08.
それでも、相手は元王族であり、何より自分が誰より愛した相手の大切な女性だ。湧き上がる嫉妬や醜い感情を、初めはなんとか抑えようとしていた。
それができなくなったのは、いつもリデルが侍女ミーナと共に散策していた庭の片隅で、ある物を見つけた時のことだ。
「マデリーンお嬢さま。あちらに何かございますわ」
先に気づいてそれを拾い上げたのは、侍女のひとりだった。
当時、マデリーンの侍女はペネロペを含めて四人。父の商売が立ちゆかなくなったとはいえ、そんなことは一向に構わないと、マデリーンを慕って実家からついてきてくれた者たちである。
「こんなに汚れて……。それに、泥水で湿っていますわ」
茂みの陰で、半ば土に埋まるように置かれた茶色い布を拾い上げながら、侍女が眉間に皺を寄せる。誰かの忘れ物だろうかとよく見てみれば、泥水が染みこんだせいで茶色に見えるだけで、本来布の色は白かったようだ。
そういえば先日、雨が数日降り続いたことがあった。この布包みは、その時からずっと放置されていたのかもしれない。雨で地面がぬかるんで、徐々に地中へ沈んでいったのだろうか。
「結構大きな包みですわね。今頃、落とした方が困っていらっしゃるかも。カーソンさんやスミスさんにお伝えして、持ち主を――」
「痛っ!」
その時、踵を返そうと足を踏み出すマデリーンの声を遮るように侍女が小さな悲鳴を上げ、包みを地面に落とした。何事かと視線を戻せば、侍女の指先から赤い血が流れ出している。
「大変! 誰か、彼女を医務室へ」
「わ、わたくしは大丈夫ですわ、お嬢さま。そんなことより、包みの中身をご覧くださいませ」
「何を言っているの、早く処置をしないと大変なことになりますわ」
包みはずいぶんと汚れていたし、傷口からばい菌でも入ったら最悪、指や腕を切り落とさなければならなくなると以前、アーサーから聞いたことがある。
小さな切り傷でも甘く見るな、というのは騎士やその家族にとって常識なのだ。
しかし、再度侍女を医務室へ促そうとしたマデリーンは、自然と視界に飛び込んできた光景につい動きを止めてしまう。
「これ……」
「お嬢さま、危のうございますわ!」
ペネロペの制止の声も聞こえなかった。
落とした衝撃のためか、しっかり結ばれていた包みの口が解けており、地面の上にその中身が散乱している。
土の上できらきらと光る、赤や青、緑の色つきガラス。原型を留めないほどに砕かれたオルゴール。枯れて色あせた花。切り刻まれたリボン。
マデリーンはそれらへ手を伸ばした。
嫌というほど、見覚えのある品々だった。
――旦那さまが奥さまのために用意した品物ばかりじゃないの……。
『リデルへの贈り物だ。今日も具合が悪いそうで、少しでも気晴らしになるといいのだが』
そうやって、少し照れたように笑って用意した物だったはずなのに、どうして無残に壊され、布に包まれ、こんな場所で泥に塗れて。
「なんて酷い……! まさか、旦那さまからのせっかくの贈り物をこんな……ゴミのように捨てるなんて!」
「元王女だからって、やっていいことと悪いことがございますわ!」
侍女たちのいきりたった声が、マデリーンの抱いた予感を後押しする。
この包みは、雨でゆるくなった地中に埋もれたものではない。被せていた土が強い雨のせいで抉れ、埋めたはずの包みが地表へ現れてしまったのだ。
――リデルさまは。……あの女は。
綺麗な顔をして。
何の罪もないような顔をして。
世界一不幸そうな顔をして。
この品々は、オスカーの想いそのものだった。それを平気で踏みにじって打ち砕いて切り刻んで、己のした悪行を隠すため、土の中へすべて埋めるような真似をしたというのか。
誰にも見つからなければ問題ないと、笑いながら。
――あの方の真心を打ち棄てるのなら、要らないと言うのなら、どうして結婚に頷いたの。素直に嫁いできたりなんかしたの。
『はずれ姫』と呼ばれているはいえ、リデルは仮にも王族の一員だ。他に縁談がなかったはずがない。
実際、オスカーが国王夫妻にリデルとの結婚を申し込みに行った直後、我もと名乗りを上げる声が後を絶たなかったと聞く。
彼らは、焦ったのだ。
はずれ姫などと世間から貶される王女に自ら求婚すれば、周囲から「あんな貧乏くじの姫がよかったのか」と嗤われることを恐れて求婚しなかったくせに。
身勝手な自尊心を守るために二の足を踏んで、そのくせ、いざ遅れをとったことに気づくなり「あのアッシェンの妾腹に王女は相応しくない」などと陰口をたたく卑怯者ども。
でも、リデルも彼らと同じだ。
マデリーンは、己の認識が誤っていたことを悟った。
――あの女も、心の底ではオスカーさまを厭っている。オスカーさまを愛してもいないくせに、己の評判を気にして、健気な妻のふりをしていただけだったのだわ……。
