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12.

 ひとしきりオスカーを嘘つきと責め立てた後、スーザンはいきなり激昂を収めた。


「……何さ。人殺しのくせに、偉そうに」


 睨むように両目を眇めた彼女は、これまで保っていた最低限の遠慮や礼儀を捨て、低い声で不穏な言葉を吐く。

 苦し紛れの捨て台詞にしても、信じられないほど不遜だ。自身の期待を否定するようなオスカーの言葉に落胆し悔しさを募らせるあまり、頭に血が上ったのかもしれないが、いくらなんでも度を超している。


 確かにオスカーは騎士の任務で敵の命を奪ったことはあるかもしれないが、それは民の平和や安全のためだ。王命を受け敵から人々を守る騎士たちは、国の英雄だ。少なくとも同胞から、人殺しと呼ばれるいわれはない。

 けれどスーザンが言わんとしているのは、そういうことではないようだ。


「あたし、知ってるんだからね。奥さまが死んだのは、ご主人さまのせいだって。いくら邪魔者だったとはいえ、元王女を殺すなんてすごい勇気」


 本気でそう思っているのだとすれば想像力がたくましすぎるし、八つ当たりにしても質が悪い。あまりの荒唐無稽さに、驚きを通り越して呆れてしまう。

 すぐさま叱責の声が飛ぶだろうと待っていたが、意外にも、オスカーは黙したままだった。

 いきなり頬を張り飛ばされたかのように軽く目を見開き、息を詰めて立ち尽くしている。その氷色の瞳が、ここではない別のどこかを映しているように見えたのは気のせいか。


「旦那さま……?」


 声を掛けたのは、ほとんど自然な行動だった。

 心ここにあらずといったオスカーの表情が、風に乗って飛んでいくランタンを思わせたから。ぼんやりと光りながらふわふわ頼りなく、やがて空の彼方へ消えていってしまいそうな。


「旦那さま!」


 だからジュリエットは手を伸ばし、ランタンに繋がる紐を掴む。

 呼びかけに、オスカーの瞳が徐々に力を取り戻し、そして彼は夢から覚めたような顔をした。ゆるりと冷めた目が、スーザンを捉える。

 

「……言いたいことは……それだけか。ならばその肖像画を置いて、今すぐここから立ち去れ。お前の処分については、後ほどカーソンから話があるだろう」


 たっぷりと間を取りながら紡がれた声は少し揺れていたが、それはほんの最初だけ。

 鋭い(はさみ)で布を裁ち切るような声音で容赦なく話を打ち切ったオスカーは、常日頃と同じく領主に相応しい威圧感を持って、スーザンを見下ろす。

  

「っ……、ふん。言われなくても置いてくよ。こんな物持ってたってしょうがないし」


 多少たじろぎはしつつも、へらりと唇を歪めて舐めたように笑う姿には、いっそ薄ら寒ささえ覚える。

 彼女の一連の行動は、雇用主の性格如何によっては、鞭打ちなど体罰を受ける可能性すらある危ういものだ。司法を通さない体罰は違法だが、この世に生きる全ての人間が正しく生きているわけではない。悪知恵の働く人間などいくらでもいる。

 かつてに比べて文化や思想が格段に進歩したとはいえ、エフィランテではまだ、平民の命は貴族より軽いのだ。

 無論オスカーはそちら側の人間ではないが、彼がその気になれば、使用人に解雇以上の重い処罰を与えることはできるのだ。

 だというのにスーザンは、欠片もそんな心配を抱いてはいないように思える。単なる考えなしというのならそれで済むのだが、これはまるで、何か底知れぬ自信でもあるかのような。


