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02.

「先ほどエミリアさまは〝ふたりで演奏したい〟と仰いましたから、複数の楽器で構成された協奏曲ではなく、ピアノとヴァイオリンのみの編成である奏鳴曲(ソナタ)がいいかと思います。幸い、この音楽室にはたくさん楽譜があるようですし、後で何か探してみますね」

「いいの?」

「もちろんです。授業が終わったらいくつか見繕ってみますね」


 フォルトナーは、季節の花々や空の色の移り変わりなど、美しい自然の風景にひらめきを得て曲を作っていたと言われている。

 たった今エミリアが気に入ってくれた『雪と氷の小夜曲』と同じような曲調のソナタはもちろん、季節に合わせた選曲もお洒落でいいかもしれない。


(練習期間を仮に三ヶ月とするなら……。そうだわ、〝ひまわり〟や〝雨の夏〟もいいかも)


 季節はこれから晩春を過ぎ、初夏を迎えようとしている。きっとその頃にはエミリアのピアノも更に上達し、オスカーとふたりで楽しく演奏している様子が見られることだろう。

 そんなことをあれこれ考えていると、ジュリエットまで楽しくなってくる。

 

「ひとまず今は、基本の音階練習をしましょう。指を動かす訓練にもなりますし、各調の音階が持つ雰囲気に慣れれば、演奏するのがもっと楽しくなりますよ。閣下も、エミリアさまの上達した演奏を聴けばきっとお喜びになるでしょう」

「うん! わたし、頑張るわ!」


 父親の喜ぶ顔を想像したのか、エミリアの顔が喜色に染まり、頭が幾度も縦に動く。

 いつになく真剣な表情で鍵盤と向き合う彼女を見ていると、レッスン中にも拘わらず目頭が熱くなった。

 少しでも父親と過ごす時間を増やしたいというエミリアの、力になりたい。

 

 これまでジュリエットは、自分はあくまで年の離れた友人、そして臨時の家庭教師であり、ある程度距離を置いて接さなければと思っていた。それが、エミリアにとっても自分にとっても、一番よい関係性なのだと。

 他人だから。家庭の問題だから。

 確かに、そういった考え方も間違いではないかもしれない。

 少し前まで、ジュリエットは前世の記憶を消したいと思っていた。そうするのが、今の自分にとって最善の方法だと。

 だが、エミリアから家庭教師を頼まれ彼女と過ごす内に、本当にそれでいいのだろうかと迷いが生じるようになった。


 確かに記憶を消せば、ジュリエットは楽になれるかもしれない。

 けれど前世の記憶を失った『ジュリエット』は、果たして今のジュリエットと完全に同じ考えや感情を抱き、同じように行動するだろうか。

 目の前でエミリアが寂しい思いをしているのを見れば、もちろん心配はするだろう。

 けれどそれは、今のジュリエットが抱いているのと同じくらい強い気持ちだろうか。


(……ううん。きっとそうはならない)


 前世の記憶があるからこそ、ジュリエットはエミリアをより愛おしいと思うのだ。

 母親と名乗りを上げられないのをもどかしくも感じる。だが、腕は相手を抱きしめるためだけにあるものではない。母として寄り添うことはできなくとも、友として手を差し伸べることはできる。


 今の自分(ジュリエット)として、エミリアのためにできることは最大限してあげたい。

 たとえ互いにどんなに離れていようとも、エミリアには誰より幸せでいてほしい。その想いは、リデルがエミリアを産んだあの日から決して変わってはいない。


(だから、今はまだ……)


 いずれ記憶を消さねばならない日がやってくるのだとしても、今はまだ、リデルの記憶を消さないでいたい。

 それが、今ジュリエットの抱いている本音だった。



§



 音楽室の扉が叩かれたのは、レッスンが終わり、エミリアが礼のお辞儀をしたのとほぼ同時だった。

 

「失礼致します、フェナ・ジュリエット。お嬢さまをお迎えに上がりました」


 壁際の柱時計を見れば、ほぼきっかり終了時刻である。

 淡々と感情を抑えたような声が外から響き、ジュリエットは恐る恐る扉を開けに行った。

 侍女服の女性がひとり、佇んでいる。


「――ミーナ……さん」


 呼びかけながら、ジュリエットは微笑みかける。だが、上手く笑えている自信はなかった。

 ミーナとの再会は授業初日、ダンスの稽古を終えた後のことだった。

 その日も彼女は、こうして時間通りにエミリアを迎えにきて、最低限の挨拶を交わし――そうしてにこりともせず去って行った。


 別に、感動的な再会を望んでいたわけではない。

 というよりジュリエットは、まさかミーナが未だにアッシェン城で働いているなど、予想もしていなかったのだ。

 リデルの死後王都へ戻り、誰か素敵な相手と結婚し、幸せに暮らしている……。そんな、漠然とした想像を抱いていた。

 当時、彼女は二十歳。貴族としての結婚適齢期は多少過ぎていたが、特別遅いというわけでもない。


(それに、ミーナほど優しくて思いやりに溢れた女性は、そうそういないもの)  


 そんな風に思っていたからこそ、ジュリエットは余計に衝撃を受けてしまったのだろう。

 病弱だったリデルに親身に寄り添い、姉妹のように仲良くしていたミーナ。そんな彼女が、今や一切の感情を削ぎ落とした、人形のような表情をしていたことに。

 

 初めは、ジュリエットのことを歓迎していないのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 ミーナは誰に対してもあんな風だ、とエミリアは言っていた。


 ――でも、怖い人じゃないから心配しないでね。少し厳しいところもあるけど、本当はとっても優しいのよ。それにね、お母さまのお話をする時は、いつも嬉しそうに笑ってくれるの。


 と、こっそり耳打ちもしてくれた。

 情に厚いミーナのことだ。幼い頃から長く仕え続けた主人の死が、彼女にとって大いなる悲劇だったことは想像に難くない。

 そしてその悲劇は、明るかった彼女の性格に暗い影を落とした。

 それでもリデルの代わりにエミリアに仕え続けることで、彼女なりに心を整理しているのかもしれない。

 死別の悲しみを癒やす方法は、忘れることだけではない。故人との思い出を繰り返し偲ぶ日々の中で、救われる心もきっとあるのだろう。


「休憩時間が終わりましたら、次は乗馬の授業ですね。お嬢さまのお召し替えをしてから、厩舎へお連れ致します」

「いつもお疲れさまです」

「――いいえ。これがわたくしの務めですから」


 突き放したようにも聞こえる言葉を残し、ミーナがエミリアを連れて去って行く。

 ひとり残されたジュリエットは、扉を閉め、ため息をつきながら壁にもたれかかった。

 無表情のミーナには未だに慣れないし、他人行儀に接するのも違和感だらけだけれど、彼女と話していて表情が強張るのはそれだけが原因ではない。


 頭が、痛いのだ。

 特にそういう体質だったわけでもないのに、最近になって、たびたび頭痛が起こるようになった。

 そう、丁度、マデリーンの部屋でアーサーの肖像画に触れた、あの日から。

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