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06.

 両親は、必ず返すと言っては裕福な老人から金をせしめ、それを賭博に注ぎ込みまた新たに借金を作っていたらしい。その上、酒の飲み過ぎで中毒になり、身体にも害が及んでいるのだと。

 贅沢は好きでも賭博など絶対にしない、酒もたしなむ程度にしか飲まない人々だったはずなのに。

 二年近くも実家から離れている間に、一体両親に何があったというのか。


 両親が財産を巻き上げたせいで家を失い、病を得ても治療を受けることすらできず、絶望の中で亡くなった人間までいる。

 それを、男爵は喜劇の筋書きでも語るかのように嬉しそうに、大げさな身振り手振りを交えて大声で語る。


「このままだと君たちのご両親は、たとえ死刑を免れたところで一生を牢獄で過ごすことになるだろう。聞いた話だが、詐欺罪で捕らえられた罪人は一日一食、粗末な食事しか与えられず、冬になっても薄い毛布一枚で過ごさねばならないそうだな? おお、そんな恐ろしい環境に両親が置かれているなど、私ならとても耐えられない!」

「男爵。貴殿は何を仰りたい」


 震えるマデリーンの代わりに、アーサーが前に出る。

 聞く前から答えはわかりきっていたのだろう。マデリーンと同じ色をした、彼の榛色の目は常になく鋭い。


「アーサー卿。ご両親が善良な老人から巻き上げた金を、私が代わりに返してやろうと言っているのだよ。借金も全額肩代わりする。借金を返して多少の金さえ積めば、ご両親も晴れて自由の身と言うわけだ」


 アーサーに呼びかける形をとりながら、白く濁った灰色の目はただマデリーンをまっすぐに見つめていた。

 地方の貴族や地元の名士が呼ばれた小さな夜会の会場で、もはやダンスや食事を楽しむ人々はおらず、誰もが男爵の放つ話題に耳を傾けている。

 王都から離れたこの場所でも、やはり人々が過激な話題を好むことは変わらないのか。


「……そんなことをして、貴殿に得があるとは思えないが」

「もちろん、その通りだ。アッシェン騎士団の副長を務める君のことだ。わかっていて、あえて素知らぬふりをしているのだろう? 私が金を出す条件はただひとつ。そこのマデリーン嬢が私の妻になることだ」


 それは穏やかだった日々に終わりを告げる一言だった。

 一瞬でその場がざわつき、マデリーンは目の前が大きく歪むのを感じる。

 男爵はまだ、自分のことを諦めていなかった。二年近くも離れていたのに。男爵から離れるため、こんな遠い場所まで来たのに。

 この男の自分に対する執着はなんら変わっていなかったのだと、まざまざと思い知らされた。

 

 夜会の主催者である老夫人が男爵を穏便に追い返してくれていなければ、彼は更に余計な話をしてマデリーンを追い詰めていたかもしれない。

 招待状も持たず勝手に他人の屋敷へ上がり込んだ男爵は、去り際、マデリーンにだけ聞こえるよう小さく告げた。


「私の親切な申し出を断るのは愚か者のすることだ。君が、ご両親を見捨てられるような薄情な性格でないことはわかっているよ、マディ(、、)


 べったりとこびりつくような声音で、親しい者にしか赦さない愛称を呼ばれ、反射的に耳を削ぎ落としたくなった。

 青ざめた顔で立ち尽くす妹と、それを支える兄とを見て哀れに思ったのか、屋敷の女主人はその後、マデリーンたちを応接室で休ませてくれた。


 やがてアーサーだけが別室に呼ばれ――そこで老夫人とどのようなやりとりがあったのかはわからない。

 ただ、それから一ヶ月後、兄の口から婚約が決まったと告げられた時。その相手が兄より十五歳も年上の子爵令嬢で、あの屋敷の女主人の遠縁だと知った時。


 十代半ばで結婚する女性の多いこのエフィランテにおいて、資産家の貴族であるにも拘わらずいまだ独り身の、三十七歳の子爵令嬢との結婚。

 それが何を意味するのかわからないほど、マデリーンも鈍くはない。

 兄は自身が犠牲になることで、実家と両親、そして妹を救おうとしている。


 ――お兄さまには、お付き合いしている相手がいらっしゃるのに……。

 

 けれどその相手は、アーサーと婚約を結んだ子爵令嬢のように、マデリーンの実家を救えるほどの財力を持った女性ではなかったのだろう。


「お前は、何も心配しなくていいんだ。兄さんに全て任せておけば上手くいくから」


 そう口にした兄の目に、悲壮な決意が浮かんでいたことに気づいていたのに、マデリーンは何も言えなかった。

 

 それから半月後には、件の子爵令嬢が兄に会うためアッシェンまでやってきた。

 頭から香水を被ったようなきつい香りを漂わせ、音を立てて紅茶を啜り、大口を開けて笑う。侍女ではなく美男子の侍従を大勢侍らせ、少しでも気にくわないことがあるとすぐ怒鳴り散らす。


 彼女はアーサーをいたく気に入り、できる限り早く婚儀を上げようと言った。アーサーも、微笑みながら黙って頷いていた。


 兄弟のいない、行き遅れの子爵令嬢。

 金に困っている正騎士。


 第三者が見ても、この結婚の意味がわかったことだろう。

 アーサーが婿入りする代わりに、子爵家には実家の借金や両親の保釈金を払ってもらう。それはエヴァンズ男爵が持ちかけた話と、なんら変わらない取引。

 結婚と言う名の人身売買だ。


 ――わたくしがエヴァンズ男爵と結婚すれば、お兄さまはこんな女性と結婚せずに……恋人との仲を諦めずに済む。わたくしが、我慢すれば。


 マデリーンには好きな相手はいても、恋人はいない。けれど兄には、互いに愛し愛される相手がいるのだ。

 

 だからお兄さまはどうか、好きな相手と添い遂げてくださいと。

 こんな時まで、『兄』であろうとしなくていいと。


 何度も喉まで出かかった言葉を、どうしてとうとう口に出すことができなかったのだろう。

 だけど、どうしても嫌だったのだ。男爵の後妻になり、あのいやらしい顔を毎日見て過ごさねばならないと考えるだけで吐き気を催した。


 兄だってそうだったはずなのに。

 望まない結婚に、思い悩まなかったはずはないのに。

 けれど彼は決して、マデリーンにその役目を押しつけようとはしなかった。

 優しい人だった。両親や妹を見捨てでまで、己の幸せを優先するなど決してできない人だった。


 ――それに比べて、わたくしは……。


 罪悪感と、それ以上に、自分が男爵に嫁がなくて済むようになったことへの安堵を覚えていた自分は、なんと姑息で卑怯な人間なのだろう。

 どんなに頭の中で申し訳ないと考えていたところで、結局マデリーンは、我が身の可愛さを優先して兄を見捨てた。

 誰より汚い人間だ。汚くて醜くて、身勝手だと自分でわかっている。


 ――だから、嫌いだったのよ。


 誰より美しくて、汚れを知らないような清らかな目をした、あの少女が。

 自分とは正反対に雪のように真っ白で、純粋で、繭の中で守られた儚げなあのお姫さまが。


 ――わたくしが何より欲しいものを与えられていながら、それに気付きもしない世間知らずな王女さまが……そこにいるだけで劣等感を煽る奥さまが、わたくしは大嫌いだった。

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