妾腹という噂を信じてか、あるいは別の理由があるのかはどうでもいい。
だがリデルは、王女を娶るため命を賭け異民族討伐へ赴いたオスカーの偉業を知っていながら、その必死さを踏みにじった。そこに、面と向かって彼を愚弄してきた者たちとのどんな違いがあるというのか。
このような惨い仕打ちのできる女が、『月光の妖精』だなどと称されるような清らかな女であるものか。リデルはオスカーに相応しくない。
侍女たちに止められるのも無視し、マデリーンはその場へ跪いた。粉々に飛び散ったオスカーの贈り物を拾い集め、広げたハンカチの上にのせていく。
「旦那さまに言いつけてやりましょう!」
「そうです! これを知ったら、旦那さまだって……」
「だ、だめよ!」
いきりたつ仲間たちを止めたのは、一人の侍女だった。
「そんなことをすれば、旦那さまはどんなに傷つくか……」
「……そうね。これはわたくしが密かに部屋に隠しておきます。皆も決して、他言しないように」
リデルの悪行を暴くのだけであれば別にいい。けれど、オスカーの心をこれ以上苦しめることは誰であろうと、決して赦さない。それが例え、マデリーン自身であったとしても。
侍女たちはマデリーンの気迫に呑まれ、ただ頷くことしかできないようだった。
――オスカーさまとの結婚が嫌なら、断ればよかったのよ。それもできないくせに、毎日毎日不幸そうな顔をして……。
ひとつひとつ、オスカーの想いの欠片を拾い集めている内に涙が滲んできた。
それと同時にどす黒い感情が吹き出し、溢れていく。もう止められなかった。
――あんな女、早くここから出て行けばいいのよ。
否、自分から出て行くのを待つより早く、離縁させてしまえばいい。
アッシェンにいたくないと思うほど嫌な目に遭えば、甘ったれのお姫さまはすぐに王都へ帰りたがるだろう。
せめて自分がここを去る前に、最後の恩返しとして、オスカーからあの女を遠ざけなければ。
それからのマデリーンは、思い返せば悪魔のささやきにとりつかれたかのようだった。毒蛇が敵に対して牙を剥くように徹底的にリデルを追い詰め、嫌がらせをする。
『ねえ、奥さまご存じ? 旦那さまの愛人の噂。わたくしも一度見たことがありますけれど、それは美しい女性でしたわ。――階下の者たちも申しておりましたわ。旦那さまは、本当は彼女を妻にしたかったのではないかと』
マデリーンは知っていた。
あのシャーロットという女性がオスカーの愛人でないことくらい、ふたりのやりとりを見ていればすぐにわかる。恐らくオスカーの異父姉か何かだろうと察していながら、けれど彼がその関係を表沙汰にしていないのをいいことに、何も知らないリデルを傷つけるため利用した。
『奥さまは夜会はお嫌いですの? あら。旦那さまはいつもパートナーとして、わたくしをお連れになりますので、てっきりお誘いを断っていらっしゃるのかと』
これも嘘だ。
マデリーンが夜会へ参加していたのは、アーサーのパートナーを努めるため。間もなく子爵家の婿となる兄は、アッシェン近郊の夜会へ誘われるようになった。マデリーンは義姉の介添役を務める時に少しでも恥を掻かせまいと、兄に同行して場数を踏もうと考えたのだ。
しかしある時からエヴァンズ男爵が頻繁に出没するようになったため、警護のためオスカーが付き添ってくれるようになった。
それを、周囲が勝手に勘違いして噂を広めただけ。オスカーがエヴァンズ男爵を警戒し、あえて噂を否定しなかったのをいいことに、マデリーンは侍女たちも巻き込み、リデルが勘違いするよう狡猾に振る舞った。
『ねえ! いっそのこと、マデリーンお嬢さまが跡継ぎを産んで差し上げたらいいんじゃないかしら』
『そうよ、それこそが奥方として一番大事なお役目じゃない。名案だわ!』
ペネロペ以下侍女たちも皆、マデリーンの意図を汲んで味方してくれた。誰ひとりとして主人の行動を諫めず、嬉々として共にリデルを貶める発言を口にする中で、マデリーンはますます増長していった。
自分は決して間違っていない。オスカーの幸せのために、正しいことをしているのだ……と。
けれど時折、ふと、胸に過ぎる思いがあった。
リデルに嫌がらせをすれば、胸の奥に溜まった澱のようなものも少しずつ消えてなくなると思っていた。それなのにどうして、自分の気持ちはこんなにも暗く淀んでいるのだろうと。
エミリアが生まれ、その小さな命を目の当たりにした時から、淀みはますます強くなっていった。
そしてリデルがアッシェンへやってきて丁度一年が過ぎた頃、あの悲劇が起こる。
別荘に向かうリデルとその護衛たちを狙った、盗賊による襲撃事件。
それにより御者と五十余名の騎士たち。そしてリデルと、隊列の指揮を任されていたアーサーまでもが帰らぬ人となったのだ。




