04.
エヴァンズ男爵からしつこく言い寄られる日々が、マデリーンを精神的に追い詰めていく。
こうなったら誰でもいい。男爵以外の男性と結婚し、彼の手の届かない場所まで逃げよう。
マデリーンは夜会へ参加する度、必死で自分を妻に迎えてくれそうな男性を探した。
――誰か、誰でもいい。わたくしをあのいやらしい老人から救って下さるなら、どんな男性でも……。
必死な姿を笑われようと、それで男爵から逃れられるなら構わなかった。
「エヴァンズ男爵は最低の金貸しですよ。あんな男の言うことを信じるなんて……」
「貴女も災難でしたね」
マデリーンに同情し、味方してくれる人間も少しは存在した。しかしそれは、本当にごく限られた少数の人間だけだ。
「君のような淫売と結婚なんて笑わせる。情婦になるって言うなら考えてやってもいいけどな」
「申し訳ないが、我が家は名家なんだ。貴女のような身持ちの悪い女性はちょっと……」
一度立った悪評は簡単に消えてはくれず、現実はマデリーンにとって非常に厳しかった。
そして、一度狙いを定めた獣が、獲物の下手な悪あがきを見逃すはずもなかった。
事件が起こったのは、そんなある日のこと。
あれは忘れもしない、新月の夜だった。
某貴族の屋敷で開かれた舞踏会で、室内の熱気に当てられ外の空気を吸いに庭に出たマデリーンは、その隙を突いたエヴァンズ男爵によって攫われた。
あっという間の出来事だった。
共に夜会に来ていた両親は知人たちと広間で歓談しており、娘がいなくなったことにも気づいてもいなかっただろう。
供として付いてきていたペネロペともうひとりの侍女は、男爵の取り巻きによって昏倒させられ、逃げられないよう庭の木に縛り付けられた。
闇に覆われた中庭で。
広間から軽快な音楽が流れてくる中で。
人々の楽しげな笑い声が聞こえてくる中で。
深い茂みの中に口を塞がれ音もなく連れ込まれた女の存在に、一体誰が気づけただろう。
それでもマデリーンは懸命に這い出ようとした。
助けを呼ぼうとした。
けれどいくら老人が相手とはいえ、女の細腕で何ができただろう。
見上げた空で、星がまたたいていた。
――ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。
男爵のべたついた手が肌の上を蛇のように這う。
男爵の取り巻きたちの歯が、夜空の下で白く光っている。
星が――星が消えていく。
ひとつずつ遠ざかって、闇に呑まれて、掻き消されていく。
「可愛いマデリーン。ようやくお前とふたりきりになれた……」
男爵が嬉しそうに何かを囁いている。けれどマデリーンにはこれが現実なのか、夢なのかわからない。
――だって、こんなことありえない。わたくしは、わたくしの未来は。わたくしの……っ。
きっとこれは悪夢だ。
なぜなら広間では皆、あんなに楽しそうに踊っているから。あんなに楽しそうに笑っているから。
これは、マデリーンが思い描いた未来とは違う。
――わたくしはオスカーさまと結婚して、家庭を築いて……。ああ、違うわ。オスカーさまはとっくに、王女さまと甘い夢を見ていて……。わたくしは、選ばれなかった。
頭の中が黒いインクで塗りつぶされていくようにぐちゃぐちゃで、考えが纏まらない。
この悪夢から、早く抜け出さなければ。
マデリーンが正気に戻ったのは、皮肉にも、男爵が嬉々としてドレスの裾に手を差し入れた時だった。
「いやぁぁぁぁぁっ」
その瞬間、マデリーンは自分でも信じられないほどの力で男爵を突き飛ばしていた。よろめいた男爵の隙を突いて、彼の下から抜け出す。
しかし運が悪いことに、その時マデリーンの声を聞きつけた人々が大勢、中庭へ駆けつけてきた。あられもない格好をしたふたりに、大勢の侮蔑の眼差しが注がれる。
――淫売。
誰かがぼそりと呟くのが聞こえた。
――他人の家の庭で、なんとみっともない。
――所詮は平民だな。
ただ襲われただけ、未遂だと言っても、きっと信じてもらえない。それに打ち砕かれた心で、即座に反論などできるはずもなかった。
