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07.

 乗馬は貴族のたしなみだ。

 基本的な移動手段が馬車になって久しいとはいえ、たとえば友人から遠乗りや狩り、馬球技などの遊びに誘われ、乗馬ができないでは話にならない。

 貴族にとっての社交とは何も、舞踏会や晩餐会に参加することだけではないのだ。

 

 いっぽう、貴婦人に求められる乗馬技術は紳士たちに比べればずいぶん易しいものだ。

 狩りや遠乗りに出かけることがあったとしても、それはあくまで夫、あるいは保護者の供として。女性が狩りに直接的に参加することはないし、馬球技も遠乗りも基本的に男性が主体の娯楽だ。


 貴婦人が馬に乗る際は必ず横鞍を用い、足をそろえて横座りが基本である。

 もし、男性と同じように馬に跨がり自由に駆け回ろうものなら、頭の固い貴族たちは口をそろえて、はしたないと批判するだろう。

 女性の美徳は何より、しとやかなこと。足を大きく開いて馬に跨る行為は、彼らの求める理想の女性像とは正反対だ。

 けれどこの光景を前にして、果たして同じことを言えるだろうか。


 ――綺麗だわ……。

 

 エミリアが騎乗するのは、艶やかな月毛の駿馬だった。

 陽光に照らされたなめらかな体毛は黄金色に輝き、長いたてがみや尾は風になぶられ、力強く揺れていた。

 固い蹄は土を蹴り、草や砂埃を巻き上げ、煙のようにたなびかせている。


 ライオネルの葦毛、そしてザカライアの乗った栗毛の馬に挟まれるように併走するエミリアの姿は、乗馬の技術がなどと論じるようなものではない。

 人馬一体、という言葉がこれほど似合う光景が他にあるだろうか。まるで生まれた時からひとつの存在であるかのように、エミリアは悠々と黄金の馬を乗りこなしていた。


 力強い足音が重々しく空気を揺らし、大地を震わせる。それはジュリエットの立っている場所にまで伝わり、足の裏に見えない力を送り込むかのようだ。


 軽やかに、伸びやかに。

 羽が生えたように自由に駆け回る姿は、女神の園を守護するという戦乙女を思わせた。


「本当に、綺麗。ねえ、メア――」


 傍らにいるメアリに呼びかけようとしたジュリエットは、しかし、中途半端に言葉を途切れさせた。少し離れた木陰にひとり佇む、ミーナの姿が目に入ったからだ。

 彼女はエミリアを見守りながらも、どこか遠い場所を見つめているようだった。

 その表情が、世界にたったひとり取り残された子供のように見えて、気づけばジュリエットはミーナのほうへ足を踏み出していた。


「あの……ミーナさん」 


 ミーナは最初、それが自分に向けられた言葉だとすぐには気づかなかったようだ。彼女の茶色い目がジュリエットを捉えるまで、数拍の間が開いた。


「何かご用でしょうか。先生」


 その数拍の間に、ミーナの顔からは先ほどまで確かに浮かんでいたはずの表情が、すっかり消え失せていた。


「ええと、その」


 咄嗟に話しかけたはいいものの、言葉に詰まる。

 どうしてあんな顔をしていたのか、なんて聞いたら間違いなく不審に思われるはずなのに、どうして何も考えずに行動したのだろう。

 若干怯みそうになる自分を情けなく思いながら、ジュリエットは必死で話題を探す。何か、会話が弾みそうな話題を。


「エミリアさまは乗馬がお得意なんですね。あまりにもお上手で、驚きました」


 必死で考えた割には、あまり気の利いた言葉は出なかった。特に親しくもない相手に唐突に近づき、わざわざ話しかけるほどのたいした内容でもない。

 今日はいい天気ですね、より多少はマシ程度の話だ。

 それきり沈黙が流れたので、ジュリエットはこの会話が失敗に終わったことを悟り、すごすごと引き上げようとした。

 しかし足を後ろへ踏み出そうとした時、ミーナが口を開く。


「……お嬢さまは勉強がお嫌いで、刺繍も楽器も大の苦手です。マナーも完璧にはほど遠く、楽器やダンスのレッスンもあまり真面目に受けられたことはございません」


 訥々と紡がれる言葉は、けれど不思議と温かく聞こえた。

 ミーナの声は、不出来な我が子を語る母親の、優しく愛おしげな響きを思わせる。まるで独白のようなその言葉に、ジュリエットは足を止めて耳を傾けた。


「ですが昔から、馬に乗っている時だけは、ああしてのびのびと楽しそうになさっておられました。乗馬だけ得意でも、伯爵令嬢として合格とは言えません。けれど私は、馬を駆るお嬢さまの溌剌としたお姿が、一番お嬢さまらしいと感じるのです」


 閉ざされた灰色の城の中で生きる彼女にとって、馬と共に駆け回る広々としたこの訓練場こそが、唯一自由と安らぎを感じられる場所だったのだろう。

 ジュリエットの位置からでは、エミリアの表情まで確認することはできない。けれど見なくてもわかる。

 きっとエミリアは頬を上気させ、氷色の目を輝かせ、風を纏う心地よさに胸をときめかせているはずだ。


「お嬢さまはジュリエット先生がいらっしゃる前日、とても楽しそうにお花やカードの準備をなさっておられました。今日も、生まれて初めてピアノのレッスンを楽しく思えたと、目を輝かせてお話ししてくださいました。馬に乗っている時と同じ、生き生きとしたお顔をなさって。そんなお嬢さまは、初めてでした」


 それまでまっすぐに引き結ばれていたミーナの唇が、その時初めてほんのわずかに緩む。

 笑みとも言えないほどのかすかな変化だ。けれどそれで十分だと思えるほど、ミーナは優しい眼差しをしていた。リデルの知る頃と同じ、母のような姉のような慈しみ深い表情だった。


 けれど懐かしさに浸る間もなく、ミーナは再び無表情に戻る。


「これまでの家庭教師は皆、よこしまな願望を叶えるためお嬢さまのご機嫌取りをして参りました。それらが、お嬢さまが勉強嫌いになった理由の一端であることは言うまでもありません。ジュリエット先生が今のまま、これまでの家庭教師と違って熱心に務めを果たされますことを、心より願っております」


 驚くほどにいつも通りの顔で、淡々とした口調で、見えない壁を貼られた。

 かつて常に柔らかな微笑を浮かべていた彼女の、一切の感情を削ぎ落としたような固い声と顔には、やはりまだ慣れそうもない。

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