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10.

 念のために言っておくと、ジュリエットはアーサーの肖像画に触っていないし、手を伸ばしてさえいない。

 けれどマデリーンは憎悪にも似た激しい感情を全身から迸らせ、ジュリエットの側までやってくる。足を引きずってはいるものの、捻挫の痛みなどすっかり忘れ去ったかのようだった。 

 彼女は額縁と紋章を飾り棚の上から引ったくると、さも大事そうに胸に抱え込む。はずみで腕でも当たったのか、側に飾ってあった花瓶が床に落ち、割れて派手に飛び散った。

 

「奥さまっ!」

「お嬢さま!」


 ペネロペとメアリ、声を発したのはほぼ同時だった。慌てて飛んできたふたりはそれぞれの主人の元へ駆け寄り、急いでその場から引き離す。

 

「お怪我はありませんか、お嬢さま」

「わたしは大丈夫よ……」


 突然のことに衝撃を受けたせいで心臓は未だに強く鳴り響いているが、特にどこか痛むというようなことはない。

 そんなことより、マデリーンの様子が気にかかった。

 侍女に肩を支えられ長椅子に戻った彼女は、目を閉じたままぐったりと背もたれに身体を預けている。その顔色は生気が失せたかのように真っ青だ。

 普通、兄の肖像画に興味を向けられただけでこんな風に取り乱したりするだろうか。

 明らかに常軌を逸したマデリーンの様子に、さすがに心配になってしまう。


「あの、大丈夫ですか? 男爵夫人。お顔の色が……」

「大丈夫ですわ。驚かせてしまいましたわね」


 マデリーンは先ほどまでの迫力が嘘のように、しおらしく目を伏せている。取り乱したことを、恥じているように見えた。

 喋るのすら辛そうなマデリーンに、ペネロペがティーカップを差し出す。中には冷たいハーブティーでも入っているのだろうか。


「その肖像画は、わたくしの兄ですの」


 カップの中身を一口飲み終え、マデリーンが落ち着いた口調で語り始めた。


「アッシェン騎士団で副長を務めていたのですが、十二年前、とある事件で命を落としてしまい……。ですのでこうして肖像画や遺品を飾って、時折兄との思い出を偲んでおりましたの。まだ悲しみが癒えておらず、つい取り乱してしまってごめんなさいね」

「そ――、え……?」


 脳が、意味のある言葉を紡ぎ出すことを拒絶しているかのようだった。


 ――アーサーさまが……副長が亡くなった?


 それも十二年前、リデルと同じ時期に。『とある事件』によって。

 指先が痺れ、ガンガンと頭が痛み出す。

 またこの感覚だ。夕食会の日、ジュリエットとして初めてマデリーンを目にした時と同じ、ぐるぐると頭の中をかき混ぜられているような不快感。


 ――副長はどうして……。待って。……そうだわ。


 耳の奥で馬のいななきと、男たちの絶叫が聞こえる。目の前に広がった血だまりと、野盗たちの笑い声。

 あの時(、、、)だ。

 アーサーは野盗と交戦して命を落とした。彼だけではない。恐らく護送のため組織された隊は全滅だっただろう。

 リデルの乗った馬車を守るために。


 ――どうして、こんな大事なことを忘れていたの?


 別荘へ行くようオスカーから指示されたことも、馬車を襲われたことも、リデルが首を掻ききったことも覚えていたはずだ。

 野盗に囲まれリデルが自害しなければならない状況下で、騎士たちが無事であったはずがない。それなのに、どうして。


 ――待って。それならミーナは?


 最後に彼女の姿を目にしたのは、助けを呼びに馬を走らせる後ろ姿。その後の消息はジュリエットにはわからない。

 それなのにどうして、記憶を思い出してから今まで、ミーナの安否を一度も気にしなかったのだろうか。姉のように慕い、親友のように仲良くしていた、大事な侍女の存在を。

『リデル』なら、真っ先にそのことを心配するはずなのに。


 何かが、おかしかった。

 思い出していないこと。思い出したこと。思い出しているはずなのに、なぜか特に意識することもなく見過ごしていること。


 ――わたしは……。わたしの記憶は……?


 過去に思いを巡らせ、考えれば考えるほど、意識が不自然に濁っていく。


「うっ……ぇ……」


 吐きそうになるのを、ジュリエットは必死で堪えた。胃液がじわじわとせり上がり、目の縁に涙が溜まる。


「お嬢さま!」


 いち早く異変に気づいたメアリが、ジュリエットの傍らにしゃがみ顔を覗き込んだ。


「酷いお顔の色です。お部屋に戻って休みましょう。歩けますか?」


 ジュリエットは口を押さえたまま、無言の肯定を返した。まだ、頭の中をかき混ぜられているような奇妙な感覚がする。少しでも気を抜けば、胃の中のものを全部戻してしまいそうだ。

 酷い気分だった。  


「申し訳ございません、エヴァンズ男爵夫人。ジュリエットさまは少々気分がお悪いようです。そろそろお暇させていただきたく存じます」

「え、ええ。それはもちろん。……でも、お医者さまを呼ばなくて大丈夫ですの? よかったら落ち着くまで休んでいかれても……」


 あのマデリーンがそこまで言うということは、今のジュリエットは余程酷い有様なのだろう。

 だが、できるだけ彼女に弱みを見せたくはない。

 ジュリエットはメアリの腕を、少しだけ強く掴んだ。それだけで意思は伝わったようだ。 

 

「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、男爵夫人にご迷惑をおかけするわけには参りませんので」

「まあ。わたくしは気にしませんけれど……。でも、どうぞお大事になさってね」

「はい。それでは、失礼いたします」


 マデリーンも、それ以上引き留めるようなことはしなかった。純粋に心配そうな表情で、メアリに支えられ退室するジュリエットを見守っている。


「メアリ、ごめんなさい……」

「黙っていてください、お嬢さま。ここで戻されたら困ります」


 メアリの言い方は一見突き放したように聞こえるが、これが彼女なりの励ましだとジュリエットは知っている。

 マデリーンの部屋を慌ただしく後にしたジュリエットは、ひとまず最初にオスカーから用意されたあの客間まで戻った。既にメイドたちが新しい部屋に荷物を運び込もうとしている最中だったが、事情を説明し、寝台に横たわる。

 ロージーからハリソン医師を呼ぼうかと提案されたが、それは断った。恐らくこれは、医師を必要とする類いの症状ではない。


「少しだけ休むわ。大丈夫、ちょっとした立ちくらみみたいなものよ」


 心配そうなメアリに精一杯の微笑みを見せ、ジュリエットは目を閉じた。そして瞬く間に眠りに落ちたその先で、思いも寄らぬ夢を見ることになる。


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