14.
酔いが回ると人の口は軽くなる。たとえ飲んだのがさして強くない酒だとしても、量が過ぎれば同じことだ。
今日の夕食には、ジュリエットが実家から持参した赤ワインが供されていた。こう言うと、まるでジュリエットが自分の意思で持ってきたように見えるかもしれないが、それは違う。
正確には、持ち物の中に忍び込まされていたのだ。しかも、五本も。
『もし実家が恋しくなったら、メアリに頼んでマール・ワインでも作ってもらいなさい。というか帰ってきなさい。世界一お前を愛している父・ジェームズより』
そんな短い走り書きと共に。
マール・ワインとは、鍋で熱したワインにシナモンやクローブなどの香辛料、それからシロップや果物などを入れて作る飲み物だ。
分量にこれといった決まりはなく、各家庭によって配合はバラバラだ。母から娘、娘からまたその娘へと引き継がれていく味であるゆえ、レシピは門外不出と謳っている家も多い。
それゆえにエフィランテではマール・ワインのことを、『母の味』の代名詞として使うことが多い。
父は、ひとり娘を少しでも早く家に戻すことを諦め切れていないようだ。
だが、ジュリエットはマール・ワインを飲みながら里心を落ち着かせるような繊細な性格ではない。
遠方に嫁ぐわけでもあるまいし、馬車を走らせて一日もかからない距離にある実家を、そうそう恋しく思うものか。だいたい父には、折に触れて顔を見せに帰るつもりだということもきちんと伝えておいたはずだ。
――ワインを飲みながら寂しさを慰めるなんて、あまりにも発想が感傷的過ぎるわ。
ジュリエットは五本ある瓶の内、四本を歓迎会の土産として持っていくことに決めた――のだったが。
「こんな上等なワイン、滅多に飲める機会なんてないわよ! がぶがぶ飲んでちゃ勿体ないわ!」
「そうだ、安酒で薄めましょう! そうすればたくさん飲めるわ!!」
「いやだ、あなたったら天才! 見直したわ!」
ドボドボ、と盛大な音を立てながら、赤い液体が小ぶりな樽の中に吸い込まれていった。
ジュリエットが持参したワインの残りが二本と、使用人たちの食事用に常備されている安価なワインが――十本ほど。
これだけ数に差があれば、味の違いなんてわからなくなってしまうのではなかろうか。
ジュリエットはそう考えたが、盛り上がったメイドたちにそんな冷静な思考力は残されていないようだ。皆、薄めたワインを次々と口に運んでいる。
かつて父から教わった言葉を活用して表現するなら、こうだ。
彼女たちはもうすっかり、出来上がっていた。
「ちょっと誰か、厨房にチーズを貰いに行ってきて! やっぱりワインにはチーズよ!」
「塩漬け燻製肉もほしいわね。でも、貯蔵庫のものを勝手に持ち出すわけにもいかないし……」
「こうなったら色仕掛けよ。貯蔵庫の中身をわけてもらえるように、料理人をたらし込んでくるわ」
「アンタ、そのまな板みたいに真っ平らな胸で色仕掛けするつもり? やめときなさい、同僚が傷つくところなんて見たくないわ。ここはわたしが行ってくる」
「なんですって!? じゃあどっちが早く食料を手に入れられるか勝負しましょう! 目に物見せてやるわ」
ふたりのメイドがすっくと席を立ち上がり、ふらふらの足取りで食堂を出て行く。あの赤ら顔では、色仕掛けをする前に廊下で倒れてしまうのではないだろうか。
「――というか、色仕掛けって!」
「うわぁ、どうしたの先生大声出して。色仕掛けがなんですって?」
「けけっ、結婚前の女性が色仕掛けだなんて、ふふふ、ふしだらでは!?」
声が上擦ったのも無理はない。
前世では王女として、そして現在は子爵令嬢として暮らすジュリエットの価値観には、教会の説く『貞節』の観念が強く刷り込まれている。
そんな生粋の箱入り娘にとって、色仕掛けという単語はあまりに刺激が強かった。
「やーだ、先生ったらおばあちゃんみたいなこと言っちゃって。今時の恋は、女のほうから積極的に仕掛けるものよ?」
「え!?」
「〝え!?〟 じゃないわよ! 先生、まさか修道院育ちか何か? 信じられないほどのお堅さだわ」
「貴族のお嬢さまたちみたいに親が結婚相手を用意してくれるならまだしも、あたしたち庶民は強引に既成事実を作って結婚に持ち込むくらいの意気込みがないとね。あっという間に売れ残っちゃうわよ!」
――ええええ――!?
