01.
細い雨が、舗装された石畳を静かに濡らしている。
たくさんの店が立ち並ぶ城下町は、日暮れ前であれば沢山の人でごった返し大層賑やかなものだが、ひとたび灯りが落ちると途端に静けさに包まれる。
時折、酒場のほうから男たちの酒焼けした声や陽気なヴァイオリンの音色が聞こえてくるが、日中の喧騒を知っているとそれすらどこか物寂しく聞こえるものだ。
城を後にして、どれほど時間が経っただろう。
ペネロペに見つからないよう部屋をそっと出た時は、まだほんのり空が明るかったはずだ。それからはできるだけ人目につかないよう裏門を抜け、あてどなくさまよい歩いている。
少し前に落ち始めた雨は小降りのまま一向に強くなる気配を見せないものの、傘もささず長いこと歩いていたせいで、髪やドレスはもうすっかりずぶ濡れだ。
きっと化粧が流された顔は、酷い有様になっているはず。
けれど月も星も見えない夜の町にひとけはなく、濡れながら歩く女に目を留める者はひとりもいない。
オレンジ色の灯りが漏れる酒場の前を、マデリーンは足早に通り過ぎる。
愚かなことをしているという自覚はあった。
――わたくしの行ける場所など、どこにもないのに。
アッシェン領に、頼れるような知り合いはオスカーの他にいない。
けれどエミリアからああもはっきり出て行けと言われ、どうして留まれただろう。
元よりアッシェンは、マデリーンのいるべき場所ではなかったのだ。
否。
――この世界のどこにも、わたくしの居場所なんてない。
もう、どこにも。
§
マデリーンがオスカーと初めて出会ったのは、十六歳の時。まだ両親が健在で、実家の商売が一番順調だった頃のことだ。
幼い頃から実家を離れ、立派な騎士となるべく厳しい修行を積んでいた兄が晴れて正騎士となって初めての休暇の折、友人である彼を伴って帰省したのである。
兄から定期的に届く手紙で、オスカーの話題が出たことは何度もあった。
少し無愛想なところもあるが同期の中では一番優秀で、滅多に弟子を褒めない師からも認められている。自分より二つ年下だが、これ以上頼りがいのある友人はいない。
それがアーサーの、オスカーに対する評価だった。
当時のマデリーンは兄の楽しげな文面を喜ばしく思うだけで、その『オスカー』という友人がアッシェン領主の嫡男であり、次期伯爵であるとは想像もしていなかった。
手紙にはオスカーの身分にまつわる情報は何一つ記されていなかったし、たった八歳で王宮騎士団へ奉公に上がった当初、アーサーは平民出身ということで随分といじめられたようだった。
だからまさか、そんな名門貴族の子息の友人ができるなどつゆほども考えていなかったのだ。
『あのアッシェン領の跡継ぎと友人になったなんて、素晴らしいわ。早速知り合いの奥さまがたに自慢しないと』
『我が息子ながら大したものだ。アッシェン伯爵家と繋がりができれば、我が家を成り上がりと馬鹿にした連中を見返してやれる!』
両親のそんな会話を偶然耳にしたのは、兄の手紙に初めてオスカーという名前が登場して、随分年数が経ってからのことである。
両親は上昇志向が非常に強い人たちだった。
平民出身でありながら生まれ持った商才を生かし準男爵までのし上がった父と、贅沢で煌びやかな世界が好きな母。
ふたりとも子供を愛してはいたが、それと同じくらい、より高みを目指したいという欲も抱いていたように思う。息子には正騎士として身を立て、どこか息子のいない貴族の婿養子となること。そして娘には、裕福な貴族との結婚を望んでいた。
せっかくアーサーが次期伯爵を連れてくるのだからと、両親はその日、朝から張り切ってマデリーンを着飾らせた。
『マディ、いいこと。なんとかしてオスカー卿に気に入られるのよ。大丈夫、とっても素敵な方だという噂を聞いたことがあるわ』
『お前ならできるさ。これほど美しい娘は他にいないのだからね。お前が微笑みかければ、どんな男性もすぐ骨抜きになるさ』