「あーあ、白けた。お嬢さまもご主人さまも、こんな絵ひとつでバッカみたい」

「スーザン! ねえ、待って。スーザン」


 オスカーもそれに気づいたかどうか。押しつけるように肖像画を渡し、後味の悪さと捨て台詞を置き土産に去って行くスーザンを、彼は呼び止めない。

 代わりにジュリエットの隣にいた侍女が非難と焦りを滲ませた声でスーザンを呼んだが、遠ざかる足音が戻ってくることはなかった。

 廊下にはようやく静けさが戻ったが、それは非常に居心地が悪いもので、ジュリエットは早くエミリアの部屋へ行こうと侍女に視線で促す。

 侍女もその提案に賛成だったようで、オスカーへ深々と頭を下げてから、決まり悪そうにその場を離れた。


「あの、伯爵閣下。わたしも失礼いたします。これからエミリアさまのお部屋にお邪魔する予定があって。……ええと。その……、災難でしたね。それでは……」


 そそくさと労りの声をかけてから彼の横を通り過ぎたが、聞こえていたかどうか。

 オスカーは肖像画を抱きかかえたまま、ジュリエットの言葉に反応することもなく、祈りを捧げるように目を瞑り佇んでいた。



§



 ――いったい、なんだったの。


 椅子に腰掛けたままぼんやりとするジュリエットの心に、何度目かの自問が浮かぶ。

 オスカーがスーザンへ言い放ったあの言葉が、先ほどから繰り返し繰り返し、頭の中で再生されていた。


『私が愛し、伴侶に迎え、妻と呼ぶ女性は、リデル・ラ・シルフィリア・ディ・アーリング。彼女ただひとりだけだ』


 あの場にはエミリアも王族も、もちろんリデル当人もいなかった。


『私が愛し、伴侶に迎え、妻と呼ぶ女性は――』


 誰に主張する必要もない場面だった。それなのに。


 ――でも、だって。だけど。


 壁に掛けられたリデルの肖像画。

 夕食会の席で、椅子だけが置かれたオスカーの右隣。

 母を慕うエミリア。

 未だに空のままの、伯爵夫人の座。


『リデル・ラ・シルフィリア・ディ・アーリング。彼女ただひとりだけだ』


 ――わたし(リデル)を、旦那さまは。


「ジュリエット。ねえ、ジュリエットったら」

「わぁぁっ!」 


 モグラが穴から出てくるように、目の前に突然にょきっとエミリアの顔が現れ、ジュリエットは飛び上がらんばかりに驚く。

 煩く鳴り響く心臓を押さえながら、実際に少し浮いてしまった身体を元の位置に戻せば、胡乱げなエミリアの瞳と目が合った。


「ど、ど、どうかしましたかっ、エミリアさま」

「どうしたのはこっちの台詞よ。お化けでも見たみたいな声を出して……」


 それもそうだ。先ほどのジュリエットの悲鳴は、十二歳の可愛い少女に向けるにはあまりに失礼なものである。


「すみません。少し、考え事をしていて……」

「もしかして、どこか具合でも悪いんじゃないの? 今日は夏にしてはちょっと冷えたものね。乗馬の見学がいけなかったのかしら」

「あ……いえ……、違うんです。体調は問題ないので、どうぞお気になさらず。お茶の時間にごめんなさい」


 侍女と共に菓子と茶器を運んだジュリエットは、今、エミリアの私室のテーブルにそれらを広げ、簡易的な茶会を開いている最中だった。

 マナーレッスンのためでなく、ただエミリアとお菓子が食べたかったのだと言えば、彼女は嫌がりもせずジュリエットを部屋へ招き入れてくれた。


『励ましにきてくれたのね』


 聡い彼女はジュリエットの意図に気付き笑っていたが、喜んでいるのは表情を見れば明らかだった。

 逆に気を遣わせてしまったのが申し訳なく、ジュリエットは大したことはないと言うように微笑んでみせ、手つかずのティーカップに口を付けた。


 一体どれくらいぼうっとしていたのか。

 淹れた時は確かに熱かったであろうそれは、いまや赤子が口にしても火傷しないほどの温度にまで下がっていた。

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