03
娘が次期アッシェン伯の心を射止められなかったことに、両親は酷く落胆していた。
そしてリデルとオスカーとの婚約の噂が広まるにつれ、彼らはマデリーンをこれまで以上に多くの夜会へ送り込んだ。
エヴァンズ男爵と出会ったのは、その時期のことだ。
「初めまして、フェナ・マデリーン。噂に違わず美しい女性だ」
「あなたは……?」
「半年前に妻に先立たれ、寂しい余生を過ごす孤独な老人です。久しぶりに社交界に復帰したが、妻に似た女性に出会えるとは神のお導きのようだ。どうぞお見知りおきを」
聞けば彼は商売人に出資をしたり、土地を売買する仕事をしているらしく、社交界では有名な金満家らしい。
そんな事情を知らずとも、ぎらぎらした指輪や金の鎖飾りを見ていれば、彼が相当裕福であることは一目見れば明らかだった。
それ以降、男爵はパーティーでマデリーンと顔を合わせるたびに声をかけ、自身の領地に関することや妻との思い出など、色々な話をしてくれるようになった。
当時、彼は五十歳。十七歳だったマデリーンにとっては祖父ほど年の離れた男性である。
きっと、自分のことを孫のように思ってくれているのだろう。妻を亡くして寂しい思いを、妻に似た自分と話すことで紛らわそうとしているのだろう。
当初のマデリーンは呑気にそんなことを考えていたが、時が経つにつれその認識は大きく変わっていった。
最初に違和感を覚えたのは、男爵がマデリーンの腰に触れた時だ。
糸くずがついていたから、と彼は言っていたが、その割にはずいぶん長いこと腰に触れていたような気がする。
他にも、髪がほつれているとうなじに触れられたり、馴れ馴れしく腕を掴まれたこともある。
男爵の視線が、自身の身体にねっとりとまとわりつくような感覚を覚えたのはいつ頃からだっただろう。
彼が笑顔を浮かべるたび、全身が粟立ち嫌な悪寒が走るようになったのは。
――でも、自意識過剰なだけかもしれないわ。
その頃にはもう、男爵と顔を合わせるだけで全身が竦むほどだったが、それでも尚マデリーンは男爵のことを完全に疑うことはできなかった。
世間知らずだったのだ。
祖父のような年齢の男性から情欲を向けられることがあるなど、当時のマデリーンは頭の片隅にも考えたことがなかった。
だから、気づけなかったのだ。
舌なめずりをして自分を狙う男爵の、獣のような視線に長いこと気づけず、ようやく彼を避け始めた時にはもうすべてが遅かったのだ
「あんないやらしい爺さんによく色目を使えるな? 孫と祖父ほども年が離れているじゃないか」
「金を出してもらえるならなんでもいいんじゃないのか? 案外、大金持ちと結婚できると喜んでるかもしれないぞ」
気づけば、周囲の男性たちは皆、マデリーンに見向きもしなくなっていた。
あれほどマデリーンを信奉し、褒めそやしていたのに。あれほど、マデリーンの歓心を買おうとしていたのに。
もはや彼らにとって、マデリーンは資産家の後妻の座を狙うしたたかな女でしかないのだろう。
夜会の華としてもてはやされていたマデリーンは、その頃には『金持ち老人の情婦』とまで揶揄されていた。
いくら父の商売が上手くいっていようと、元々平民出身の女だ。その上で身持ちが悪いと囁かれれば、貴族男性たちからは間違いなく敬遠される。
夜会で孤立したマデリーンは、両親の望んだ良縁が日に日に遠ざかっていくのを感じていた。
そしてそれに拍車をかけたのが、他でもないエヴァンズ男爵の言葉だった。
「マデリーン、どうか私と結婚してくれないか。君も私を愛してくれているだろう?」
「な、何を仰いますの? わたくしはただ、お話し相手になっていただけで――」
「そう。とても親密な話し相手になってくれて、感謝している。君は孤独な老人の無聊を優しく慰めてくれる、素晴らしい女性だ」
まるで周囲に誤解させようと言わんばかりの男爵の卑劣な言葉選びに、マデリーンは目眩を起こしそうになった。
「妙な仰り方はなさらないで! わたくしたちはそんな関係ではないでしょう」
「恥ずかしがらなくていいんだよ、愛しい人。ああ、それとも、息子や親戚連中に遠慮しているのかな? そんなものは私が黙らせてやろう。私は君の虜なのだから、何も心配することはないさ」
「やめて! 聞きたくありませんわっ!」
妻が亡くなり、まだ一年も経っていないというのに、一体この男は何を言っているのか。
しかしマデリーンがどんなに必死になって否定しても、周囲の目は冷ややかだった。
「もったいぶって……駆け引きのつもりかしら」
「老人をもてあそんで、酷い女だな」
その晩はなんとか求婚を断ったが、以降、男爵はますますマデリーンに執着を見せた。
毎日のように自宅へドレスや大粒の宝石、花や香水が送られてくる。
ドレスはすべて、身体を売る女のそれと変わらないほど大きく胸元が開いたデザインだ。中には下着まで混じっており、小さなカードにミミズの這ったような字で男爵からのメッセージが添えられていた。
『君に似合うと思って選んだものだ。今度の夜会で、私への愛の証としてこれらを身に纏ってほしい。我が愛しの女神、マデリーン』
華やかな社交の場で、平民出身であるにも拘わらず男性から言い寄られる自分を、マデリーンは誇りに思っていた。
生粋の貴族令嬢であれば幼い頃からみっちりと仕込まれる淑女としての振るまいを、マデリーンはそれより遙かに短い期間で、必死に努力して身につけた。
準男爵となった父が、社交の場で笑われないために。
そしてさまざまな美辞麗句でもって必死に口説かれるたび、これまでの努力が実ったのだと喜ばしく思った。自分は生粋の貴族令嬢より、ずっと優れているのだと。
それなのにどうして、懸命に淑女たらんと振る舞ってきた自分が、こんな下品なドレスを身につけなければならないのか。
男爵の贈り物は、マデリーンのこれまでの努力を侮辱するものだ。
――それに、『私への愛の証』だなんて……!
