05.
アーサーは両親に対し、二度とマデリーンを実家には戻さないと激怒した。娘を犠牲にしてまで家や商会を守ろうとした両親に、酷い失望と落胆を覚えて。
「屋敷と会社を売ればいいんだ。そうすれば、両親がふたりで生活していけるくらいの財産は残るだろう。元々平民だったんだ。お前が気に病む必要はないさ」
両親を心配するマデリーンに、アーサーはいつもと同じ朗らかな調子で告げた。
そして憔悴しきっていた妹を見かね、自身が最も信頼する剣の師へ妹を預けた。
元王宮騎士団長である豪胆な主人と、それとは正反対に穏やかで可愛らしい雰囲気の夫人。
彼らは男爵の振りまいた噂を気にすることもなく、マデリーンの面倒を見てくれた。まるで、実の娘を慈しむように。
やがて一年が経った頃、アーサーがマデリーンを迎えにきた。病死した父親の代わりにアッシェン領主となり伯爵位を受け継いだオスカーが、アーサーを騎士団の副長に任命したのだ。
「一緒にアッシェン領へ行こう。あそこなら男爵も父さんたちも、お前に手出しできない。オスカーも、お前のことを心配してくれている」
後で聞いた話だが、兄の師の家で世話になっている間、何度か両親やエヴァンズ男爵が押しかけてきたことがあるらしい。
そのたびに夫妻は、マデリーンに気づかれないよう招かれざる客を追い返してくれていたようだ。
「マディ、心配するな。どんなことがあっても、俺がお前を必ず守る。俺はお前の兄さんなんだからな」
幼い頃、マデリーンが泣いていると、アーサーは必ずと言っていいほどその言葉を口にした。
まだ父の商会が軌道に乗る前、貧乏人と馬鹿にされていた時も。父が準男爵位を得て、今度は成金と貶されるようになってからも。
マデリーンにとって、兄はずっと昔から、物語に出てくる英雄のような頼もしい存在だった。
だから手を取った。迷うことなく。
その結果どうなるか、深く考えることもなく。
――だって、お兄さまならわたくしを守ってくれる。お兄さまがなんとかしてくれる。お兄さまは、いつもわたくしを助けてくださるもの……。
それは甘えでしかなかったのだと、今ならわかるのに。
住み慣れた場所を離れての生活に多少の不安はあったが、両親やエヴァンズ男爵と物理的に離れられる喜びとは比ぶべくもない。
王都から遠く離れたアッシェンでは、マデリーンとエヴァンズ男爵の一件はほとんど知られていないようだった。
兄やペネロペ、信頼する侍女たち。そして誰よりオスカーの側にいられるという事実が、傷ついたマデリーンの心を安らかに癒やしてくれた。
アッシェン城へ移り住んだマデリーンに私室として与えられたのは、広い客間だった。
副長の妹とはいえ、客分でもない女性に対するあからさまな特別待遇が、使用人たちの間で物議を醸したことは言うまでもない。
『あのマデリーンという女性は旦那さまの愛人なのではないか』
傍目から見れば、確かにそう思われても仕方のないことだ。本来なら騎士の家族は、城館から少し離れた騎士団施設内にある、家族専用宿舎に住むことになっているのだから。
しかしその不名誉な噂を、オスカーは一切否定しなかった。
それどころか、彼はやがてマデリーンに、行儀見習いとして女主人のような仕事を任せるようになった。
帳簿の管理、領地で採れた穀物の産出量を記録し、市井の人々の話に耳を傾け、客人をもてなす。パーティーの招待状への欠席を詫びる手紙や、贈り物への返礼品も、いつもマデリーンが手配した。
そうすれば、ますますマデリーンとオスカーの仲が誤解されることはわかりきっていたはずなのに、彼は少しも弁解しなかった。
聡いオスカーは気づいていたのだろう。例の事件以降、マデリーンがごく親しい人間を除き、異性という存在そのものに恐怖を覚えるようになっていたことを。神に一生を捧げようと考えるほどまでに、思い詰めていたことを。
だからこそ、マデリーンが男性だらけの騎士団施設で生活せずに済むよう客間に住まわせてくれた。
そしていずれ心の傷が癒え、誰かの元へ嫁いだ際に困らないよう、花嫁修業を積ませてくれた。
彼は自身が泥を被ることで、マデリーンの名誉を守ったのだ。
だが、当初のマデリーンはそれをありがたいと思うより、こんなことをしても無意味だと投げやりに感じていた。
