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08.

「ジュリエット先生!」


 ひとしきり走り終えた後、エミリアは騎士たちを置いて一早くジュリエットたちのいる場所まで戻ってきた。

 馬からひらりと飛び降り、華麗に着地し、手綱を引きながら満面の笑みでやってくる。

 先ほどの凜とした姿とは別人のような無邪気さに、ジュリエットは笑みを零しつつ、乱れた黒髪を軽く指先で整えてやった。

 エミリアの傍らにいる馬が、構ってほしいと言わんばかりにぶるると鼻を鳴らす。黒くつぶらな瞳は金色の睫毛で縁取られ、すっと通った鼻筋が美しい。近くで見るとますます、ビロードのような艶々とした光沢が眩い。


「紹介するわ。ゴールディよ。異国で生まれた子で、わたしが三歳の時、おじさまがお誕生日の贈り物としてくださったの。まだ子馬だった頃から、わたしがずっとお世話をしてきたの」


 自分より何倍も身体の大きな馬に怖じることなく、鼻面を優しく撫でるエミリアの目は優しい。ゴールディと呼ばれた馬の目も同じく、主人に対する愛情と信頼に満ちているように思えた。

 大人しい気性なのか、ジュリエットが手を伸ばしても逃げることはない。触れてみると、想像以上に固い手触りだった。

 

「おじさまと言うと、奥――お母さまのご兄弟ですか?」


 しばらくゴールディを撫でたところで、改めて問いかける。

 オスカーに兄弟はいない。

 これまでに見聞きした情報から、彼が積極的に人付き合いを行っているとは思えないが、珍しい子馬の贈り物といいジョエル王子の誕生日の件といい、王家とは未だに密接なやりとりがなされているのだろう。


「ううん、イーサンおじさまはお母さまの従兄なの。とっても優しくて素敵な方よ。いつもお誕生日や記念日に、色々な贈り物をくださるの。ジョエル王子さまのお誕生日に着ていくドレスも、おじさまが王都一の仕立屋さんにお願いしてくれるんですって!」


 誇らしげな表情からは、エミリアが心底イーサンを慕っていることが伝わってくる。

 リデルが生きていた頃、オスカーとイーサンの関係性はとても良いものとは言いがたかった。駆け落ちを疑われたため、リデルもまたイーサンと疎遠になっていたが、今は関係も改善されているのかもしれない。

 ジュリエットとしては、前世で実の兄のように大切に思っていた従兄とエミリアが良好な関係を築いていることは、素直に嬉しかった。

 イーサンは子供の扱いが上手だ。十四歳も離れた年下の従妹の許へ足繁く通い、寂しい気持ちを慰めようと心を砕いてくれる、優しい人だった。

 エミリアの様子を見ている限り、きっと面倒見のいい性格は今も変わっていないのだろう。

 

「素敵なおじさまなのですね」

「ええ! 今度、ジュリエットにも紹介するわ」


 大きく頷いた後、エミリアははっとしたように声をひそめた。


「でも、わたしが馬に乗ることは内緒ね。おじさまはとっても心配性だから、前にわたしが馬に乗る話をしたら、女の子がそんなことをするのは危ないって心配されちゃったの」

「もったいない……。思わず見とれるほど綺麗なのに」

「ジュリエットったら。嬉しいけど、乗馬くらいで大げさよ!」


 紅潮した頬は、きっと運動で上気したせいだけではない。手綱を握る手を落ち着きなくぶんぶん振るエミリアは、照れくさそうにしながら笑みを堪えるような顔をしていた。

 もしかして、褒められ慣れていないのだろうか。

 ピアノの授業の際も、エミリアは自分の駄目な点ばかりに注目し、必要以上に苦手意識を持っていたように思う。


「くらい、なんてとんでもありません。エミリアさまはご自分の乗馬の腕前を、もっと誇るべきです」

「そんなこと言われたの、初めてだわ。たしなみ程度ならまだしも、乗馬の腕を磨いたところで、淑女としてはあまり意味がないって。馬のお世話なんてしている暇があったら、少しでも教養を身に着けなさいって……」

