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12.

 目覚めた時、気分はすっかり落ち着いていた。あれほど酷かった吐き気も目眩も、今は少しの名残すら感じられない。

 ジュリエットは身を起こし、窓の外を見る。

 夕焼けの色も、空を飛ぶ鳥の様子も、よく見知った『現実』のものだった。


「変な夢だったわ……」


 呟くと同時に、疑問符も浮かぶ。


 ――本当に夢だったの?


 寝台の上で膝を抱え、ジュリエットは己の記憶を探った。夢というものは曖昧で、目覚めると同時にその内容をすっかり忘れてしまうことも多い。

 しかし今回の夢は違った。

 空の色。空気の温度。花の香り。水の冷たさ。木の葉の歌う音。そして、ジュリアの台詞。

 その全てを、ジュリエットははっきりと覚えている。


『わたしはあなたの中に、確かに存在している。夢の登場人物でも、死人の幻影としてでもなくね』


 ジュリアはそう言っていた。

 ジュリエットの中から、ずっと外の世界を見ていたとも。


「本当に夢じゃないって……あなたが亡くなっていないって言うのなら、ジュリア。あなたは今も、わたしの中にいるの? わたしの目を通して、外の様子を見ているの?」


 胸に手を当てながら囁くように問いかけるが、返るのは静寂ばかり。身体にも、何の変化も感じられなかった。

 自分のしていたことが急に恥ずかしくなり、ジュリエットは夢の残滓を追い出すように、頭を軽く振る。

 お伽噺を信じる子供でもあるまいし、夢で出会った少女の言葉を鵜呑みにするなんて、あまりにもばかばかしい。

 思わず自嘲するような笑みを零したその時、扉の向こうからメアリの声が響いた。


「お嬢さま、お目覚めですか? 扉を開けてもよろしいでしょうか」

「ええ、入ってちょうだい」


 現れたメアリは、小さな銀の盆を抱えていた。

 それを寝台のサイドテーブルに置き、何かを探すように室内を隅々まで見回す。


「どうしたの? 何か捜し物?」

「いえ……。どなたかいらっしゃったのでは? お嬢さまのお話し声が聞こえていたようでしたので、てっきり、エミリアお嬢さまでもいらっしゃっていたのかと」


 どうやら『ジュリア』へ話しかける声が、部屋の外まで漏れていたらしい。


「夢を見ていたの。こーんな大きな、林檎のパイにかじりつく夢よ」


 いくらメアリ相手とはいえ、あの妙な夢の話を打ち開けるわけにもいかず、ジュリエットは目を大げさに輝かせて両手を大きく広げた後、さも残念そうに項垂れて見せた。


「でも、食べる前に目が覚めてしまったから、悔しくて思わず声を上げたのよ。あと少しだったのに、ってね。メアリはきっと、その声を聞いたんだわ。ああ、つやつやして本当に美味しそうだったのに、惜しかったわ」

「そうですか、それは残念でしたね」


 大して残念がってもいない調子で適当に相づちを打ちながら、メアリが盆の上のカップをジュリエットへ差し出す。

 中でゆらゆら揺れている液体は、黄色に近い透き通った緑色だ。よく見れば、細い花びらが数枚、液体の中で踊っている。


「ロージーさんから、薬草茶をいただいて参りました」

「薬草……」


 取り繕う間もなく、眉間に皺が寄った。

 ロージーの厚意は素直にありがたかったが、ジュリエットは薬草に関してろくな記憶がない。

 思い返せばあれは五つの頃。主治医が煎じた薬草を、毎日無理矢理飲ませられたのがきっかけだ。

 あまりに不味くて、今でもあの味をどう表現していいかわからない。だがあえて言うなら、地獄から摘んできた毒草と泥水と混ぜ、更に鳥の血と小麦粉を加えて鍋で半量になるまで煮詰めたら、あんな味になるのではないだろうか。

 メアリにも少しだけ味見をさせたことがあるが、目を開けたまま失神している姿に大騒ぎした記憶がある。


「大丈夫です、お嬢さま。これはあの〝泥水茶〟ではありません。飲むと気分がすっきりするそうですよ」

「え、ええ……。わかっているわ。見た目も全然違うし……あんな酷い味のお茶、他に誰も作れるわけないわよね」


 ジュリエットは自分を鼓舞しながら神妙にカップを受け取ると、立ち上る湯気に顔を近づけた。すん、と匂いを嗅いでみれば、ほのかに甘い匂いが漂う。

 拍子抜けするほどいい香りだった。

 

「……上品な香りね」


 カップの縁に唇を付けて一口。多少の苦さは覚悟していたにも関わらず、非常に飲みやすく、ほっとする味だ。火傷しない程度の熱い液体が流れ込んでくると共に、微かな甘みが口いっぱいに広がり、胃の腑から全身に向かって、じわじわと温かさが広がっていくかのようだ。


「甘くて美味しいわ。こんな薬草茶は初めて。ロージーさんにお礼を言わないとね」

「お嬢さま、食欲はいかがですか? お加減は?」

「え……? ええ、普通よ。いつも通り。体調もいいわ」


 前後の繋がっていない問いかけに、ジュリエットは戸惑いのまま、あまりに素直な返事をした。まるで言葉を覚えたての童女が、親に問われるがまま答えるように。

 ぶつ切りの返事に小さく「よかった」と頷くと、メアリはジュリエットが飲み終えたカップを銀盆の上に戻した。


「これから使用人の方々が、夕食をかねてお嬢さまのささやかな歓迎会をしてくださるそうですよ。ありがたいことに、わたしのことも招待してくださいました」

「か、歓迎会?」


 ジュリエットは妙に調子外れの声を上げた。

 

「あら、歓迎会って言葉をご存じないんですか?」

「からかわないで。驚いてるのよ、家庭教師に歓迎会なんて……」


 使用人という枠から外れた中途半端な存在である家庭教師は、大抵、どこの屋敷でも孤立しているものだ。

 例え仲間外れにしようという意識がなくとも、使用人たちは家庭教師に対してどうしても気を遣うし、態度も遠巻きになってしまう。

 そのため、家庭教師は食事や休憩時間を自室で過ごすのが一般的だ。


「まさか、エミリアさまやアッシェン伯が何か指示したわけじゃないわよね?」


 エミリアはジュリエットを気に入っているし、オスカーは娘のためならいくらでも規律を破りそうだ。


 ――少し自意識過剰かしら。


 だが、予め用意されていたこの部屋の豪華さを思えば、あながち考えすぎとも思えない。

 主人の命令で強制された『歓迎会』になんの意味があるだろう。歓迎とは名ばかりの、ぎすぎすした会になることは間違いない。


「違うと思います。ロージーさんいわく、有志の女性使用人たちが準備したそうですから」

「……本当に?」


 あくまで疑り深い気持ちで、けれど少々前のめりになりながら問いかける。実は昼から何も食べておらず、先ほどから腹の虫が控えめながらも切なく鳴いているのだ。

 

「恐らく。それと、デザートは林檎のパイだそうです」

「行きましょう」


 即答だった。

 メアリの追求を誤魔化すためについた嘘だったが、先ほど林檎のパイの話をしてからというもの、ジュリエットは無性にそれが食べたくてたまらなかったのだ。


 ――我ながら現金なものね。


 食い意地の張った自分に呆れつつ、ジュリエットは寝台から抜け出し、素早く身支度を整え始める。

 その頃には、先ほど見た夢のことはすっかり、頭の片隅に追いやられていた。


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