モノクローム・ボロアパート
あんな地味な女のどこがいいのかしら。
ニ〇三号室の玄関扉を見上げながら、茜は口の中で呟いた。
昨夜別れたばかりの男がそこに住んでいる。その男が女と部屋に入っていくのを、茜は今しがた偶然にも目撃したのだ。別れたばかりだというのに、男にはもう部屋に招き入れるような新しい女がいるのだ。
別れを切り出したのは男の方からだった。彼はたしかこう言ってなかったか。
「別れたい。一人になりたいんだ」
なのに、これはどういうことだろう。
それだけではない。女の顔がちらりと見えた時に沸き上がった感情は、今まで茜が味わったことのないものだ。
特に美人でもなく、着ている服も野暮ったいような地味な女に自分が負けた。これが茜の胸中で棘を出してじわじわと膨らんでいく。
茜はぎゅっと唇を噛みしめた。
突然、一〇三号室の玄関扉が開いた。中から顔を出したのは白髪の老婆だ。いかにも気の強そうな顔つきをした老婆は、怪訝な視線を茜に向けてきた。
「うちになんか用かい」
老婆のしわがれ声が響いた。
「あ、いいえ」
「そう。用がないなら早く行っとくれよ。そんなとこにいつまでも居られたら、気になってしょうがないわ」
「はぁ、それはすみません……」
茜は投げやりに言った。そんなあからさまに不機嫌そうな茜を老婆はじっと見つめる。それは先ほどとは違い、気の毒なものを見るような目だ。
「毎回毎回、あんたもかわいそうに」
同情の言葉に茜は視線を上げた。
おそらく別れた男と自分とのことを知っているのだろう、と茜は当たりをつける。大きなお世話だ。
「ほら、お迎えが来たみたいだよ」
「お迎え?」
茜は目をしばたたかせた。
老婆の示す方を振り向くと、鉄パイプで作られた塀の陰に一台の軽自動車が停まるところだった。
茜が再び老婆の方を見ると、すでに老婆の姿はない。
軽自動車からエプロン姿の女が降りてこちらへ駆け寄ってきた。
「お義母さん、またここに来てたんですか」
「どなた? それに、私はあなたのおかあさんじゃないわ」
「ああ、そうですね。茜さんでした」
「私には沢木という姓があるの。馴れ馴れしく呼ばないで」
「沢木はお義母さんの旧姓でしょ。もう、ボケちゃって……」
「失礼ね。私はボケてないわ」
「はいはい。ここはね、老朽化が激しくて近々取り壊されるんですって。危ないから帰りましょうね」
「……あら、そうなの」
「まったく、こんな誰もいないボロアパートに、なんでいつも来るのかしら……」
END