どうせ、自分のような『汚れた女』と結婚したがる男性がいるはずもないのに、花嫁修業だなんて時間の無駄だ。兄に止められていなければ、今頃は俗世を捨て、修道院へ行っていたはずなのに。
「オスカーさまは……わたくしを汚れているとは思いませんの?」
「なぜ君が汚れているんだ? 汚れているとしたら、それはエヴァンズ男爵のほうだろう」
ある日、勇気を出して質問したら当然のようにそう返され、思わず言葉に詰まってしまった記憶がある。
「世の中、エヴァンズ男爵のような男ばかりではないし、無責任な噂に踊らされることなく君の良さを見てくれる男性もいるはずだ。あんな屑のせいで修道院行きを決めるのは、まだ早いだろう」
「ふふ……、兄と同じ言葉を仰ってくださいますのね」
思わず声が霞んだ。
大勢の悪意にさらされ傷ついたマデリーンの心に、家族でもないオスカーからの優しい言葉がどれほど深く染みたことか、彼にはわからないだろう。
泣き出したマデリーンを見て、オスカーは珍しく大慌てになっていた。
「も、もちろん、修道院に行きたいというのを無理に止めるつもりはない。ただ、アーサーも俺も、君が幸せになることを願っているんだ」
――ああ、やっぱりオスカーさまだわ。
あの下卑た眼差しで全身を舐め回すように見てくる毒蛇のような男爵とも、自分を成金の淫売と罵った男たちとも、傷物の娘は結婚できないと言い放った両親とも違う。
アーサーと同じで、心からマデリーンの幸せを祈ってくれている。
まっすぐで、優しい彼の言葉が嬉しくて、悲しかった。
なんて鈍感で残酷な人なのだろう。
もうあと一年もすれば妻を迎えるというのに、自分を恋い慕う女相手に、そんな風に柔らかで無責任な言葉をかけるなんて。
否、気づいていないからこそなのだろう。
同じ城で暮らしても、どんなに女主人としての仕事を懸命にこなしても、オスカーにとってマデリーンは以前と変わらず、『妹』のままだった。
「マディ。夜会に参加してみないか?」
アーサーがそんな提案をしたのは、王女の降嫁まで半年を切ったある日のことだ。
「嫌なら無理にとは言わないが、今回の夜会は、師匠の娘婿……フォーリンゲン子爵が主催するんだ。真面目で大らかな人柄だって聞いてるし、招待客も身元の確かな人間ばかりだそうだ。俺が付き添うから、気晴らしに行ってみないか?」
「……そうですわね。わたくしもそろそろ、身の振り方を考えないと。いつまでもお兄さまやオスカーさまのご厚意に甘えるわけにはいきませんもの」
オスカーが妻を迎えたら、マデリーンは完全に邪魔者だ。夫に懸想する女が側にいて、女主人顔であれこれと城の仕事をするのが、妻にとってどれほど赦しがたいことかは容易に想像がつく。
それに近頃アーサーが、休日のたびにいそいそと町へ繰り出していることにも、マデリーンは気づいていた。
多くの女性と浮名を流してきた兄だが、今回は本気のようだ。
未婚の妹がいつまでも引っ付いていれば、相手の女性も嫌な思いをするだろう。
「違う、そういう意味で言ったんじゃない。お前はいくらでも俺に甘えていいんだ。俺はただ、お前の悲しい顔を見たくないんだよ」
だが、アーサーが意図したのはそういうことではなかったようだ。
彼はマデリーンがまだ、未練たらしくオスカーへの想いを抱えていること。そしてその想いが決して報われないことを知っていた。
「オスカーなんかより見る目のある誰かが、きっとお前を幸せにしてくれるはずだ。俺は、お前に世界一幸せになってほしいんだよ」
「お兄さまったら……」
冗談めかした兄の言葉に思わず笑ってしまいながら、マデリーンはその夜会に参加することを決めた。
誰も言葉にはしなかったが、もはやマデリーンが貴族に嫁ぐのはほぼ不可能だと、皆わかっていた。
だから兄もオスカーも、どこか王都から離れた社交界の噂が届かない場所で、誠実で優しい男性と幸せな結婚をしてほしいと考えていたようだ。
思えばあの頃が一番幸せだったのだろう。
兄が側にいて、愛する人が自身のために心を砕いてくれて――まだマデリーンの未来には、沢山の可能性が広がっていた。
兄と共に参加した何度目かの夜会で、再びエヴァンズ男爵と顔を合わせるまでは。
アーサーの背に隠れ震えるマデリーンに向かって、黄色い歯を剥き出しにして笑った彼が告げたのは、両親が投獄されたという事実だった。