とびきりの布地を使った少し胸元が大きめに開いたドレスに、異国から取り寄せた真珠をふんだんに使った髪飾り。普段より濃く施された化粧。
誰の目から見ても十分すぎるほど気合いが入った装いに、心底うんざりしたことを覚えている。
――わたくしの夢は、心から愛する男性と結婚することなのに。
恵まれた箱入りお嬢さまの甘い考えと笑われるかもしれない。
それでもマデリーンは、愛し愛される幸せな結婚生活を送れる相手であれば、姿形や家柄などはまったく重要でないとさえ思っていた。
しかし結局、マデリーンの心を奪ったのは王都中の貴族令嬢たちがこぞって関心を買おうとするような高嶺の花だったのだから、皮肉としか言いようがないだろう。
その、少年期特有の少し掠れた声で挨拶をされた瞬間、無様に凍り付いてしまったことを今でも鮮明に覚えている。
「マディ、紹介するよ。こいつが親友のオスカー。何度か手紙にも書いただろう?」
「お初にお目にかかる、フェナ・マデリーン。兄君のアーサーからお噂はかねがね」
冷たい瞳だった。
射貫くような、それでいて何ものをも映さぬ硝子玉のような、無機質な。
高貴な佇まいでありながらどこか全身で相手を拒絶しているような冷ややかさ。不機嫌な顔をしているわけでも大声を出すわけでもないのに、自然と他者を黙らせるような威圧感。
相手が自分より年下であることも忘れ、マデリーンは不覚にも、あっという間にその空気に呑まれてしまった。
「マデリーン、何をぼうっとしているの。ご挨拶なさい……!」
「……っ失礼いたしました! ご、ごご、ごきげん麗しく存じますっ、ステア・オスカー」
先に挨拶を終えていた母が肘で腕を突いてくれなければ、マデリーンはもっと長いこと固まり、不躾にオスカーの顔を見つめていたかもしれない。
散々な挨拶に呆れられたかと心配になったが、彼は顔色ひとつ変えず無表情のままだった。
「ごめんなマディ。こいつ本当に不愛想でさ。でも本当はすごくいい奴だから心配するなよ。まあ、俺の次くらいにだけどな」
「アーサーッ!」
「お前はアッシェン伯爵家のご嫡男になんという口をきくんだ!」
次期伯爵の肩を気安く叩く息子の姿に母は卒倒しかけ、父は慌てて窘める。
しかし元々我が道を行く性格の兄が気にした様子はない。
「いいんだよ、俺たちは親友同士なんだから。なっ、オスカー」
口笛さえ吹きそうなアーサーの態度に、青ざめた母は侍女たちに両脇を抱えられながらとうとうその場を後にする。
父も慌てて後を追いかけ、その場には兄とオスカー、そしてマデリーンの三人だけが残された。
「それにしてもお前、少しは愛想良くしろって言っただろ? ほら、うちの可愛い妹がすっかり怯えて、目を潤ませているじゃないか」
「それは……フェナ・マデリーン。本当に申し訳ない。怯えさせるつもりは――」
「えっ!? も、もう、お兄さまは大げさですわ! わたくしは気にしておりませんから、どうか顔をお上げになって、ステア・オスカー」
律儀にも深々と下げられていたオスカーの顔が、静かに元の位置へ戻る。
容貌もそうだが、所作も美しい少年だ。
けれどそれだけならば、彼がマデリーンの心をそれほどまでに捕らえることはなかっただろう。
全身に稲妻のような衝撃が走ったのは次の瞬間。
あれほど無機質だと感じた薄青色の瞳に初めて、ほんの僅かだが人間らしい感情が浮かんだ時だ。
「……聞いていた通り、仲のいい兄妹なんだな」
「もちろん! マディは世界一の妹だからな」
眩しいものを見るように目を細め、口元を緩ませたオスカーの、微笑とも呼べないほど小さな表情の変化。その少し寂しげで優しい眼差しに、気づけばマデリーンは恋に落ちていた。
そして、こう願ったのだ。
いつか彼が自分ひとりだけに特別な、満面の笑みを見せてくれることを。愛を囁き、妻としてくれることを。
愚かにも、自分にならばそれができるかもしれないと期待を抱いて。




