歌おうよ、ギター
「Fには気をつけろよ」
僕は今、この言葉を思い返していた。
「バイバーイ」
僕は公園で友達と別れて、家へと向かう途中だった。
ジャラーン
なんだろう? 足を止めて音の方に顔を向けると、目のところまで黒い前髪が伸びている男の人がベンチに座ってギターを弾いて歌っていた。
近づいて眺めていると、お兄さんが僕の方を見た。なんだか、微笑んでいるような気がした。僕は恥ずかしくて逃げたかったけど、足は動かなかった。
僕はギターを見続けていた。
お兄さんの歌が終わったところで、僕に話しかけてくれた。
「聞いてくれてありがとう」
「こ、こんにちは……」
「こんにちは。どうしたんだい?」男の人は優しく微笑んだ。
「そ、それ……」僕は、男の人が持っているギターを指差した。
「ギターに興味があるのかい? 持ってみる?」
「う、うん! ありがとう、お兄さん!」
僕はお兄さんの横に座って、ギターを受け取った。予想していたよりも軽かった。
「これはアコースティックギターっていってね、スピーカーにつながなくても大きな音が出るんだよ。それに、使われている木によって、音が全然違うんだ」
お兄さんは缶コーヒーを飲みながら教えてくれた。
「ジャーンって鳴らしていい?」
「いいぞ、いいぞ! ここなら怒られないしな! 真ん中に穴があるだろ? その部分にある6つの弦を、上から払うようにジャーンってやってみな」
僕は人差し指の腹で言われたとおりにやってみた。
ボローン
「あれ? お兄さんのように鳴らないぞ」
「そりゃそうさ、初めてじゃ難しいぞ」お兄さんは声高く笑っていた。
「君は、音楽は好きかい?」
「うーん、どうだろ? あんまりわからないや」
「まあ、まだ小学生みたいだし、分からないよなー」
お兄さんは僕からギターを受け取り、ジャカジャカとギターを鳴らした。まるで楽器自体が喜んで歌っているようだった。
「お兄さん、カッコいいね!」
「そうかい? ありがとう。ほら、時間も遅いし家に帰りな」
いつの間にか、空の色が濃いオレンジ色になっていた。
「ギターをやりたい?」夕飯のとき、お父さんに聞いた。
「うん、カッコいいお兄ちゃんに公園で会ってさ」
おかずの唐揚げを頬張りながら、お父さんは答えた。
「じゃあ、俺のギター、使うか?」
「え! お父さんギター持ってるの?」
「一応な」
「やるやる!」
「じゃあ、弦を張り替えるから少し待ってろよ」
そうして、3日後には、ピカピカの弦が張られたアコースティックギターを受け取った。
「悪いな。磨いたんだが、どうも金属部分のくすみが取れなくてな」
お父さんはそう言ったが、僕にはどうやったって輝いて見えていた。
「あと、これコードブックな。これを使うといいぞ。ただし、Fには気をつけろよ」
「うん……」
僕はお父さんの言葉をまるで聞いていなかった。
目の前のギターに心が奪われていたから。
そして、今。お父さんからギターを借りて3週間が経った。僕はギターを横に置いて、天井を見上げるように寝転がっていた。
「できないよ、これ……」
今日が来るまでは、お父さんから借りたコードブックを見ながら、描いてある通りの場所の弦を指で押さえた。最初はとても痛かった。でも、きれいな音をだそうと、いろいろとやっているうちに少しずつその痛みもなくなっていった。
でも、今練習しているコードはどうやってもできそうにない。
「F、難しすぎるよ……」
僕は起き上がって、ギターを手に取った。1フレット目の弦、全てを人差し指で押さえる。これが、Fのコードを弾くために必要なことだった。
しかし、それができない。
何度やっても、「ボギャッ」と響かない音が耳に入ってくる。人差し指全体がとても痛い。
その時、家のチャイムが鳴った。窓の外を見ると、友達がボールを抱えて立っていた。
「じゃあーねー」
いつもの公園でサッカーをして遊んだ僕は、いつもの帰り道を歩いていた。
すると、あの場所で、あの時の音が鳴っていた。
「こんにちは、あの日の少年」
「こんにちは……」
お兄さんは演奏を止めて、僕に優しく話しかけてくれた。
「どうしたんだい? この前会った時より元気がないじゃないか。ケンカでもしたのかい?」
「ううん……」
僕はギターを始めたこと、Fのコードが弾けないことを話した。僕の話を聞き終えると、お兄さんは声をあげて笑った。
「なんで笑うんだよ!」
「いやいや、馬鹿にしているわけじゃないんだ。なんだか懐かしくてね」
「どういうこと?」
「俺もな、Fは弾けなかったんだよ」
「え!? だって、今上手に弾いていたよ!」
「最初はね、誰だって弾けないもんさ。俺は、Fのコードを弾くのに、2週間ぐらいかかったよ」
「え、そんなに!?」」
お兄さんは、うんうんとうなずいた。
「でも、どうしてギターを辞めなかったの」
「そりゃあ……」
お兄さんはギターを1回見てから言った。
「好きだからさ」
僕は家に帰って、自分の部屋にすぐ入った。
床に置かれたままのギターが、僕を見たような気がした。
僕はギターを手に取って、もう一度人差し指を1フレット目に伸ばした。
読んでいただき、ありがとうございました。