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 考え事の原因を頭の隅へ追いやり、ジュリエットは改めてエミリアの様子を観察した。表面上は明るい笑顔で取り繕っているものの、やはり普段に比べると、かなり気落ちしている。

 籠ぎっしりに詰まっていた菓子類もさほど減ってはおらず、今手にしているマフィンも一口囓っただけだ。

 

「エミリアさまは、大丈夫ですか?」

「え?」

「悲しいお顔をなさっていますから……」


 ティーカップを置いて呼びかけると、エミリアの細い肩が小さく震える。彼女はまるで告解でもするような苦しげな顔で、それでも勇気を振り絞るようにかすかな声を吐き出した。


「ジュリエットは、わたしが何を言っても怒らない? わたし、すごく酷いことを考えてるの。とっても悪いことよ。きっとジュリエットだって軽蔑するわ」

「そんな――。軽蔑なんてするはずありません」


 主旨も聞かない内から軽率に返事をすべきでないことはわかっていたが、小さな身体を緊張に固く強張らせているエミリアを見た瞬間、ジュリエットは反射的に彼女の言葉を否定していた。

 とても酷いこと、というのはどんな内容なのだろうか。

 エミリアの側に寄り、視線を交わらせるように少しだけ屈む。急かさず静かに待っていると、エミリアが躊躇いがちに口を開いた。


「わたし……わたしね……。キティとジェーンが羨ましいの。お母さまが側にいて、あんな風に甘えられて、優しく抱きしめてもらえて……」

「エミリアさま……」

「ふたりを見てるとなんだかすごく嫌な気持ちになって、それでつい、いつも意地悪なこと言っちゃうの。キティとジェーンだって、お父さまがいなくて寂しい気持ちをしているかもしれないのに」


 罪を告白するような口調で紡がれたそれは、彼女自身が口にしたように酷いところなど何一つなく、ただただ純粋な『母』という存在への憧憬に溢れたものだ。

 片親が側にいるからいい、なんて単純な話ではない。

 母親の温かな腕にすがりつける子供たちを羨み、時に嫉妬混じりの感情を抱くこと。それは物心つく前に母を失った子供が抱くものとして珍しくもなんともない、ごくありふれた感情ではないか。

 意地悪な発言それ自体は褒められたことではなくとも、必要以上に罪の意識を抱く必要なんて何一つない。


「亡くなったお母さまを慕わしく思う気持ちは、何も悪いことではありませんよ」

「それだけじゃないの……! わたし、自分のことしか考えてないの。それが悪いことだってわかってるのに」

「そんなこと――」

「ううん。だってわたし、男爵夫人が駄目な生徒(わたし)に愛想を尽かせて、ここを出て行ったらいいって思ってたの。だからわざと、授業を真面目に受けなかったことだってあるのよ」


 理由は聞くまでもなかった。ジュリエットは既に、勘づいていたから。

 子供というのは、親が侮っているほど浅はかではない。幼いながらもしっかり、大人たちが思うより深く思惟(しい)しているものだ。


「お父さまが男爵夫人と再婚したら、男爵夫人が奥さまになって、キティとジェーンが娘になるんでしょう? そうしたら、お父さまはお母さまのことを忘れてしまうかもしれない」


 不思議だったのだ。

 エミリアが、故意でなくとも小さな子供を転ばせた後、あのようにそっけない態度を取ったことが。

 年の割に賢い彼女が、自身がマデリーンや双子の娘たちに取った態度の是非をわからないはずもない。


 けれどようやく合点がいった。

 ジュリエットはひとつだけ、思い違いをしていた。

 エミリアは父親を取られるから嫌だというような単純な理由で、マデリーンに苦手意識を抱いていたわけでも、どうにか穏便に城から追い出せないかと画策していたわけでもない。

 オスカーが再婚した時のずっと先まで見据え、亡き母の存在を守ろうと、ひとりで必死に戦っていたのだ。


「本当はわかってるの。お父さまが幸せなのが一番だって。わたしのわがままで、お父さまの幸せを邪魔しちゃダメだって。お父さまが本当に好きな人ができたら、応援しようと思っているの。でも……でもね」


 エミリアは誰とも分かち合えず、長年胸にため込んでいた苦悩を吐露するような、ほとんど独り言のような声で呟いた。


「……それでも、お父さまが愛しているのは、お母さまだけじゃなきゃ嫌なの」


 ああ、この子は。会ったこともない母親のことを本当に、これほど。

 お父さまが愛しているのはお母さまだけ。決して忘れることなんてありませんよ、と。自信を持って言えればどんなによかっただろう。けれどジュリエットはこの耳で彼のリデルへの想いを聞いても未だに、彼の心の在処がわからない。


 ――不甲斐ない親たちでごめんね。

 

 エミリアが深く俯いていて助かった。そうでなければ、潤んだ目と赤くなった鼻に嫌でも気づかれただろうから。

 

「――そうだ、エミリアさま! 明日は授業を全部やめて、お休みの日にしませんか?」


 上を向いてなんとか涙を引っ込めたジュリエットは、それでも少しだけ目の縁を濡らす涙を手の甲で拭いながら、大げさなほど明るい声を上げた。


「お、お休みの日?」


 脈絡のない提案に、エミリアは目を白黒とさせている。

 まるで空気を読めない道化になっている自覚はあったが、ジュリエットは娘のためならいくらでも道化になってみせる覚悟があった。


「ええ。授業の代わりに何か面白い遊びをしたり、お喋りしたりするんです。そうだ、盤上遊戯かカードはいかがですか? わたし、結構得意なんですよ」

「でも……男爵夫人は、休んだら休んだぶんだけ成長が遅れてしまうって」

「それもひとつの考え方ですが、ずっと歩き続けていたら足が疲れて、歩くのが辛くなってしまうでしょう? 少し休んで、気分転換するのもいいものですよ」


 これはジュリエットがかつて師事していた家庭教師からの受け売りだ。当時は厳しいところが苦手だと苦手意識を抱いていたが、今になって思えば、教え子を気遣う良い先生だったと思う。


「……ジュリエットは、わたしのこと叱らないの?」

「叱る必要がありませんもの」

「でも……! わたし、キティを転ばせたのに謝りもしなかったのよ。それなのに、あんな小さな子たちに逆に謝らせて、男爵夫人にもよくない態度をとったわ」

 

 確かにエミリアがあの時とった態度はあまり褒められたものではないが、ここまで後悔している相手を頭ごなしに叱る必要があるとは微塵も思えない。

 エミリアはわざとキティを転ばせたわけでも、取り返しのつかない怪我をさせたわけでもないのだ。


「大丈夫ですよ、エミリアさまはもう十分、そのことを後悔なさっているでしょう? 大切なのは、後悔してからどう行動するかです」


 だからジュリエットはエミリアを安心させるため、優しく微笑む。娘の求めるものを与えてあげられないぶん、自分は味方なのだと告げるように。

 

「わたしもご一緒しますから、後で男爵夫人のところへ謝りにいきましょうね」

「ん……」


 エミリアはぎゅっと唇を噛みしめ、赤子の時と同じ今にも泣きそうな顔で頷いた。

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