15.
「あの、ですがエミリアさまもお疲れのようですし、たまには心を休める時間が必要かと――」
「余計なお世話ですわッ!」
恐ろしいほど甲高い、金切り声だった。マデリーンの目尻はかつてないほどつり上がり、顔全体がすっかり紅潮している。
「知ったような口をきいて――エミリアお嬢さまの教育に関しては、しっかり考えた上で授業を組んでいます! わたくしはもう、三年もお嬢さまの家庭教師を務めているのですから!」
「ですが、エミリアさまは――」
「黙りなさい!! エミリアさまの家庭教師はわたくしよ!」
パン、と大きな破裂音が響き渡り、頬に鋭い痛みと熱が走る。何が起こったのかわからず、ジュリエットの時は三秒ほど停止した。
「あ……」
呆けたようなマデリーンの声が聞こえたのは、痺れた頭でゆっくりと、今の状況を呑み込み始めた頃だった。
叩くつもりはなかったのだと、彼女の顔を見た瞬間理解した。マデリーンは自分で自分の行動に絶望したように青ざめ、顔を強張らせていたから。
痛む頬を押さえながら、ジュリエットは何か言おうと口を開く。だがこんな状況は初めてで、なんと声を掛けていいのかすぐには答えが見つからない。
気にしないでと言うのもおかしな気がするし、怒るのも違うように思う。
「わ、わたくし――」
しばらく沈黙が続き、先に声を発したのはマデリーンのほうだ。しかしジュリエットは、その先を聞くことはできなかった。
「何を……したの?」
いつからそこにいたのか、大きく開いた扉のすぐ側でエミリアが愕然と立ち尽くしていた。エミリアの視線がジュリエットとマデリーン交互に注がれ、やがてジュリエットの顔の上で止まる。
「今、今……、ジュリエットを叩いたの? どうして?」
僅か一秒ほどで視線が外れたことを考えると、ジュリエットの頬にはそれほどわかりやすい痕がついていたのかもしれない。
エミリアの視界が次にマデリーンを映した時、その冬色の瞳には、静かで鮮烈な怒りが浮かんでいた。
マデリーンは弁解をすることもなく、これまで以上に顔色を失い立ち尽くしている。
いつも自信に満ち溢れ堂々としている彼女のその弱々しい姿は、誰の目からも、自身の非を認め突発的な暴力を悔いているように映っただろう。
しかし良くも悪くも直情型である十二歳の少女にとっては、『友人が叩かれたこと』そして『叩いたほうが全面的に悪い』という、ふたつの要素で頭が埋め尽くされたに違いない。
これはまずい。
ひりつく空気を肌で感じ、咄嗟にエミリアを宥めようとしたが、もはや時既に遅かった。
「どうして、そんな酷いことをするの!?」
ヤマユリの種が弾けるように、エミリアの怒りが爆発する。止めようと伸ばされたジュリエットの手をすり抜けたエミリアは、全身に怒りを迸らせながら、マデリーンの許まで大股で歩いて行く。
「ジュリエットはわたしの大切なお友達なの! いつも一生懸命、勉強も教えてくれるわ! なのに何で……ジュリエットが男爵夫人に何をしたの!?」
「わ、わた、わたくし――ごめんなさい……本当に……」
悄然と俯き謝罪を口にするマデリーンだったが、怒りに打ち震えるエミリアの耳にはほとんど届いていなかっただろう。
「……い」
エミリアが唸るようなくぐもった声で、何かを呟いた。昂ぶるものをなんとか身の内に収めようとしているせいか、全身がぶるぶると戦慄いている。
拳を握りしめ震えるその姿は、込み上げる激情にしばらく抗っているように見えたが、そう長くは保たなかった。
「……男爵夫人なんて……、嫌いよ」
再び紡がれた声は先ほどより低く、けれどやけに鮮明な響きを帯びて、ジュリエットの耳に届いた。
「嫌い、嫌い嫌い! 大っ嫌い!! 出てって! 出て行ってよ! 男爵夫人なんて、ここからいなくなればいいんだわ!」
「エミリア!」
激しい怒りを露わに嫌悪の言葉を吐く娘と、呼吸さえ忘れたかのように全身を酷く強張らせるマデリーンを。どちらもとても見ていられず、思わず叱責のような大声を上げる。
マデリーンが部屋の外へ飛び出して行ったのは、それとほぼ同時だった。咄嗟に呼び止めたが、聞こえていたかどうか。
まだ足が完治していないためか遠ざかる靴の音はやや不規則で、にも拘わらず間隔が非常に短い。
「どうして止めたの!?」
慌てて追いかけようとしたジュリエットをその場へ押しとどめたのは、エミリアの抗議の声だった。
「男爵夫人は、ジュ、ジュリエットをたた……叩いて……っ! う゛、うぅ――~~~……っ」
友を侮辱されたことが余程悲しく、悔しかったのだろう。非難は途中で涙声に代わり、両目からぼろぼろと大粒の雫が零れ始める。
「エミリアさま……」
顔をみぞおちへ押しつけるように抱きつき、不格好な声を上げて号泣するエミリアを、ジュリエットは放っておくことができなかった。
服を濡らす涙の温かさに戸惑いながら、華奢な背や小さな頭をぎこちなく撫で、抱きしめる腕に怖々と力を込める。
初めて娘を抱きしめたにも拘わらず、けれどジュリエットは気もそぞろだった。
部屋を飛びだしていく直前、マデリーンが浮かべていた表情。
それが、ジュリエットの目にはなぜかとても――とても傷ついて、打ちのめされていたように見えたのだ。
――マデリーンが部屋へ戻ってこない。
血相を変えたペネロペがオスカーにそう報告したのは、その日の夜更け過ぎのことだった。




