04.
もしかして、何か命に関わる大病でも患っているのではないか。病を抱えながらも、周囲に気取られないよう普段通りに振る舞っているのではないか。
嫌な予感ばかりが募り、居ても立ってもいられず、とうとうジュリエットは声を上げてしまった。
「あのっ、どこかお加減が悪いのですか!?」
今にも扉から出て行こうとしていたオスカーが、目を見開いて振り向く。
まさかジュリエットからそんな質問をされるとは思ってもみなかったのだろう。短い沈黙の後、軽く苦笑をこぼした彼の表情に、ジュリエットは自分までもが無神経な質問をぶつけたことにようやく気づく。
「す、すす、すみません! 忘れてください! 不躾でした……っ」
いくら心配とはいえ、雇い主の個人的な事情に首を突っ込むなんてどうかしている。
先ほど、自身の症状がただの頭痛だと言い張った時よりよほど必死な態度で言いつのれば、オスカーの苦笑は困ったような笑みに変わった。
まるで、失敗を挽回しようとして空回りする子供を見るような温かい目だ。
「そんなに力一杯謝罪されると、まるで私が何か大病を隠し持っているかのような気持ちになってくるな」
「……違うんですか?」
忘れてください、と先ほど自分で口にしたにも拘わらず、またしても質問を我慢できなかった。
僅かの逡巡さえ覚えなかったのに問いかけるまでに間が空いたのは、なけなしの勇気を振り絞ったからだ。もし彼が否定の返事を口にしたらどうしよう、と惑う気持ちが、語尾を震えさせる。
――お願い。あなたまでエミリアを置いていかないで。
オスカーが返事をするまで、さほど時間はかからなかったと思う。しかし祈るような気持ちで答えを待つ時間は、ジュリエットにとって長い責め苦のようだった。
「おかげさまで、今のところ健康状態は問題ない。ただ、天気が悪かったり気温が低かったりすると古傷が疼くから、定期的に薬を処方してもらっている」
「そ、そうですか……。それはよかったです……」
優しく諭すような声に、どっと全身から力が抜けた。
覚悟を決めていた――というにはジュリエットの心中はあまりに穏やかではなかったが、もっと深刻な事態を想像していただけに、そのぶん安堵も深い。
ため息を呑み込むように、少しぬるくなった珈琲に口を付けた。そうすれば俯いても不自然に思われないはずだと信じて。
けれど流れた沈黙に勝手に居心地の悪さを感じ、ジュリエットは少し勢いを付けて顔を上げた。
「――あの、閣下」
「なんだ?」
「その……近々、エミリアさまのことで少しご相談させていただければと思っております。もしよろしければ、ご都合のよい日時をお伺いできれば嬉しいのですが……」
これまでの経緯を思えば、こうした願いを口にしたことで多少の警戒をされても仕方ないと考えていたのだが、オスカーの返事は実にあっさりしたものだった。
「ああ、もちろん。少し先になるが一週間後、真珠ノ日か紅玉ノ日の午後はどうだろうか。確かその時間帯、エミリアの授業は男爵夫人の担当だっただろう?」
「あ、ありがとうございます。それでは紅玉ノ日でお願いできれば……」
真珠ノ日でも問題はなかったのだが、少しでも長く心の準備を整える時間がほしくて、つい先延ばしにしてしまう。
たった一日延ばした程度で何が変わる、だとか、心の準備なんて大げさだ、とか。まるで人生の一大事に臨むかのような己の行動に、少し呆れてしまう。
ただエミリアに関して相談したいことがあるだけなのにいちいちこんな風に身構えるなんて、自分で自分を追い込むようなものだ。
オスカーと対峙するたびに緊張しているなんて、認めたくはないのに。
「わかった。それでは来週、時間になったらカーソンを迎えにやる」
「ありがとうございます。今日は少し曇っておりますし、どうぞお大事に」
「ああ、ありがとう。貴女のほうこそお大事に」
静かな音を立てて扉が閉まる。
遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなるのを見計らったかのように、それまで気配を消すように佇んでいたハリソン医師が口を開いた。
「城主さまのこと、気になっておられるようですね」
医師ゆえの観察眼の鋭さか、あるいはジュリエットがわかりやすいのか。落ち着かない気持ちはすっかり気取られていたようで、柔和な微笑の奥にほんの少し、からかうような色が滲んでいた。
気になっている、という言葉に秘められた意味を正しく感じ取り、ジュリエットは顔に血の気を上らせる。
人の良い医師の、冗談混じりのからかいを不快に思うほど子供ではないが、軽く受け流せるほど大人でもない。
せめて新しい生を受けたその時からリデルの記憶を持っていれば、今頃は精神的にもっと成熟していたのかもしれない。
しかし残念ながら、ジュリエットの精神年齢は実年齢とさほど変わらない。その辺にいる普通の十六歳と比べれば多少は達観しているかもしれないが、まだまだ純情な年頃なのだ。
「べ、別に先生の考えているようなことではありません。ただ、お父さままでご病気になったら、エミリアさまが悲しまれるだろうと思って……」
「ほう、なるほど。では、そういうことにしておきましょう」
「しておく、じゃなくて、最初から〝そういうこと〟なんです! わたしはエミリアさまの家庭教師として、エミリアさまのことを第一に考えていますから」
「ええ、ええ、もちろん。わかっておりますよ、ジュリエット先生」
ぱちんとハリソンが片目をつぶるが、本当にわかっているのだろうか。
胡散臭い返事に思わず半眼になったが、これ以上ムキになったら余計面白がられるに違いない。
込み上げた不満を押し戻すように無言で珈琲を飲んでいると、ハリソンが向かい側の椅子に腰掛けた。
「――ま、冗談はここまでにしておいて、そろそろ診察を始めましょうか」
引き出しから真新しい診療録を取り出したハリソンが、インク壺に万年筆の先を浸す。先ほどまでの冗談めかした空気はなく、すっかり医師の顔だ。
これ以上妙な追求を受けずに済むことに安堵しながら、ジュリエットは問われるがまま、過去の病歴や最近の体調について答えていく。
「……ふぅむ。これと言ってどこかが悪いという風ではありませんが、もしかすると環境変化による心労が重なった結果かもしれませんね」
「心労、ですか?」
「ええ。具合が悪いと言えば普通は身体の病気を疑うものですが、アンベルでは近頃、精神的な負担が肉体に害を及ぼすこともあるとされ、心理療法なるものが生み出されているのですよ」
ひとしきり診察を終えたハリソンが椅子から立ち上がり、書棚から何やらいくつかの瓶を取り出す。
中には乾燥した葉を細かくしたものが沢山入っており、少し揺れるたびにさらさらと賑やかな音を立てていた。
「痛み止めも処方しますが、寝る前にこちらのお茶も飲んでみてください。数種類の薬草を混ぜたもので、心を落ち着かせる効果がありますから。林檎のチップも入っていてとても飲みやすいですし、ぐっすり眠れるようになりますよ」
ひとまず、身体にはなんの異常もないようでよかった。
やはり、相変わらずハリソンは頼りになる医師だ。
「ありがとうございます、先生」
「いえいえ。また何かありましたら、どうぞ遠慮なくおいでくださいね」
林檎の香りのする包みを手に、ジュリエットは来た時より大分軽やかな気持ちで頭を下げた。




