11.
「ご、ご主人さま……! ち、違うんです。あた、あたしは、ただ、掃除をしようと……。そ、そう! この額が汚れていたからっ!」
「聞いたことにだけ答えろ」
スーザンの下手な言い訳は、けれどオスカーの鋭い声によって瞬時に遮られる。
「それに、今は清掃の時間ではないはずだ。つい先ほど指摘されたばかりのはずだが、もう忘れたのか?」
これまでなんとか穏便に収めようと、主人へおもねるような視線を纏わり付かせていたスーザンが、小さく息を呑む。
今彼女の頭の中では、自分が先ほど口にしたありとあらゆる主張の数々が、めまぐるしく駆け抜けていることだろう。
あの聞くに堪えない暴言は既に誤魔化しようもなく主人の耳に入り、そして取り返しが付かないほどの怒りを買ってしまった。
己の置かれた状況がどれほど不味いか、ようやく悟ったのだろう。それまでなんとか笑みを浮かべていたスーザンの浅黒い肌が、たちまち赤く染まる。
「メイドのお前が、一体誰の許しを得てその肖像画に触れている? 立場をわきまえろ」
「……で、でも、だって。ご主人さまだって、男爵夫人のことがお好きでしょ!?」
「――何?」
この期に及んで、まだ反発しようと足掻く姿はある意味賞賛に値する。
ただでさえ冷えていた廊下の空気が、ここにきて一気に凍てついたことに気づいていないのか。あるいは自棄になるあまり、どうでもいいと考えているのか。
スーザンは酷く歪んだ、それでいて狂信者のような解放感に満ちた笑みを浮かべ、自分こそが正しいと信じて疑わない調子でオスカーに詰め寄る。
「あたし、聞いたんだからっ! ご主人さまが昔、男爵夫人と――マデリーンさまと相思相愛だったってこと!! ご主人さまが本当に妻にしたかったのはマデリーンさまで、死んだ奥さまは邪魔者だったんでしょうっ!?」
勢いづいたスーザンが止まることはない。
一から十まで綺麗に並べ立てられた彼女の言葉は、ジュリエットにとって、皿に盛られた小さな毒入りの飴のようなものだった。
スーザンはそれを、食べたくもないのに一粒ずつ強引にジュリエットの口にねじ込んでくる。
苦い毒が内側からじわじわと広がり、心を黒く染めていく。
そうしてスーザンはひときわ大きな毒入りの飴を、勝ち誇った顔で差し出す。
「ご主人さまはマデリーンさまをまだ愛してるから、この城に招いたのよね! 再婚するつもりなんでしょ!? だったら、こんな肖像画なんて早く燃やして、マデリーンさまの姿絵に変えるべきよ!!」
胸の奥に鋭い刃を突き立てたような痛みが広がり、ジュリエットは息を止めた。
オスカーの答えはわかりきっている。だからこそ聞きたくなくて、耳を塞ぎたいのに手が動かない。この場から立ち去りたいのに、足が少しも動かない。
一度絶望したからと言って、二度目も絶望しないわけではないのに。
「王家に義理立てしているのか知らないけど、ご主人さまだって早くマデリーンさまと一緒になりたいんでしょ!? もったいぶらないでさっさと再婚してくださいよ! そしたらあたし、奥さま付きの侍女になれる、んだか、……」
熱くなった頭が急速に冷えたかのように、突然、スーザンの声が尻すぼみに小さくなっていった。彼女の視線の先には相変わらずオスカーが佇んでおり、感情を消した目で、無礼なメイドを睨めつけている。
「黙って聞いていれば、先ほどから、何を訳のわからないことを言っているんだ」
数秒の沈黙の後、不気味なほど静かな声がその場を打った。
棒立ちのまま押し黙るスーザンは、まるで蛇に睨まれた蛙だった。表情は完全に強ばり、先程まで浮かべていた笑みを中途半端に収めようとしたせいで、唇が奇妙に歪んでいた。
「私が男爵夫人と再婚? 彼女を愛している? 出来の悪い芝居の筋書きでも、もっとまともなことを書くだろうな」
「え、え? だって、ご主人さまはマデリーンさまと」
「黙れ。お前が誰から何を聞き、そんな自分にとって都合のいい勘違いをしたのかは、私にとってどうでもいい。どうせ予想はついている」
オスカーの指摘に、何か思うところがあったのだろう。興奮で紅潮していたスーザンの顔は今や驚くほど色を失い、唇まで真っ白に染まっている。
「……だが、いいか。よく聞け」
真冬に冷水をかけられたような顔をして愕然と目を見開くメイドに、オスカーがコツコツと、靴底を鳴らしながら一歩ずつ近づいていく。
音が、止んだ。
スーザンの目の前で立ち止まった彼は、一言一言区切るように、はっきりと言い放つ。
それは静かでありながら、確かな信念を感じさせるまっすぐな声であった。
「私が愛し、伴侶に迎え、妻と呼ぶ女性は、リデル・ラ・シルフィリア・ディ・アーリング。彼女ただひとりだけだ」
嘘、とスーザンが悲鳴のような声を上げる。
――初めて、彼女と意見が合った……。
目の前で繰り広げられる現実を受け止めきれないジュリエットは、呆然と、ただそれだけを思った。