乱れた格好のまま愕然とするマデリーンは、その後、自分がどうやって自宅まで帰ったのか覚えてすらいない。
そして翌日には、例の出来事は、マデリーンが人目も憚らず男爵を誘惑したせいだということにされてしまっていた。
男爵が無理強いしたという証拠はどこにもなく、目撃者がいたところで、貴族と平民どちらの味方をするかは明らかだ。それを証明するかのように、ペネロペたち侍女が男爵の取り巻きに襲われたことを訴えたが、虫の羽音ほどの効果もなかった。
「マデリーン。エヴァンズ男爵の求婚を受けなさい。汚されたお前にはもう、それ以外の道はないのだ。幸いにして、男爵は持参金はいらないと仰っている」
「可哀想だけれど……。あんなに大勢の人に、男爵といるところを見られてしまったのだもの。純潔でない女性を妻に貰ってくれる男性はいないわ」
寝室で塞ぎ込んでいたマデリーンは、見舞いという名目で訪ねてきた両親の言葉に我が耳を疑った。
「いやよ! 絶対に……それだけは嫌っ!! あんな……あんな汚らわしい男!! それに、わたくしはまだ……清らかなままですわ!」
「実際は未遂だろうとなんだろうと、人々は既にお前が傷物だと信じ込んでいるんだ。皆にとっての事実とお前にとっての真実は違う! それくらいわかるだろう!?」
「でも……そんな……」
なぜ、どうして、あのようなけだものと自分が結婚しなければならないのか。両親は、娘に酷いことをした相手を憎くは思わないのか。怒りを覚えはしないのか。
男爵はマデリーンの尊厳を奪い、未来を閉ざしたのだ。それなのに。
しかし何度拒んでも、両親が娘の意見を聞き入れることはなかった。
「あの男と結婚するくらいなら修道院に参ります! もう、わたくしのことは放っておいて!」
「口答えをするな、マデリーンッ! 私はお前のために言っているのだぞ!! 裕福な暮らしをしてきたお前が、修道院での貧しく過酷な生活に耐えられるはずがない! 現実を見ろ!」
「お父さまはご自分の生活を守りたいだけでしょう!? 知っていますのよ、お父さまの商会の経営が危ういということを!」
「何を……っ。親に対してなんだ、その口のきき方は!」
今までどんなにわがままを言っても暴力を振るったことのない父が、マデリーンの頬を殴った時に見せた、あの恐ろしい表情は一生忘れられない。
「大体、お前がもっと気を付けてさえいれば――」
「あなた……っ。もうやめて、どうかお怒りにならないで。マディだって今は動揺してものの道理がわからないだけ。きちんと言い聞かせればわかってくれますわ」
「お母さま……?」
「ねぇ、マディ。よく聞いて」
母はマデリーンが子供だった頃、よくそうしていたように腰を屈め、視線をまっすぐ合わせながら微笑んだ。わがままな子供を宥める顔だった。
「あなたが言ったとおりよ。我が家にはたくさんの借金があるの。男爵さまはそれを知って、資金援助をしてくださると仰っているわ。借金も全て返して下さるって。あなたさえ男爵と結婚すれば、わたしやお父さま、それにアーサーや使用人の皆も助かるの。だから、お願いだからお父さまの言うことに従って……ね?」
――この人たちは、何を言っているの?
自分が汚れているというのなら、汚した男爵は一体なんだというのか。
自分が傷物になったというのなら、それは本人の責任なのか。
娘の尊厳を踏みにじった相手に頭を下げ、娘を犠牲にしてまで守りたいものとはなんなのか。
――誰より傷ついたのは、わたくしのはずなのに。皆が助かる、なんてあまりに卑怯ではないの。
まるでマデリーンが悪いと責めるかのような両親の表情と口調に、思考が痺れて何も考えられなくなる。
愛情のない人たちではないと思っていた。けれど上昇志向の強い人たちだということもわかっていた。
両者を天秤にかけた彼らは、一度手に入れた贅沢を手放さずに済む道を選んだのだ。
多大なる援助と引き換えに男爵への貢ぎ物にされることが耐えられず、マデリーンはその日の内に家を抜け出し兄の許へ向かった。




