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03

 頭痛自体はじっとしていればすぐに収まるのがほとんどだったが、こう頻繁だと心配にもなってくる。

 昼食を早めに切り上げたジュリエットは、医務室を訪ねることにした。


「――失礼いたします」


 声をかけてそっと扉を開けると、薬品や乾燥させた薬草、ほんの僅かな珈琲の香りが混ざり合った独特の匂いが鼻をついた。

 さまざまな薬瓶や医療器具、医学書が雑多に積まれた室内で、ハリソン医師が穏やかな微笑を浮かべてジュリエットを出迎える。


「おや、ジュリエット先生。いらっしゃい。今、丁度城主さまがいらしてるところですよ」 

「あ……。すみません、診察中だったんですね」


 ハリソンの向かい側に腰掛けるオスカーの姿に気付き、ジュリエットは慌てて頭を下げた。

 この初老の医師は以前から、医務室の扉に『診察中』の札を掛けるのをよく忘れるのだ。いつもは助手か看護婦がきちんと管理しているのだが、今、丁度席を外しているらしい。


「お邪魔して申し訳ありません。また出直してきます」

「ああ、ああどうぞ気にせず。おかけなさい。城主さまは珈琲を飲み終えたらすぐに帰られますから。先生にも今、用意しましょうね。マルジャーナ産の、とても美味しい豆が手に入ったのですよ」


 すぐに部屋を出ようとしたが、ハリソン医師の声がやんわりとジュリエットを引き留める。

 オスカーの手には、木のカップが握られていた。ハリソンはいつも医務室を訪ねてきた相手に、自身が手ずから作った木彫りのカップで珈琲を振る舞うのが趣味なのだ。

 ジュリエットに対しても、当然のようにその趣味を発揮しようとしている。


「あの、でも、大したことじゃないのでまた後でも……」

「大したことでないかどうかは僕が決めるのですよ、先生。城主さまもよろしいでしょう?」


 そう言われると、医療に関して素人のジュリエットはぐうの音も出ない。

 更に追撃のようにオスカーの声が響いては、ますます降参するしかなかった。


「私は別に構わない。ここに掛けなさい」

「……はい」

「それじゃお二方、僕は珈琲を淹れて参りますので、雑談でもして待っていてください」


 ハリソン医師は茶目っ気たっぷりに片目をつぶると、部屋の隅に置いてある棚から新しいカップを取り出し、奥へ引っ込んでいった。

 医務室の奥には小さな台所設備があり、彼はそこで薬湯を沸かしたり薬草をすりつぶしたり、あるいは趣味の珈琲を淹れるため活用している。

 奥のほうからハリソンが作業する音が聞こえ始め、残されたふたりの間には気まずい沈黙が流れた。ジュリエットはオスカーと視線を交わすまいと、意味もなくワンピースの裾をいじり始める。


 何せ初日に挨拶のため部屋を訪れて以降、彼とは一度も顔を合わせていないのだ。

 廊下ですれ違うことはおろか、遠目から見かけることも、声を聞くことさえなかった。

 相変わらず領主として忙しく働いているようで、エミリアも、朝の食事の時間以外はほとんど顔を見ることがないと言っていた。

 しかし気まずいと思っているのはジュリエットだけで、オスカーのほうは特に何も感じていないようである。

 それが普通だ。娘の友人であり、家庭教師という立場の相手に対する態度なんてこんなものだろう。


「久しぶりだな」

「え、ええ」

「ここでの生活や、エミリアの授業はどうだ? もう慣れたか?」

「は、はい」


 薬缶を火にかける音。食器が触れ合う無機質な音。珈琲豆をミルで砕く音。

 静かな医務室に流れるそれらは、ひとつの美しい旋律のように流れていく。温かい空気と心地よい音の中、ジュリエットはまるで言葉を覚えたばかりの幼児のような、ぎこちない相づちを打った。


 緊張で喉が詰まり、気の利いた言葉ひとつ返せない。本当に、頷くのがやっとなのだ。

 城の主は、そんな無礼な家庭教師の態度を叱責することもなく珈琲を飲んでいる。オスカーはもしかしたらまだ、ジュリエットが例の一件で怒っていると思っているのかもしれない。

