01.
ジュリエットの家庭教師としての生活は、概ね順調な滑り出しを見せた。
同輩となったメイドたちはほとんどがジュリエットに対して好意的だったし、料理人や洗濯婦など他の使用人たちも、すれ違うたび先生、先生と声をかけてくれる。
唯一、スーザンだけがいつも睨むような視線を向けてくるが、その程度は前世の苦労を思えば可愛いものだ。
「ジュリエット先生、ご指導よろしくお願いいたします」
「はい。練習頑張りましょうね」
黄色いドレスの端を摘まみ、少々たどたどしい敬語を使いながらも一端の淑女然としたお辞儀をしてみせるエミリアに、ジュリエットは微笑みを返す。
本日最初の授業は、ピアノ演奏だ。
アッシェン城の音楽室にはピアノにヴァイオリン、コルネットにフルートなど様々な楽器が備えられている。
楽器演奏は淑女のたしなみのひとつだが、特に人気なのはピアノだ。どんな楽器とも合わせやすいし、見栄えもよく、演奏会での花形とも呼ばれている。
エミリアが今、練習に励んでいるのは、隣国アンベルの有名な作曲家、アルムホルトの練習曲だ。
十二歳の少女が練習するには難易度を考えた上でも丁度いい選曲なのだが、エミリアはいつまでたってもつまずいてしまうらしい。
らしい、というのも、ジュリエットがエミリアにピアノの稽古をつけるのは今日が初めてだからだ。
ピアノは座ったままでも指導できるためマデリーンの担当だったのだが、彼女が風邪を引いてしまったおかげで、ジュリエットが臨時でレッスンを受け持つことになったのだ。
本来、楽器の練習に際してはその道専門の講師を呼ぶのが最適である。しかし優秀な音楽講師はあちらこちらで大人気で、人手が足りていない状況である。
ゆえに、家庭教師がその代わりを務めることも決して珍しくはない。
「男爵夫人が一週間前に出した課題は、練習曲の三番ですね。じゃあまず、最初から最後まで通しで弾いてみましょう」
「う……、はい」
エミリアはいかにも自信のなさそうな様子で鍵盤に手を置くと、唇を横に固く引き結んだまま演奏を始めた。
傍らに置いた椅子に腰掛けたまま、ジュリエットは静かに耳を傾ける。
強張ったような音に、ぎこちない指遣い。時折乱れるリズム。そして――大体同じような旋律で、毎回引っかかっている。
そうして最後まで弾き終えるなり、エミリアの唇から深いため息が零れた。
本人も、自身の演奏があまりよい出来でない自覚はあるようだ。
「――ごめんなさい。酷い演奏だったわよね。ピアノを弾くのは嫌いじゃないけど、上手く弾けないのが嫌で、どうしても練習がはかどらないの」
「大丈夫ですよ、エミリアさま。少し手を見せていただいてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
差し出された手をしばらく見つめ、ジュリエットは「やっぱり」と呟く。
「エミリアさまの手は、アルムホルトを演奏するのにはあまり向いていません」
「え? 手の形で向いているとか、向いていないなんてあるの?」
「もちろんです。先ほどエミリアさまの演奏を一通り聴いて思いましたが、いつも同じような旋律で失敗してしまうでしょう? 例えばここと、こことか」
楽譜の上を指でなぞると、エミリアが首を何度も縦に振る。
「そう! 何度練習しても上手くいかないの!」
「鍵盤の上で、手を大きく開いてみてください。それから親指と小指を伸ばして、同時に音を鳴らして……そうそう」
鍵盤ふたつ分の音が、ポーンと、軽やかに上がる。
ジュリエットはエミリアの手の上に己の手のひらを重ね、同じように手指を大きく開いて見せた。
ふたりの指の位置を比べると、およそ鍵盤三つ分の差になる。
「アルムホルトの曲は音域が広いものばかりで、手が小さな人にとってはちょっと難しいんです。ほら、エミリアさまがつまずいていた四小節目の和音も、六小節目のこの旋律も、指が届くギリギリの範囲でしょう?」
「……本当だわ!」
ジュリエットの説明に対し、エミリアは目から鱗と言わんばかりの表情で楽譜を覗き込んでいる。
ダンスや乗馬など他の授業を行う上でも感じていたことだが、エミリアはかなり呑み込みが早い。
単に要領がいいというだけでなく、こうして教わったことに真剣に耳を傾け、知識や技術を吸収しようとする前向きな姿勢がよいのだろう。
「わたしが特別下手だってわけじゃないのね?」
「もちろんです。たった一週間で最後まで通しで弾けるようになるなんて本当にすごいことですし、手は成長と共に大きくなりますから、今は無理してアルムホルトを弾かなくても大丈夫ですよ」
「……いいの? でも、男爵夫人が――」
