05.
アッシェン城では、乗馬のレッスンは家庭教師ではなく騎士の仕事だ。
何せ『立派な騎士になるためには、齢十を迎える前より馬と寝食を共にせよ』という格言もあるくらいである。騎士は馬の扱いに非常に長けている。いくら乗馬が得意な家庭教師がいたところで到底敵うはずもない。
従って乗馬のレッスンが行われている間は、ジュリエットは自由に過ごすことを許されている。
初めの内は、その時間を利用して城内の見取り図を頭に叩き込んだり、使用人たちの名前や相互関係の記憶に努めたりしていた。
しかしそれらをほとんど覚えた今、ジュリエットがすべきことはひとつ。
自由時間を謳歌すること、ではない。
「こんにちは。乗馬のレッスンを見学しに参りました」
場所は城館裏手。厩舎に接した、広々とした馬術訓練場。
まだレッスン開始時間まで少し間があり、エミリアの姿はない。代わりにひとつに固まって談笑していた三人の騎士たちに向かって、ジュリエットは声を掛けた。
彼らがエミリアの乗馬指導係だろうか。当番制なのか、あるいは護衛騎士のように継続的に担当しているのかはわからないが、どちらにせよエミリアが世話になっていることには変わりない。
日頃城館で暮らすジュリエットと、騎士団営舎で暮らす騎士たちが顔を合わせることはそう多くはないだろうが、友好的な関係を築いておいて悪いことはないだろう。
そう、思ったのだが。
「あーーーーーっ!!」
騎士たちはなぜか一斉にジュリエットを指さし、大声を上げた。
青年たちのけたたましい雄叫びに、すぐ側の木で羽を休めていた哀れな鳥たちが一斉に羽ばたく。
――な、なに?
まるで珍獣でも見たかのような反応だ。
わたしの顔に何か付いてる? と、身振り手振りで傍らのメアリに問いかける。メアリはちゃっかり両手で耳を塞いだまま、首を左右に振った。
エミリアの誕生日会の時に挨拶をしたかもしれないが、近くで見てもぴんと来ない。しかし騎士たちはジュリエットの戸惑いに構うことなく、どこか興奮した様子で詰め寄ってきた。
「もしかして、あなたが噂のジュリエット先生!」
「アダムの〝僕の天使〟!」
「綺麗な方ですね! チョコレート色の瞳がとても素敵だ」
「……は、はい?」
――『ジュリエット先生』はともかく、『僕の天使』って何?
妙な言葉の意味を追求する間も、何やら褒められたことに反応する間もなかった。
騎士たちはにんまりと顔を見合わせたかと思えば、ジュリエットに背を向け、少し離れた厩舎へ向かって大きく手を振り始める。改めて目を凝らしてみると、厩舎の側にも人影があった。
どうやら馬に餌をやっている最中らしい。後ろ姿ではあるが、準騎士の制服を身に着け、手に飼い葉桶を抱えているのが見える。
「おーーい!!」
騎士のひとりが大きく手を振りながら呼びかけると、その人物が馬の首筋を撫でながら笑顔で振り向いた。
アダムだ。
目が合って何も反応しないわけにもいかず、小さく手を振ってみる。するとなぜか、彼は馬の首筋に手をやったまま、石のように固まった。笑顔が凍り付き、やがて雪が解けるようにすぅっと消えていく。
完全に笑顔が消えたのを合図のようにして、先ほどアダムを呼んだ騎士が再び声を上げた。
「お前の天使が来てるぞーー!!」
がらんごろんと、飼い葉桶が地面に落ちて鈍い音を立てる。
まじまじとジュリエットを見つめていた柔和な顔が、瞬く間に、熟れたトマトのように真っ赤に染まった。
「う、うわぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあ――――!!」
アダムが叫ぶ。先ほど騎士たちが上げたものより更に二倍ほど大きな大音声を上げながら、毛先が少し跳ねた鳶色の髪を振り乱し、ジュリエットたちのほうへ駆けてくる。
思わず逃げたくなるほどの気迫を前に、騎士たちはにやつき、メアリは相変わらず耳を両手で塞いでいた。
ジュリエットの十歩ほど手前で足をもつれさせて転倒するまで、アダムの叫びは止まらなかった。
「だ、大丈夫ですか……?」
問いかける声が随分と控えめになってしまった自覚はあるが、アダムに話しかける勇気を出しただけでも、自分を褒めてやりたいほどだ。
正直な話、真っ赤な顔で雄叫びを上げながら走ってくる騎士の姿は、中々に不気味だった。
「う、あっ、あば……っ、ジュ、ジュジュ、ジュリエットさん! お、おひ、おしさしぶり……っ!」
「あ……、はい。お久しぶりです」
「あのっ! いい、いまの! 今の聞いて――!?」
挨拶なんてしている場合なのだろうかと困惑している間にも、バネ仕掛けのびっくり箱のような動きで、アダムが勢いよく立ち上がる。
それなりに派手な音を立てて転んだ割には、鼻の頭に軽い擦り傷を作っただけのようだ。ただ、やはり小さな傷でも痛いのか、その目頭には薄らと涙が滲んでいたが。
「おー、アダム。派手に転んだなぁ」
「だ、だれのっ! 誰のせいだと思ってるんだ!!」
からからと笑う同僚相手に、アダムがきっと眦をつり上げた。しかし元々が温和な顔つきであることと、涙目であることが相まって、今ひとつ迫力に欠ける。
「なんだよ? 俺はただ、ジュリエット先生が来たって教えてやっただけじゃないか。お前がいつもいつも、僕の天――」
「ああぁぁぁぁ!! 余計な話はするなって言っておいただろぉぉ!?」
再びアダムが叫んだ。彼らしくない少し乱暴な口調で、同僚の襟を鷲掴んで前後に大きく揺さぶっている。
いっぽう揺さぶられているほうの騎士といえば、「すまんすまん」と、ちっともすまなさそうな顔で適当な謝罪を口にしていた。
「違うんです、違うんですジュリエットさん! 本当になんでもないんです、気にしないでください!」
「え、ええ……」
「――アッシェン騎士団の皆さまは仲がよろしいのですね」
「えぇ……」
アダムとメアリ。ふたりの言葉に交互に応えながら、自身の発した返事が肯定なのか困惑なのか、もはや自分でも判別がつかない。
あれがなんでもない人間のする表情だろうか。そして、今目の前で繰り広げられている光景は、仲がいいの一言で済ませられるものだろうか。男同士の友情というものはジュリエットにはよくわからないが、いくらなんでもメアリの感想は、ちょっと雑すぎるのではないか。
いや、深くは考えまい。時には物事を浅く受け流すことも、貴族令嬢として生きる上で必要な技術だ。
ということにしておこう。
それはさておき、大丈夫だろうか。同僚を揺さぶるアダムの目に浮かぶ涙の量は、先ほどより明らかに増えているように見える。
ハンカチを差し出すべきか迷っていた時、呆れたような声が割って入った。
「君たちは一体、何を騒いでいるんだ?」
「ご婦人の前で無粋ですよ」
ライオネルともうひとりの護衛騎士が、眉をひそめてやってくる。
騎士団は上下関係が非常に厳しい。これまで若い娘のようにかしましく騒いでいた騎士たちも、さすがに年配者から厳しく注意されれば、しおらしく押し黙るしかないようだった。




