていてもなお、この声に安らぎを覚えこそすれ、反感は湧いてこない。
何となく胸の内が暖かくなってきたような気がする。こちらのちょっと低い土地にまず母屋を建てて、数年したら客用の駐車場はあちら、ペンションの本体はその奥にと、見定める。何とかそれなりに配置できそうに思われてくる。
その間に徐々にカスミが晴れて、谷の底にダムにせき止められた人造湖の幻想的な風景が現れてきた。これは売り物になると、さらに自信が出てくる。その向こう岸に先ほど通ってきた峠に続く道が惰行している。夫の言うとおり、ここに建てれば、あの道から良く見通せることだろう。
敷地を回っていた夫が戻る素振りを見せた。私は慌てて車に戻り、タオルを取ってくる。
「ワラビもゼンマイも生えてない」
と言いながら、拾ってきた枝を使い自分の靴の泥を夫が落とす横で、ズボンなどに着いた水滴を拭き葉を払ってやる。何度か足を踏み鳴らすと、何とか元の姿に戻ってきた。
私は、先刻見ていた苔付の鉄平石を再び拾い上げて、
「持って帰るつもりなの」
と、自慢する。
夫はそれを受け取ると、なんと、思い切り腕を伸ばしてしまった。
石が谷の底に消えた途端に、辺りが急に暗くなる。人造湖の谷間は白い魔物で埋まり、斜面をあっという間に駆け上がる。私は慌てて上着の前を押さえる。
夫は首をすくめ、気を取り直した私はその肩にレンガ色のカーディガンを掛ける。
ふと、さっき鳴いていたカッコウが枝の上で身を縮めている姿が脳裏に浮かぶ。
その雛がウグイスの巣で孵化したのち、本能の命ずるままに、たった一人で見も知らぬ南の国へ何千キロもの渡りに旅立つ。
そんなカッコウが羨ましいと思った。
1998-09-26/2007-10-14/2014-12-25