「――それは、お父さまが?」

「ううん。元々わたしに乗馬をするよう勧めてくれたのは、お父さまなの。アーリング家のご先祖さまは騎馬民族で、馬が生まれると〝祖先の命が還ってきた〟と言ってとても大事にしていたそうよ。反対したのは、男爵夫人」


 そう言われた時のことを思いだしたように、エミリアが視線を落とす。年に似合わぬ深いため息をつきながら。


「乗馬をすると体幹が鍛えられますし、姿勢も美しくなります。踵の高い靴を履いてダンスを踊る時、国王陛下に謁見する時、必ずそれが役に立つはずですよ。それに、役に立つことしかしてはいけない、なんて決まりもありません。もちろん、やりたいことばかりするわけにはいきませんけれど」

「……男爵夫人も、ジュリエットみたいな教え方をしてくれればいいのに。ピアノの授業だって、とってもわかりやすかったわ」


 足下の小石を軽く蹴りながら、エミリアがぼそりと呟く。

 マデリーンは淑女として確かな知識や教養を備えているが、一方で、エミリアとの相性はあまりよくないようだ。


 最初に違和感を覚えたのは、謝罪のための夕食会へ赴いた翌日。

 朝食の席で、エミリアは食前の祈りを口にした。とても、これまで真面目に祈りの言葉を唱えたことがないとは思えないほど淀みなく。

 次に違和感を覚えたのは、マデリーンからエミリアの授業のため教本を譲り受けた時だった。


 エミリアは、わざとできないふりをしている――。

 そう言ったら、少々語弊があるかもしれない。エミリアはまっすぐな娘だ。そこまで器用な演技で周囲を騙すとは思えない。

 ただ、真面目にやりさえすれば本当はもっと優秀な子であることは間違いないだろう。


 エミリアは記憶力が悪いわけでも、呑み込みが遅いわけでもない。むしろ賢く、呑み込みの早い生徒だ。

 かといって、いくら教師が必死になって勉強を教えたところで、教え子が拒絶すれば成長は難しい。

 この件に関しては、一概にマデリーンばかりを責める気にはなれない。

 それでも、エミリアにとって『父に懸想する女性』というのは、誰だろうと疎ましいものなのだろう。


「男爵夫人はいつもお説教ばかりで、ちっとも言うことを聞く気になれないの」

「でも……男爵夫人も一生懸命、エミリアさまを立派な淑女に育てようとなさっておいでですよ」


 恐らくマデリーンも、初めから説教ばかりしていたわけではないだろう。

 丁寧に、そして熱心に、エミリアを諭し導こうとしていたはずだ。だが、いくら教えても身につけようとしない、真面目に覚えようとしない。そんな教え子に焦るあまり、やがて口を酸っぱくして、欠点ばかりをうるさく指摘するようになった。

 そして、苦手な相手に強く言われれば言われるほど反発したくなるのが、人間の性だ。

 口やかましいマデリーンに対してエミリアはより一層苦手意識を募らせ、勉強やレッスンにも身が入らなくなる。これは、卵が先か鶏が先かという類いの話だ。

 そういった悪循環の結果、エミリアは貴族令嬢として十分な教養を身につけることなく、十二歳という年齢になってしまった。


「男爵夫人からいただいた教本には、たくさんの書き込みがありました。熱心な家庭教師の証です」


 単なる慰めや気休めでなく、本心でそう感じたことを口にする。

 オスカーの信頼を得るためではないかとエミリアは疑っていたが、もしそうだとしても、マデリーンが懸命に家庭教師を務めようとしている事実は変わらない。


「そう、かしら……。でも、ジュリエットにそう言われたら、信じようっていう気持ちになるから不思議だわ」


 しょんぼりと落ち込んだエミリアの顔に、ようやく笑みが浮かぶ。そのことに安堵するあまり、ジュリエットは気づけなかった。

 開け放たれた二階の窓から、マデリーンが自分たちの会話に耳を澄ませていたことに。

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