エミリアなりに、マデリーンに気を遣っている部分もあるのだろう。
しかし、苦手意識を持ったまま練習し続けたら、ピアノを演奏すること自体が嫌いになってしまう可能性が高い。
一度嫌いだと感じたものは、それ以降どんなに練習しても中々上達しなくなるものだ。
音楽は本来楽しいものであることを、エミリアに実感してほしい。
「男爵夫人にはわたしから説明しますから、今はもっと別の――そうですね。フォルトナーの小夜曲などはいかがですか? 可愛らしくて綺麗な曲ですし、エミリアさまに向いていると思いますよ」
エミリアを安心させるよう優しく提案すれば、不安げに揺らいでいた瞳がぱっと喜びに輝いた。
「フォルトナー? わたし、その作曲家の曲は聞いたことないわ。ねえ、ジュリエット先生。弾いてみせて」
そう言うなり、エミリアがジュリエットに席を譲るように椅子から立ち上がる。
突然のおねだりに、ジュリエットは少々気圧されながらも素直に腰掛けた。お手本を示すのも、教師として重要な役割だ。
幸いにしてフォルトナーはジュリエットの得意分野で、小夜曲の楽譜もいくつかは頭に叩き込まれている。
「では……〝雪と氷の小夜曲〟を」
題名を告げ、鍵盤と向き合う。
すっと息を吸い込むと、後はもう自然と指が滑らかに動いていた。
きらきらとした細かい音の動き。軽やかで流麗な旋律。雪と氷の世界をイメージした高音が、飛んで跳ねる。
久しぶりの演奏に初めは緊張していたものの、段々と楽しくなり、弾き終える頃にはすっかり自分の世界に入り込んでいた。
「すごいわ、ジュリエット! 素敵な演奏だった!」
弾き終えるなり鳴り響いた拍手で、ジュリエットは我に返る。
傍らの椅子に腰掛けて演奏に耳を傾けていたエミリアが、興奮した様子で両手を打ち鳴らしていた。名前に『先生』を付けるのを忘れるほどに演奏を気に入ってくれたのだろうか。
そうだとすればとても嬉しい。
「ありがとうございます、エミリアさま」
「わたし、この曲大好きだわ。最初に題名を聞いた時は冷たい印象の曲なのかなって思っていたけど、すごく優しくて、綺麗な曲ね! 練習してみたいわ」
「よかった。曲の雰囲気がエミリアさまにぴったりだと思ったんです。トリルが多くて少し難しいと感じる部分もあるかもしれませんけれど……」
「そんなの平気よ! たくさん練習して、上手に弾けるように頑張るわ」
エミリアは、すっかりフォルトナーの曲を気に入ってくれたようだ。
やる気に満ち溢れた教え子の表情に、ジュリエットは早速、楽譜を急いで用意しなければと考える。
「それで、あのね。フォルトナーの曲で、ヴァイオリンとピアノを一緒に演奏するものはある?」
「ヴァイオリン奏鳴曲かヴァイオリン協奏曲でしたら、確かいくつかあったかと――。エミリアさまはヴァイオリンの練習にも興味があるんですか?」
「ううん、違うの。お父さまがヴァイオリンが得意だから、ふたりで一緒に演奏できたら嬉しいなって思って……」
エミリアは大切な内緒話を打ち明けるような顔で、そう話してくれた。
一見すると明るい表情に見えるが、その表情の奥にどこか寂しげな色が混じっていることに、ジュリエットは気づいていた。
(エミリアは、寂しいんだわ……)
アッシェン城で働き始めてすぐ、ジュリエットはライオネルが口にしていた言葉が真実であることを実感せざるを得なかった。
『教会での礼拝や慰問活動など特別な時以外は、城の敷地からお出になることはありません』
以前彼はエミリアの日常生活について、そのように話していた。
そしてその発言通り、ジュリエットがアッシェン城にやってきてから今日に至るまで、エミリアが城の敷地から出たことは一度もない。
(可哀想に……)
城は大勢の人間が働いていて賑やかだが、エミリアと同年代の子供はほとんどいない。いたとしてもそれは『使用人の子供』だ。忌憚ない関係を築くのはほぼ不可能だろう。
せめてオスカーがもっとエミリアと過ごす時間を多く取れればいいのだろうが、彼は彼で領主として多忙な日々を送っている。
朝晩の食事を共に摂るだけでも、相当時間のやりくりが必要なはずだ。その部分に関して責めることはできない。
(ああ、でも。あまりにも可哀想だわ)
広大な城で大人に囲まれ何不自由ない生活を送りながら、空虚で寂しい思いを抱えて暮らす娘の姿が、かつての自分と重なってしまう。
エミリアを思い切り抱きしめてあげたい。
けれど彼女の母親でもなんでもない今の自分に、その資格はない。
せっかく、また会えたのに。
抱きしめる腕はあっても抱きしめることのできないもどかしさを、ジュリエットは嫌と言うほど痛感していた。