悲鳴を咄嗟に飲み込めたのは、我ながらよくやったと褒めてやりたい。
どうやら彼女たちにとって、異性に色仕掛けするというのはさほど大それた話ではないらしい。
自分がこれまで築いてきた価値観と、メイドたちの持つ価値観が違うのは当然のことだ。頭ではそう理解していたが、いざそれを目の当たりにしてみると、結構な衝撃を受ける。
――そもそも、強引って何? 既成事実って……何!?
色仕掛けの意味はわかる。男性にしなだれかかったり、甘い声で囁きかけたり、とにかく媚びを売ることだ。
既成事実も、言葉の意味自体はわかる。『誰もが認めている当たり前の物事を指す言葉』だ。だが、『強引に既成事実を作って結婚に持ち込む』とは一体なんなのか。
どうしよう、何もかも意味がわからない。聞いてみたいが、知るのが怖い気もする。
目を点にしながら呆然としていると、横からメアリの声が聞こえた。
「お嬢さま、この隙にお食事をいただきましょう」
「え!? あ、ええ」
動揺を隠しきれないジュリエットに対し、メアリは相変わらずの冷静さだ。
淡々とした口調に少し落ち着きを取り戻したジュリエットは、ひとまずメイドたちの話を脇にやり、食事に専念することにした。
先ほどからシチューに突っ込まれたままだった匙が、ようやくその役目を果たす時がやってきたのである。
懐かしのかぼちゃシチュー。
感慨深い気持ちになりながら、ジュリエットはそれを一掬い、口に運んだ。
「……ん?」
そして、猛烈な違和感に襲われた。
不味いわけではない。むしろ美味しい。
香草や香辛料を絶妙に組み合わせ、恐らく野菜を炒める際にはバターを、隠し味に砂糖を加えて作ったものだ。
料理長自慢の品というだけあって、上品でコクのあるシチューだった。
けれどこれは違う。
このシチューは、朴訥だが人情味のある料理長の性格そのままの、素朴で優しい味わいだったはずだ。
あのまったりと舌に絡みつく絶妙な濃厚さと、塩だけで引き出した素材の甘みは一体どこへ消えたのか。
周囲を見回したが、誰もこのシチューに違和感を覚えている様子はなかった。メイドたちの皿は既に空になっている。
それは、この味こそが彼女たちにとって慣れ親しんだものであることの証明だ。
『私の信条は、できるだけ素材の味を生かした料理を食べていただくことです。今時は香辛料やら香草やらで香り付けするのが流行ってるようですが、それじゃ素材本来の旨味を十分に味わってもらうことはできないと考えているんですよ』
かつてサンドイッチの作り方を教わった時、少年のように目をきらきらさせながらそんなことを語っていた料理長が、そうおいそれと自身の信念を曲げるとは思えない。
あるいは引退して次代に引き継いだのかとも考えたが、料理長を慕っていた他の料理人たちが、彼が引退したからと言ってわざわざ味を変えるものだろうか。
「お嬢さま、どうなさったのですか? お具合でも?」
一口目を食べ終えて以降、微動だにしないジュリエットにメアリが胡乱げな視線を向ける。
「いいえ、な――」
なんでもないのよ、と答えようとしたジュリエットの声は、直後、女の甲高い声によって掻き消された。
「なーにがお嬢さまよ。バッカみたい!」