「ねえ、せっかく求婚していただいたのだし、少し前向きに考えてみてはどうかしら?」
「そうだな。年は少し離れているが、男爵に嫁げば一生楽に暮らせるんだし……悪い話ではないんじゃないか?」
無理強いこそされなかったものの、両親の言葉はマデリーンを酷く落胆させた。
彼らは、娘が人前でどれほどの恥をかかされたか知っているはずなのに。
「嫌よ! あんな人と結婚なんて……っ!」
せめて男爵が本気でマデリーンを愛してくれていたなら、こんなに嫌悪感を覚えることはなかったかもしれない。
けれど相手が自分を本当に愛しているかいないかくらい、世間知らずのマデリーンにだって判断はつく。
男爵の黄ばんだ目は、マデリーンを見ているわけではない。従順な若い肉体を。自分の意のままにできる美しい人形を欲しているだけだ。
「マディ、こんなに素敵な贈り物をくださる男性なんて滅多にいないのよ。オスカー卿のことは残念だったけれど、王女さまには敵わないわ」
「オスカーさまのことは関係ないわ! わたくしは、互いに愛し合える方と結婚したいだけ……!」
「お前は世の中を甘く見ている。後妻とはいえ、貴族の妻になれるなんてとても名誉なことなんだぞ? 愛だけで生きていくことはできない」
果たして両親は、これほどまでに言葉の通じない人々だっただろうか。目の色を変えてマデリーンを説得しようとする二人は、まるで同じ顔をした別人のようだ。
あまりの恐ろしさにマデリーンは自室へ逃げ戻り、男爵から送られた品物をすべて暖炉にくべた。
そして、迷惑だから今後このような贈り物はしないでほしい、とペネロペに代筆させた手紙を送りつけた。
品物に罪はないけれど、あの男の情欲が詰まった物が自分の側にあるというだけで心が汚されていくような気がしたから。
けれど男爵は、思っていた以上に厚顔無恥だったらしい。そんなことなどお構いなしに、マデリーンの許にはまた次々と贈り物が届けられた。
精神的苦痛で嘔吐し、寝込んだマデリーンを見て、さすがの両親もこれはまずいと考えたようだ。
「この品物は、恵まれない人々のために寄付しましょう」
「私たちも、少しお前に無理強いしすぎたようだ。お前の目の届かないように遠い救貧院にでも送るから、安心しなさい」
目の前から男爵の贈り物がなくなるなら、方法なんてなんでもいい。
マデリーンは特に深く考えることもなく、両親の提案に頷いた。
父の商会の経営状況が芳しくないと知ったのは、それからまた数ヶ月が経った頃だ。
「旦那様の商会、経営が危ういんですってね」
「道理で。最近、使用人の食事が質素になってると思ったのよ。ご自分たちは贅沢な生活を維持してるくせにね」
「お嬢さまをエヴァンズ男爵に嫁がせたがるはずだわ。男爵と結婚すれば、資金援助をしてもらえるでしょうし」
普段なら口さがないメイドたちの噂話を叱責するマデリーンだったが、その時はあまりの衝撃に、物陰で立ち尽くしてしまった。
――だってお父さまもお母さまも、今までと同じように……。食事だって、以前と変わらない内容で……。
だが、思い当たる節がなかったわけではない。
なりふりかまわず娘を夜会へ送り出す両親。
不自然なまでに、男爵との仲を取りなそうとする態度。
寄付すると言っていたあのドレスや宝石は。
――本当に、恵まれない人のために使われたの?