 しかし実のところジュリエットの中にはもう、彼が両親を侮辱したことに対する怒りは残っていなかった。この固い態度の理由は、他にあるのだ。


「元気そうで何より、と言いたいが、医務室を訪ねるということはどこか具合でも悪いのか? 顔色はそう悪くないようだが」

「――城主さま、女性に体調のことを聞くのは不躾というものですよ。ご婦人には色々とあるものです」


 すかさず、医務室と奥の台所とを隔てる衝立の向こうからハリソンの声が飛んでくる。

 彼が何を言わんとしているのかなんとなく察し、ジュリエットはぶんぶんと大げさなほど首を横に振った。ハリソンは気を遣ったつもりなのかもしれないが、ジュリエットにしてみれば彼の言い方もまた少々不躾だ。


「ち、違います! これは別にそういうのじゃなく、ただの頭痛! ただの頭痛ですからっ!」

「あ、ああ。わかった。わかったから離してくれ、釦が取れそうだ」


 見ればジュリエットの手は、いつの間にかオスカーのシャツを破れんばかりにきつく握りしめていた。ぎちぎちと引っ張られたシャツには、見事に皺が付いてしまっている。 

 気まずさも羞恥も何もかも、一瞬で空の彼方へ吹き飛んでいった。


「すすっ、すみません! 本当にごめんなさい伯爵閣下! あぁ、せっかくのシャツがグシャグシャに……。火熨斗(アイロン)をかけたらちゃんと綺麗になるかしら。後でメアリに――」

「いいんだ、気にしないでくれ」

「でも――」

「本当にいいんだ。具合が悪いんだろう。そんな下らないことは気にしなくていい」


 氷色の眼差しに制止され、息が止まりそうになった。


『そんな下らないことは気にしません』


 かつて具合の悪いリデルを抱き上げた時、彼自身が口にした言葉とたった今の言葉が偶然にも重なる。リデルにとっては運命の出会いだったあの場面。オスカーは、覚えているのだろうか。


「旦――」

「お待たせしました。珈琲が入りましたよ」


 つい口にしてしまいそうになった一言は、タイミング良く戻ってきたハリソンによって遮られた。

 思わず、ハリソンに感謝の念を抱いた。動揺していたとはいえ、ジュリエットが口にしようとしていた言葉はあまりに危険だ。

 どうやらオスカーは、自身を『旦那さま』と呼ばれることを大いに嫌っているらしい。三度呼び間違えたら解雇される、などという噂がまことしやかに囁かれる程度には。


「さあ、どうぞ。マルジャーナ流の珈琲は山ほどお砂糖を入れますが、こうして牛乳とお砂糖をたっぷり入れるのがメルティア王国での最新流行なんだとか。医療技術ではアンベルに遠く及びませんが、やはり食やお洒落と言ったらメルティアですよ」


 差し出されたカップの中では、なみなみと注がれた淡褐色の液体が小さく揺れている。

 少し冷ましてから口を付けると、しっかりとした珈琲の香りと共に、まろやかな牛乳の味わいが口いっぱいに広がる。


「……美味しい!」


 あまりに美味しくて、舌を火傷しそうになった。

 実を言うと珈琲特有のあの苦みや、マルジャーナ流珈琲の甘ったるさは苦手だったのだが、これならいくらでも飲めてしまいそうだ。上品な甘さは、パンや菓子にも合いそうである。

 

「そうでしょう? 王都の貴族たちの間では、今や珈琲は前時代的な飲み物として紅茶ばかりが持て囃されていますが、古い男と言われてもやっぱり僕は珈琲が好きでね。紅茶産業が盛んなこのアッシェンでは、いつも肩身の狭い思いばかりしていますよ」 

「人と顔を合わせるたび、珈琲がいかに素晴らしい飲み物か早口で説いて回った挙げ句、皆から鬱陶しがられて〝珈琲おじさん〟などと呼ばれるようになったハリソン先生が? とてもそうは見えないが」

「おや、城主さまはこの世で最も敵に回したら恐ろしい職業が何か、ご存じないようだ。医師の権限で、普段より苦い薬をお出しいたしましょう」


 ハリソンが戸棚から取り出したのは、白い布の包みだった。

 残っていた珈琲を一気に飲み干したオスカーは、包みを受け取り椅子から立ち上がる。


「それでは、ジュリエット先生。私はお先に失礼する。ハリソン先生も、また」

「はい。二週間後に、またお待ちしておりますよ」


 ――また……って。どこかお悪いの?


 そのやりとりはまるで、定期的に薬を貰いにやってきているようにしか聞こえない。

 そういえば初めてオスカーと再会した時、以前に比べて少し痩せたように感じたのではなかったか。

 ジュリエットは立ち去るオスカーの背中を見送りながら、これまで感じたことのないような不安を覚えていた。


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